新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「運動と静止」について…

2020-10-10 13:28:46 | 認識論



「運動」も「静止」も言葉である。
どちらも、物・物体・実体のある状態を表現した言葉。

歩くのが運動ならば、
立ち止まるのは静止。

全力疾走も散歩も運動であるが…
この二つを同じ運動と表現していいだろうか?
「運動」で間違いはない、だろうが…

両者の運動強度・激しさには、大きな差…


歩行は「動く」に対して立ち止まるは「静止」。
しかし、人間は立ち止まっていても、内臓・血液・瞼・眼球…は動いている。

これは、全体的には「静止」と見えても、
個々の部分は運動している、という事である。


ここで、
歩行という位置の変化を「運動」とするので、
歩行から停止への状態変化も「運動」として表現できようか?


等速運動が、加速度運動に変化した時、
これは、等速運動という性質が、加速度運動という性質に、
変化した事になる。


変化とは、あるモノが別のモノになる・変わる事。
運動とは、その位置が変わる事。


変化も運動も同じ「変わる」である。
ならば、変化と運動の違いは?



変化はゆっくりした動き、運動は激しい動き、
どちらも「運動」と表現してもよい、のだろう。


さて…結お宅の以下のコメントによると、
>私は南郷さんの「乱取り、自由組手=運動、型=静止」という発言がどうにも理解できなかったのです。<


師範は、「自由組手=運動・型=静止」と表現している。
そして、結お宅は、その言葉を「どうにも理解できなかった」そうである。


この言葉の理解・解釈は、それ程に難しくない。


自由組手の動作は、相手の動作に即しての不規則的変化である。
それに対して、型は、型通りの全く同じ動き・動作を求めている。


このように
自由組手の不規則運動=運動、とするなら、
型の規則的運動=静止、と表現している、のである。



上記の師範の言葉を
結お宅が、「どうにも理解できなかった」のは、
「自由組手=運動・型=静止」という言葉・文字だけを見て、
現実の「自由組手と型」というモノから理解しようしなかった、からである。


これは、
言葉の相対性、
相対的な言葉表現、

言葉の弁証法的理解、
言葉の弁証法的解釈、
言葉の弁証法的把握、

が出来ないから…であろう。









コメント
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