「弁証法と論理学について」考えようと思い立ったのは、
以下のような記述に出会ったからである。
>南郷継正は 弁証法を自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問であるという。弁証法は論理学であることに気付かなかったのである。」<
この記述の書かれてあった全文は、記事の最後に転写してある。
ここでは「弁証法は論理学である」と断言している。
これは、「正しい」のか「間違い」なのか、?
それは、間違いではないが正しくもない。
例えば、「人間は動物である」と断言した時、
これは、間違いではないが正しいとも言えない。
何故なら、人間は動物であっても、他の動物と異なった側面を持っているから、人間と命名されている。
そもそも、人間と他の動物では、その生き方・一生が大きく異なっている。
それを「人間は動物と同じモノ」と断言して捉えたら、人間の人間たる所以がみて取れなくなってしまう。
犬も猫も動物である…
でも、犬は犬で猫ではなくし、猫は猫で犬でもない。
それでも、その生き方・一生には同じようなモノであろう。
だから、初めから「弁証法は論理学である」と断言して捉えたなら、
論理学と弁証法の共通点ばかりをみて取れてしまい。
結果的に、弁証法と論理学の相違点がみて取れにくくなってしまう。
しかし…この記述の著者は「tada」氏である。
ならば、この「弁証法は論理学である」という断言は、
「初め」ではなく、「結論」なのだろう。
では、何故にtada氏は、このような結論に至ったのか?
私の基本的な立場・考え方は以下である。
弁証法と論理学とは、名称が異なっている以上は別物として扱う。
ならば、どのように異なっているかが問題であろう。
素朴な弁証法レベルで捉えるなら、
弁証法は、事実・現実の連続・非連続を変化・運動としてみて取るモノ。
論理学は、事実・現実の連続を筋道としてみて取るモノ。
弁証法は、連続と非連続も変化・運動として捉えられる。
でも、論理学なら事実の連続が問題とする筋から外れた非連続の道なら、それは、その筋道・論理の対象外となろう…
言うなれば、道があるから、道筋が生まれ、それを筋道として捉えられるから「論理学」となり得る・
そこに「道がない」なら、「道筋もなく」、当然に「筋道もなく」、そこに論理学は成立しない。
しかし、弁証法的に捉えるなら、「人間が歩ける道がない」ないなら、
「獣が走っている道」を発見すればいい…である。
更に獣道も人間道もないなら、運動を起こして前に進めばよい。
進んだ結果の変化をみて取り、道を生成すればよい。
以上は、あくまで例えあるが…
別言するなら、
論理学が学として成立するには「論理がある」=「論理が分かる」必要がある。
この「論理を分かる」為のモノが「弁証法」であろう。
初めに筋道・論理があるから、事実の連続を論理的にみて取れるのである。
論理のない者が、事実の連続を論理的に捉える事は至難である。
至難であっても、経験的・感情的な行動が論理的である事もあり得る。
それでも、その者がその行動を論理的に捉えられはしないだろう…
ここでの問題は「論理的」・「正しい論理」とは、どこから生まれるのか?
でも、弁証法なら、弁証法がない・知らなくても、
事実の連続を事実的な変化・運動としてみて取る事は、
そんなに難しくないのだろう…
弁証法とは?
弁証法と論理学の区別と連関…
弁証法とは、変化・運動に関する科学、である。
弁証法には。「点の弁証法」と「線の弁証法」が考えられる。
より正確には、弁証法を「点と線」に分けて整理してみた。
点の弁証法とは、部分的な変化・運動を「三法則」的に見て取るモノ。
線の弁証法とは、全体的な変化・運動を「生々・生成・発展・衰退・消滅」的にみて取るモノ。
そう弁証法は、事実の連続を変化・運動として捉える一つの認識手段・道具である。
では、論理学とは何か?
論理とは、「考え方の正しい筋道」、
論理的とは、「考え方や話の筋道が理屈にあっている」、
論理学とは、「物事の考え方の形式や法則を研究する学問」。
また、tada氏は以下のようにも書いている。
「すべては 弁証法に対する認識が間違いの始まりだったのである。」
この言葉を論理的同一的な事実で書くなら、
私が初体験の「電話」は、ダイヤル電話、
その後は、プッシュホン電話、自動車電話、携帯電話、
そして、今は、スマート・フォン…
全ては言葉にすれば「電話」であるが、実物は大きく異なっている。
仮に過去から来た者が、
今の時代のスマートフォンを見せられて、
「これ電話だよ!」と言われたら、
「そんな馬鹿な!」と信じないだろう。
これは「弁証法」もまた然り、言葉にすれば「弁証法」。
また、「三法則」的な捉え方の弁証法なら、
「生々・生成・発展・衰退・消滅」も、また弁証法である。
更に「三法則」は、言葉にすれば、量質転化・質量転化、相互浸透・否定の否定。
でもでも、その実体・中身は、その者の個性的な弁証法認識であり、
同じ認識弁証法ではなかろう…
私は、南郷氏から「弁証法」を学んでいる。
そんな私の思いは、
tada氏が、思っている弁証法と南郷氏の弁証法とでは、
言葉では同じ「弁証法」であっても、
その中身が異なっている、のだろう。
tada氏の「弁証法は論理学」であっても…
南郷氏の「弁証法は論理学」ではない。
そもそも…
tada氏の思っている論理学と南郷氏の論理学さえも同一ではないかもしれない…
私の勝手な想いであるが…
南郷氏の「滝村隆一批判」は、
素朴な弁証法が使えた滝村氏が、
自己の変化・成長に即してその弁証法をも変化・成長させられなかった…
そんな…悲しみの表現なのかも…である。
Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 哲学・論理学原論 【新世紀編】: ヘーゲル哲学 学形成の認識論的論理学
哲学・論理学原論 【新世紀編】: ヘーゲル哲学 学形成の認識論的論理学
南鄕 継正
tada
5つ星のうち1.0 南郷学の墓標 壮大な失敗の体系
2018年4月23日に日本でレビュー済み
哲学・論理学原論新世紀編は 416ページ 4800円の大著であり 1932年生まれの86歳 南郷継正による哲学・論理学・弁証法・認識論の集大成である。そうであれば どのような批判をしても もはや言い逃れはできない。これはまたとない機会なので 長年にわたる 見当外れな滝村隆一批判に対してのお礼も含め 書評する。
残念ながら 南郷継正は 弁証法がわからなかったというスキャンダラスなことを言わなくてはならない。南郷継正は 弁証法を自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問であるという。弁証法は論理学であることに気付かなかったのである。論理学・認識論・哲学・科学の順に「弁証法の抽象度」が変わっていくことに気付くことがなかった。ヘーゲルの大論理学の概念レベルから具体性レベルの個別科学、個別対象に対応するそれぞれの方法論においてまで 抽象化することで弁証法の論理的骨格で表わすことができることがわからなかったのである。例えば 科学的方法論、トヨタをはじめとする会社でのカイゼンやPACDといった手法をその論理構造でみると 問題の発生を端緒に 仮定ー実証実験ー解決・一般化のサイクルがある。そのサイクルの論理性を高度に抽象化すると普遍性ー特殊性ー個別性の概念弁証法を持っていることになる。弁証法という言葉を使わなくても 弁証法的思考つまり科学的思考をしている人は普通にいる。学的世界は自分たち南郷学派にしか構築できないと 彼らが弁証法を独占しているワケではないのだ。抽象化すれば 立派な弁証法があらわれるのである。お得意の森羅万象・世界認識についての弁証法とはどうか?普遍性ー特殊性ー個別性の抽象度を下げていくだけで 世界を過去ー現在ー未来の時間の流れでみることができる。もっと抽象度を下げると 自然ー社会ー精神の変化としてもみれる。これは一般的な歴史書レベルである。宇宙論・進化論・ホモサピエンス論など一般向けの教養書や一冊本の大項目式百科事典で良い本が何冊も出版されている。ここから歴史社会に対して具体化していけば 唯物史観が現れる。経済ー政治ー文化の三項の規定。ただ 注意したいのは 具体的レベルで世界認識をすることは 特殊性が増加することで 認識がむずかしくなっていくことである。滝村隆一社会構成理論・世界史の方法は ヘーゲル・マルクスの発想・方法論を実践的に 歴史社会に対して検証した末に手にいれたものであり 弁証法を打ち出の小槌のようにして 簡単に手にいれたものではない。南郷継正は滝村隆一が弁証法を捨てたと批判したが この社会構成理論・唯物史観に弁証法の論理的骨格があることがわからなかったのだ。対象世界に対してどのようなアプローチをとるか どのような方法論をとるかで 学的認識の抽象レベルが変わるのである。弁証法という特別な方法論があるのではなく 対象に対するそれぞれの方法論が論理性=弁証法性をもつだけのことである。これが弁証法の正体である。
南郷弁証法は自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問つまり生命史観と対象を構造レベルで捉え返すための三法則の弁証法である。これは滝村国家論で言えば 社会構成理論と世界史の方法に対応している。南郷継正は世界史の方法に対して 世界史を古典古代・アジア・中世・近代と対象を区分することを批判している。区分することは南郷弁証法の運動性の連関を断ち切るからだ。しかし南郷「武道論」の方法論には「世界史の方法」と同じ構造がある。南郷自身はそれがなんであるか、わかっているのだろうか?区分したあと その特殊性を一般原理レベル(普遍性)、この場合は国家論一般論によって体系的に把握する概念弁証法について理解できないのだろうか?そうであれば 南郷理論は機能主義に陥っている。社会構成理論に対しての 生命史観はどうか?社会構成理論が歴史社会を統一的に説明することで 政治・経済・思想イデオロギーにおいて対象の規定性を与える。生命史観の「社会」の部分では 歴史社会を自然・国家(社会)・文化で統一的に説明すると述べている。社会構成理論での「社会」は自然を反映した社会。わかりやすく言えば経済として自然を取り込んでいるので ほとんど同じことを言っているとしてもよいだろう。しかし 先ほど指摘したように世界史の方法において 対象の構造を分析することにおいて 大きな違いが生まれる。特に指摘したいのはその思想性とイデオロギーの強さである。それは生命史観の自然―社会―精神がモノー生物―ヒトー人間―学問と認識の変化を本質にするからである。その認識重視の本質が強い思想性とイデオロギー性の規定性として 曲がりなりにも発展してきた歴史学を軽視し独善的に陥るものを持っている。(武道哲学講義第二巻P87、P88参照。一般論に刈り込まれた凡庸な南郷歴史観が読める。武技の体系化が武技の平均化と質的低下まねいた植芝合気道のようである。)
それでは南郷認識論はどうなっているのか?認識を原基形態から説くと 認識は像であるという。しかし そこから先の論理的発展がない。それは認識の弁証法性、三浦つとむの「矛盾」、「観念の分裂性」を批判したことからくるのではないのか。本来ならば 像・観念が分裂・分身することを認識の本質としなければならない。像を創り使い、像に創られ使われる認識像を本質にしなければいけない。認識がこのような弁証法性を把持しているからこそ 認識は哲学、科学に技化することができるのである。認識も「方法論」で考えなくてはいけない。南郷認識論は対象の具体像を描くことに主眼がある。これは論ではないだろう。マンガ的絵解きの手法であり 表現技である。文学や映画などの芸術表現と同じである。認識と真の弁証法は現象と概念という形で共存している。こういう本質的構造を論じるのが認識論である。本来 原基形態とは特殊性にあたるものである。その特殊性を一般論(普遍性)として論じる南郷認識論が 学的認識の本質的構造(普遍性)を把握できないのは当然である。結局できたのは認識の発展過程(p381参照)だけである。予想通り現実羅列主義、即物実体論的把握である。
概念についてはこう述べている。「論理的実質・実態を称するものであり 対象の把握の仕方によって その論理が異なるだけではなく段階・レベルが異なるのである。葉っぱを葉として捉える概念と、それを樹木レベルで捉える概念と、それ以上に植物として捉える概念と大きく異なる。具象レベル、現象レベル捉えた性質を概念化した場合の論理と、それを構造レベルで捉え返した場合の論理は、レベルが異なるだけに、同じ概念の実質・実態とはならないのである。具体の概念と現象の概念は異なり、というふうに、概念には論理としての階段・段階があることを忘れてはならない。」(p409参照 ちなみに中央公論版精神現象学序論翻訳者山本信の「ヘーゲルの概念」理解のほうが正しい)やはり ここでも同じである。概念の機能主義的把握しかなく 対象概念の把握の仕方に弁証法的把握をする意図が見えない。繰り返すがヘーゲル概念弁証法とは概念を普遍性ー特殊性ー個別性と媒介させながら統一するものである。普遍性・特殊性・個別性それぞれがお互いを内包していること。それが概念弁証法の真骨頂である。南郷には抽象を無限定にいじることはできても 活用する規定がないのではないか。
そして 哲学論。哲学が積み上げてきた論理学(概念弁証法)・そこからの全体を把握する発想と方法は非常に大事である。これは滝村隆一も言っていたことであり 南郷継正も同じである。しかし 南郷が語る唯物論・科学では哲学を生かせないのだ。特殊性に踏み込むことをやめ 独自の一般性の世界で生きている。哲学は科学の前段階であり 科学の一部として認識することでその歴史的につちかわれてきた論理性(概念弁証法)・直観性・先行学説・仮説として取り込まれる。科学の礎・下支えがなければ 哲学を現在に生かすことはできない。
すべては 弁証法に対する認識が間違いの始まりだったのである。科学で一世風靡した英傑が 最後にたどり着いたのが哲学者だったとは、嗚呼 無情なり。南郷ジャンバルジャン悠季コゼットの 夢やぶれ カーテンコールはもうないといいたいところだが 南郷継正はいまさら何も感じないだろうし 論研も微動だにしないだろう。なぜなら こんなことは70年代後半から滝村隆一が語ってきたことだから。彼らは百も承知なのである。彼らの考えは信仰なのだ。「すべてを疑え」否定の否定をする弁証法家ではないのだ。
滝村先生は浪曲 森の石松がお気に入りで 繰り返し聞いていたという わかるなぁ その気持ち 「バカは死ななきゃ治らない。」(笑)
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています