「自分をみつめる禅問答」―南直哉― 「角川ソフィア文庫」に
以下のような言葉が書かれていた。
P147~
君は、その「自分でない何か」を「非己」と呼び、「非己」を受容し、これとの関係を編み出していく運動様式こそが「自己」なのだと言ったな。
この事について以下のような事を考えた。
この「自分でない何か」=「非己」とは、どこにあるのだろうか?
それが「自分の中」ならば、
自分の中にあるのに「自分でない何か」とはあり得るのだろうか?
そもそも「自分でない何か」が自分の中にあるのは変であろう。
そこで以下のように考えた。
自己を自分全体とするなら、非己とは一部の自分と考えられる。
例えば、
自己=自分全体を「体全体・細胞」=正常細胞とするなら、
非己=一部の自分「体一部・細胞」=癌細胞なのでは…
健康体なら癌細胞は消滅させられて、健康な身体維持が可能である。
しかし、不健康なら癌細胞が増殖して正常細胞が減少してしまう…
また、「自分でない何か」が自分の外にあるなら、
それは元々「自分でないモノ」だから「非己」と捉えるのは変である。
なので、この場合は、元々「自分の外にあった何か」が、
何らかの事情・理由で、今は「自分の中にある何か」になったのだろう。
上記の記述を私が納得できる形に書き変えるなら、
内界の確固たる自分には、
絶対に受け入れ難い現実・事件・事物を
強制的に体験させられ自分の入り込んだ時、
それが自己の中にある「非己」(自分できない何か)。
例えば、
普通の生活の中で、ある日・ある時に起こった突然の肉親の不幸。
その大きな悲しみの感情は、それまでの自分の中には、全く存在していなかった「非己」感情であろう。
その悲しみである「非己」を受容しようとする事で、問題の「解決or発展or消滅」の運動が始まる。
その悲しみから目を逸らし己の心を感じようとしないなら、
その問題は、そのまま決して先へは進めないだろう。
それは自己と非己が共存している状態であり、
「自己的な自分」でもなく「非己的な自分」でもない状態と言えよう。
それは、両方に揺れ動くシーソーの如く…自己喪失状態とでも言おうか…