新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

新・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 12:02:09 | 認識論
新・「自分をみつめる禅問答」


P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。


ここでの「問い」とは、
この著者が、肉親を突然に理不尽になくした者から
「何故…?どうして…?」
と問われた時のモノであろう。




世の中に、明確な「答え」はあっても、全く納得し難い「答え」があるモノである。
それは、いつも他人事で済んでいる事実が、
ある日ある時、自分事になった時の「何故?どうして?」であろう。


ある日ある時、突然に宝くじの一等賞!これはビックリ!
「何故?」「どうして?」…
でも答えは、簡単明瞭「宝くじを買ったから…」である。
これは、答えに感情的に納得できずとも、
喜びの感情に溺れて「納得し難い感情」は全く問題外となろう。


しかし、突然の交通事故、突然の通り魔…
そんな不幸に対しての「何故?」「どうして?」の問いに対して、
「そこに立っていたから…」「車を運転していたから…」「あそこを歩いていたから…」
こんな答えに、誰が納得できよう…
アタマ・理屈で分っても…悲しみの感情で納得できない…

これは、「何故?」「どうして?」⇒「そうなったの」が問いではなく、
「悲しみと如何に関わるの?」
「この悲しみに耐えられないどうすればいいの?」


ここで、前回までの
「自己」と「非己」の関係性からの運動様式=「自己」…となろう。
その基本は、「ひどく悲しんでいる自己」を受容する事。

自分で『今とても悲しんでいるな~』といった
「自己の感情を観る」「非己」の創造であろうか…

自分には耐え難い「非己」的な大きな悲しみが自己のモノになってしまったなら、
その悲しみを自己ではない「非己」を創出して、
その「大きな悲しみ」を自己から意識的に分離した「非己」に背負わせる。

これは、言うなれば、
意識的な「二重感情の創出」であり、
大袈裟に書けば意識的・自覚的な「二重人格」の創出となろうか…


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続・「自分をみつめる禅問答」

2021-07-18 10:26:27 | 認識論

昨日の続編である。

> P147~
君は、その「自分でない何か」を「非己」と呼び、「非己」を受容し、これとの関係を編み出していく運動様式こそが「自己」なのだと言ったな。


今朝、昨日は気付かなかった事に、ふっと気付いた。
それは、以下のような事である。

自分の中にあるのに「自分でない何か」というモノについて…
昨日は、自分の中にあるなら「自分であり、自分でないモノとは言えない」と考え、
それは、自分全体と一部の自分とか、
または、外界でも出来事から沸き起こった感情とか、変異した癌細胞とか…
そんなモノをイメージしていた。

でも…全体と部分や感情以外にも、「自分の中の自分でない何か」・「非己」が考えられる。
それは、他人との関わりの中で、ある時から意識されるようになった考え方・価値観・認識…である。
その認識は、自分が関り続けた他人の言動・表情…から生じた突然の「量質転化化」と言えよう。

例えば、自分が、その人物に対して好意・敬意・尊敬・憧れ…を抱いて、
その人物の全てを受け入れ続けた時…それは生じる、のだろう。

ある時は徐々に、またある時は突然に、
今まで「自分の中になかったモノ(認識)」が自覚できるようになったり、
または自覚されずに自己の言動に出たり…

時に、今までとは異なった言動をする自分に気付いて驚いたり…
そんな驚きを自分は好意的に受け入れるか・拒否するか…
そこから問題になっていくのだろう。



そう言えば、私も中学生の頃、ある日ある時、突然に母から、
「『クチャクチャ音を立てて食べる』のをやめなさい!」ときつく注意された。
それまでは「クチャクチャ音を立てる」事はなかった僕なのに…何故???

その後、気付いたのは、
当時の家庭教師の大学生が勉強の中休みに
出されたお菓子を毎回「クチャクチャ」と美味しそうに食べている事である。


この「クチャクチャ音を立てて食べる」事は、
ここで問題となっている「非己」的な行為であろう。
その非己の裏には、「クチャクチャ」は美味しそう…快感…
といった感情像・認識があり得たのでは…

私の場合、母にきつく言われて、理由もハッキリしたので、
それ以後、「クチャクチャ」な非己は、受容され続ける事なく消滅したが…

これは、自己が、非己を一時的に受容した(クチャクチャ食べた)が、
結局、それを継続・維持する事なく消滅させた、という事実であろう。


さてさて…
この今日書かれた「非己」についての事・像は、
昨日の私・自己にはなかったモノ・「非己」である。

そして、今日の今、この「非己」を、ここに記述・言葉にして再確認した。
この「非己」は昨日の私・自己にとっての「非自己」であり、
今の私・自己にとっては自己そのモノである。


その今日の「自己」⇔昨日の「非己」の発生・誕生の理由は以下であろう。

昨日、私は「非己」という自分ではない他人の概念・認識を、
自己の体験・経験…に照らして合わせて、このブログで言語化に取り組んだ。
その過程は、言うなれば、自己認識化・像化に取り組んだ、と言えよう。

それは、
初めは、外にある概念「非己」を、自分の体験・経験「自己」とすり合わせた。
その結果は、非己であり自己である不明瞭なモノ…。

その不明瞭なモノが一日経った今日、
自己の頭脳の中でより練り合わせられ明確化していた、のだろう…

それを引き続き、ここで言語化しようとした結果、
今度は、過去の「自己」が「非己」を体験した事実が浮上した。

ここに、
「自己」と「非己」が、より明確に意識・自覚できるようになり得た、のだろう。







コメント (1)
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