新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

これって「私の非常心」!?

2024-02-06 13:36:55 | 「わたし事・学」
これって「私の非常心」!?



そろそろ…新たな記事投稿の再開…かな?!

非常心について…
より正確には「私の非常心について~」ですかね♪♪♪

非常心とは、「♪♪♪」が付く程に楽しいモノではない!

それでも…「非常心が何であるか!」を知った・分かった事は「♪♪♪」レベルであろう…


非常心の反対語は、「平常心・普通心・通常心」。
そもそも…自己の「平常心・普通心・通常心」を、人は自覚できているのだろうか…

普通は普通、異常は異常…本当に、そうなのだろうか?!
平常心だと確信しつつ…異常な言動を繰り返している者達はいない!だろうか?

私は、心が普通でない時でも、普通に暮らそうと努力した過去がある…
結果的に、殆どの他人からは、当時の私は、普通の私だったよう見えていただろうが…
唯一、まだ家内ではなかった、当時の彼女には、大きな不安を抱かせ続けたしまった…


今の私的認識で過去の私事を振り返るなら…
私の非常心の始まり生々は、離婚後の両親からの私への言動であった…ようだ…

もっとも…その少し前には、離婚騒動の不安定な状況での就職・社会人への不安(心)もあったが…
工学部・電子工学専攻で技術者を目指したのは、両親のアドバイスだった…
それは、言うなれば、両親の判断への私的な信頼感からの職業選択だった…

それが、二人の不和・離婚で、双方から相手の悪口を聞かされ続けた事で、二人への信頼感は消失へと向かった…
そんな心理状態から、私は「(両親の判断)機械・機器…相手の仕事は嫌だ!人間相手がいい!」と思うようになった…ようだ~


そんな時、親戚の叔父さんから、「母校の教員はどう?」とアドバイスされ…
ダメ元で、面接・試験を受けに行った事で、教師への道に嵌ってしまった…

教師・教員への就職が決まった事で、今度は、全く未知の教職への不安(心)が…(あった!ようだ…)
その不安を若さ・勢い…で自分の心・気持ち…を誤魔化して、教員になった…
その一週間後が、「児童にとって俺は神だ!彼らの欲する事は叶えてやるべきだ!」事件である。


この「一週間が非常心」の結果であった、ようだ…
その「非常心」は、休養・睡眠…で一ヶ月少々で沈下・安定した…
ただ…この事件以来、今!思い考えると…

私は、初めての教師・教員生活を、両親への信頼感なく、教職課程もなく、教員・教職・教師・教育的な専門知識もなく、
よくもまあ~「行き当たりばったり」的に、それでも正しい!と自分で自分自身を無理やり確信させて、一週間を過ごしたモノである…

その結果の当時の私認識が~
「教師は、児童にとって神であり、教師である私は児童の欲する事は実現すべし!」であった。
結果的に、校門から「腹減った!何か食べたい」と言う児童達をレストランへ食事に連れ出そうとして、他の教員呼び止められ…「不発」だったが…

今、考えると、仮に何もなく校門を出られて、レストランへ到着できていたら…私の人生は、また違ったモノになり得ていた事だろうに…

私は、両親への信頼感に疑問・不安・消失…また自己への信頼感も特になく…確信持てる専門知識もなく…
そんな状態で、三年間の教員・三年⇒四年・新三年…の担任を過ごせた…
しかし、その三年間で自身の教育観・教育法…に疑問を抱いた結果、玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻への編入だった。




さてさて…非常心とは?と問うならば、
その人の「平常心・通常心」の変化である「非常心」であろう。

それは、その人に「平常心」と言えるココロ運動の量質転化化と対比しての「非常心」。
従って、ココロ運動の量質転化化が得難い幼子・子供には、「非常心」は、ほぼあり得ない。


私の社会人・人生は、両親への確固たる信頼感の崩れ始めた状態から始まった!
と言えるだろう…今ここに考えるならば…


このような、確固たる信頼が可能なモノなく、人生の荒波に突入させられてしまった私…
そこ後は、必然的に非常に無残な人生と言えるモノであろう…


今こうして考えると、(社会的・職業的な達成感なく)無残とも言える人生だったにも関わらず…
現在の不思議な幸福感・達成感・満足感…とは、何なのだろうか?


人生に対する諦めなのか?
諦めた事への満足なのか?

それとも…新たな人生の始まりとしての可能性への期待なのだろう?

そうそう…最近偶然見た「NHK特集・永平寺」の修行では、
そのココロを、日々の変化が少ない普段通りの生活心の技化を目指しての修行だと感じた。

仮に過去の戦国時代のような、寺の外での世間・社会的な戦争・騒乱…の不安(心)が「普通・当たり前」の時代なら、その「永平寺の修行」も有効だろうが…

現代の日本のように、平和・安定が普通の時代では、
その「平常心」の技化・修行は、真の「悟りへの道」になりえるだろうか…

また…そもそも…神ない時代人達に、
宗教的な「悟り・悟りを開く・悟得の境地」への到達は、可能なのだろうか?!
私には大いなる疑問である!



コメント (48)
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