前段として、大切なことが抜けており、改めて更新投稿いたします。
『家康の位牌新調、開眼法要「伊賀越え」で立ち寄った徳永寺』(中日Webより)
徳永寺さんから大事なもの(書き付け状)が見つかっていた!
それをもとに、家康公と高虎公の位牌が新調された!ということです。
その折、開眼法要が行われ、下記講演会も開催された、、、
(ご紋の事ばかりに気を取られていて、大変申し訳ないことでした )
「神君伊賀越え」と徳永寺
≪戦国・小和田チャンネル
チャンネル登録者数 3.01万人
2017年6月に、静鉄観光サービスのツアーで「神君伊賀越え」を体験し、
そのとき印象深かったのが小川城と、今年(2021年)6月に講演でうかがった徳永寺でした。
堺から京に戻る途中で本能寺の変の報を受けた家康一行が、
近江の信楽の小川城で一泊し三河へ戻る途中徳永寺に立ち寄り、
時の住職によりお茶をもてなされた御礼に、後年、広大な寺領を与えられ、
葵の紋の使用も許可されたと伝えられています。
寺の史料により、かつて家康の位牌があったことがわかっていたためその再建(さいこん)と、
また、藤堂高虎の位牌も傷んでいたので修復し、完成したことで、
「徳川家康公 位牌再建法要」が営まれ、合わせて講演が行われました。
(徳永寺内部)写真提供:徳永寺
撮影:藤原弘正 ≫
実は、昨年「徳永寺」へ伺った時、「葵のご紋」が二種類ありまして、
何故だか悩ましい話やなぁと思っておりました。
それが今、you tubeを見てなんとなく理解できた気がします…(タダ ナントナク)
「三つ葉葵紋」は、家康から許されたご紋
「立ち葵紋」は、本多家のご紋であり、元々「徳永寺のご紋」でもあった、、、
時代遡って、家康の祖父・松平清康が、家臣の本多正忠※の家紋をヒントに
「三つ葉葵」にアレンジしたかも、、、と。
you tubeより抜粋
そんなお話が出てきます、なるほどねぇ…
なので、大変おこがましいのですが、
「徳永寺など訪問記」(伊賀忍者回廊巡り)の後の、「ご紋の謎が解けた?かもしれない」編デス(笑)。
※本多正忠(東三河武将トリップより)
おまけの「こんな番組、ありましたね」(FBより)
伊賀、上野、高虎、家康、、、出て来ると素直に「歴史よありがとう」って、
伊賀は健在!かな(笑)。
『家康の位牌新調、開眼法要「伊賀越え」で立ち寄った徳永寺』(中日Webより)
徳永寺さんから大事なもの(書き付け状)が見つかっていた!
それをもとに、家康公と高虎公の位牌が新調された!ということです。
その折、開眼法要が行われ、下記講演会も開催された、、、
(ご紋の事ばかりに気を取られていて、大変申し訳ないことでした )
「神君伊賀越え」と徳永寺
≪戦国・小和田チャンネル
チャンネル登録者数 3.01万人
2017年6月に、静鉄観光サービスのツアーで「神君伊賀越え」を体験し、
そのとき印象深かったのが小川城と、今年(2021年)6月に講演でうかがった徳永寺でした。
堺から京に戻る途中で本能寺の変の報を受けた家康一行が、
近江の信楽の小川城で一泊し三河へ戻る途中徳永寺に立ち寄り、
時の住職によりお茶をもてなされた御礼に、後年、広大な寺領を与えられ、
葵の紋の使用も許可されたと伝えられています。
寺の史料により、かつて家康の位牌があったことがわかっていたためその再建(さいこん)と、
また、藤堂高虎の位牌も傷んでいたので修復し、完成したことで、
「徳川家康公 位牌再建法要」が営まれ、合わせて講演が行われました。
(徳永寺内部)写真提供:徳永寺
撮影:藤原弘正 ≫
実は、昨年「徳永寺」へ伺った時、「葵のご紋」が二種類ありまして、
何故だか悩ましい話やなぁと思っておりました。
それが今、you tubeを見てなんとなく理解できた気がします…(タダ ナントナク)
「三つ葉葵紋」は、家康から許されたご紋
「立ち葵紋」は、本多家のご紋であり、元々「徳永寺のご紋」でもあった、、、
時代遡って、家康の祖父・松平清康が、家臣の本多正忠※の家紋をヒントに
「三つ葉葵」にアレンジしたかも、、、と。
you tubeより抜粋
そんなお話が出てきます、なるほどねぇ…
なので、大変おこがましいのですが、
「徳永寺など訪問記」(伊賀忍者回廊巡り)の後の、「ご紋の謎が解けた?かもしれない」編デス(笑)。
※本多正忠(東三河武将トリップより)
おまけの「こんな番組、ありましたね」(FBより)
伊賀、上野、高虎、家康、、、出て来ると素直に「歴史よありがとう」って、
伊賀は健在!かな(笑)。
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