映画や小説の「正しい解釈」と、「おもしろく間違う」ことについて

2021年02月02日 | 映画
 「その映画の観方と解釈、間違ってますよ」。
 
 なんて指摘を受けることが、たまにある。
 
 映画が好きなので、おもしろい作品に出会うと、あれこれ語りたくなるのだが、それが相手の心にヒットしないなんてことはよくあるもの。
 
 間違っている。
 
 そう突きつけられると、若いころはビビったものだ。
 
 映画や小説についてドヤ顔でテーマや見どころを披露したのに、時に冷笑するように、時に怒りや、あわれな人を見るような目で、ドカンと爆弾を落とされる。
 
 根が小心者なので、そうなるとこちらは顔面蒼白。全身から冷や汗が噴き出し、や……やってもうた……と、言葉を失ってしまう。
 
 とりあえずその場は、「あ、そうなんすかー」と笑ってごまかすとして、すぐさま本屋図書館にダッシュ。
 
 「映画」コーナーに行くと、そこにある
 
 
 「世界名作講座」
 
 「名画の鑑賞法」
 
 「監督、自作を語る」
 
 
 みたいな本を、かたっぱしから手に取って熟読
 
 上下左右、様々な角度から、徹底的に「テーマ」「構成の妙」「監督の演出意図」などなどを付け焼刃的に頭に放りこみ、理論武装に血道をあげることとなる。
 
 でもって、そこで仕入れた知識を他の場所で、あたかも自分だけの解釈のように披露し、
 
 
 「どうや、オレは映画にくわしいやろ! 教養もあるやろ! 難解なテーマも見逃せへんぜ!」
 
  
 懸命にを雪ごうとしたものだ。
 
 今思えば若かったというか、まあ映画や読書好きというのは一度はというか、星の数ほどこういうトホホな時代を経験し赤面することになる。
 
 まあこれはこれで、「聞くは一時の恥」みたいに勉強にもなる面もあるわけで、あながち悪いことだけでも、ないかもしれなけど。
 
 では、ナウなヤングでなくなった現在ではどうなのかといえば、これが「間違ってる」とか言われても、全然平気になってしまったなあ。
 
 日常会話とか、あとこのブログでも、たまに映画や小説を取り上げると、
 
 
 「それ違うよ」
 
 「的外れな感想でガッカリしました」
 
 
 なんてコメントをいただいてしまうこともあるけど、
 
 「ま、それもまたよし」。
 
 と思うくらいで、昔みたいに、あわてることもなくなってしまった。
 
 その理由としては、まずそんな
 
 「間違ってるかどうか」
 
 なんて、どうでもいいやん、ということ。
 
 映画でも小説でもお芝居でも、一番大事なのは
 
 
 「自分にとっておもしろいかどうか」
 
 
 であって、そんな
 
 
 「この作品はどういうテーマで作られているのか」
 
 「このシーンはどういう意味があるのか」
 
 
 なんてことを発見するために見るわけでもない
 
 いや、もちろん「テーマ」や「意味」も大事だけど、それはわかったらいいし、わからなければ後で人に訊くとか評論家の本でも読めばいい。
 
 でもそれは
 
 
 「わかると、作品をより楽しむことができる」
 
 
 からするものであって、別にそのことをドヤ顔で語って、頭のよさや映画知識の豊富さを競ったり、まして他者に優越感を感じたり、「正しい」のお墨付きをもらうためであるなら、
 
 「まあ、それはどっちでもいいなあ」
 
 という気になってしまうのだ。
 
 たとえば、私は町山智浩さんのファンで、著作や『WOWOW映画塾』を楽しんでいるけど、町山さんの
 
 
 「取材力」
 
 「教養」
 
 「洞察力」
 
 
 といったものは大いに学んで、吸収させてもらっている一方で(名著『映画の見方がわかる本』は今もバイブルです)、ことこれが「解釈」になると意見が違ってても、なんとも思わない
 
 だって、映画や小説の解釈には「正解」があって、それ以外の鑑賞法や感想を「ダメ」というのなら、そんなものテストでも受けさせられているようなもんで、楽しくもなんともない。
 
 そんなことに、1800円2時間という時を払いたくないよなあ、と。
 
 もちろん、若いときはそれが「教養」に結びつくし、知識を競い合うオタク的会話も基本的には大好きだけど、それよりなにより、心から笑ったり泣いたり心震わせたりして、
 
 「ええもん見たなあ」
 
 と満腹するのが、あえてこの言葉を使えば「正しい」鑑賞法だろう。
 
 そこで感じたことを「間違い」と言われたら、「そっすかね、恥かきましたか」とか頭をかきながら、でも心の中では、
 
 「ま、でもそれはそれで、ネ」
 
 としかならないのだ。今となっては。 
 
 さらにいえば、これは個人的嗜好かもしれないけど、これまで映画や小説の話をしてきた経験上「正しい解釈」を語る人よりも、
 
 
 「おもしろく間違っている人」
 
 
 この話を聞く方が、圧倒的におもしろいということに、気づいたからでもあるのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カニエ・ウェストこそが真の男である!」と独眼鉄先輩は言った

2021年01月02日 | 映画

 カニエ・ウェストこそは、男の中の男と呼ぶのにふさわしいのではないか。

 私はここ数年、新年に目標とするべき「アニキ」や「師匠」を表明してきた。

 2017年度は杉作J太郎さん、2018年度はチャーリー・シーン、2019年度は平山夢明先生などをリスペクトする文を書いてきたが、今年度は人気ラッパーのカニエ・ウェストでキマリである。

 映画評論家の町山智浩さんは『週刊文春』のコラムなどで、よくカニエのアニキが大暴れしている様をネタにしているが、もう何度読んでも笑ってしまうのだ。

 『トランプがローリングストーンズでやってきた』でネタにしていたのは、「Kanyeing」(カニエる)というスラングで、これは

 「邪魔なやつが、しゃしゃり出てくること」

 日本語でいえば「空気読めない」「ウザい」ってことだけど、まあ端から見ているとメチャクチャでおもしろい。

 たとえば、「Kanyeing」が流行ったそもそもの発端は、2009年のMTVビデオ大賞で、最優秀女性アーティスト賞をもらったテイラー・スウィフトがスピーチしようとしたのを邪魔したところから。

 いったんは和解しおさまったと思いきや、次に出した新曲で、

 
 「俺、テイラー・スウィフトとセックスできそうな気がするんだ。なぜって、あのビッチを有名にしてやったのが俺だから」


 これ以上底がないという、サイテーなうえにも最低な歌詞をつけたのだが、アニキの暴走はこんなものではすまない。

 その語録はイカしたものばかりで、


 「俺の人生で一番つらいことは、カニエ・ウェストの生演奏が観れないことさ」

 「ライバルが誰かと考えると、思い浮かぶのは過去の人ばかりだね。ミケランジェロとかピカソ、あとピラミッドだな」

 「俺はウォルト・ディズニーだ。ハワード・ヒューズだ。スティーブ・ジョブズだ。俺と並べて、彼らも光栄だろう」

 「俺はアンディ・ウォーホールだ。同時代でもっとも影響力があるアーティストだから。俺はシェイクスピアだ。ナイキだ。グーグルだ」

 
 昔、ある作家だったか、マンガ家だったかが、「宇宙に行ってみたい」という理由に、

 

 「オレがいない地球を一度見てみたい」

 

 と答えたそうだが、それを彷彿とさせるオレ様ぶりだ。ピラミッドとかグーグルとか、もはや人ですらない

 カニエ・ウェスト対王の墓。今年の年末は、このカードで決まりであろう。

 内田樹先生はその著書の中で、

 「あなたの師を探しなさい」

 再三述べておられるが、私の師はまさに、このお方しかあり得ない。

 というわけで、私の今年の目標は

 「カニエ・ウェストのようなスターになる」。

 まずはその前段階として、形から入るタイプの私は、

 「新年会で、これまで自分とケンカした女の子を、ビッチ呼ばわりする歌を歌う」

 ことからはじめてみたいと思う(←絶対ダメだろ)。

 2021年も、よろしくお願いします。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ブラックブック』 ポール・バーホーベンはいつもガチ 

2020年11月30日 | 映画

 映画『ブラックブック』を観る。

 

 『ロボコップ』

 『インビジブル』

 『スターシップ・トゥルーパーズ』

 

 などなど、気ちが……作家性の強い作品で名を成すポールバーホーベン監督の歴史サスペンス。

 そのアクの強い作風ゆえ、ハリウッドを追い出され、

 

 「じゃあ、もうコッチで好きにやらせてもらいまっせ!」

 

 居直って地元オランダに帰ったバーホーベンが、ナチスものを作るとなったら、そらなかなか一筋縄ではいきませんわな。

 ストーリーの骨格としては、ナチに家族を殺されたユダヤ人女性がレジスタンスに加わって復讐を試みるが、お約束の裏切り者や、敵の卑劣な策などもあり逆にドイツへの協力者に仕立て上げられ……。

 といった、わりかし、わかりやすいといえば、わかりやすいもの。

 それこそ古くは、アルフレッドヒッチコックあたりが撮れば、スリルあり、ロマンスあり、シャレたセリフもあったりしてハラハラドキドキのエンタメに仕上がりそうだが、これがバーホーベンにかかると、そんな期待など、ものの見事に裏切ってくれます。

 とにかくこの映画、ナチスものでよくある

 

 「ドイツ人=悪」

 「連合軍やレジスタンス=善」

 

 といった、それこそポールが最後までなじめなかった、ハリウッド的な二元論を徹底的に否定する。

 家族の仇で、どうしようもない悪党ギュンターフランケンは音楽を愛し、ピアノと歌の才能にも恵まれている「芸術家」という設定。

 ルートヴィヒムンツェ大尉は「ナチなのに立派」と描写されているけど、もちろん直接見せないだけで、SSである彼のせいで多くの人が殺されている。

 レジスタンスにも裏切り者や、差別意識を見せる者、家族への想いゆえに理性的行動を取れなかったり、きわめて人間臭い。

 「被害者」であるオランダ人やユダヤ人だって、いったん「勝者」側につけば、正義の名のもとに「ナチよりひどい」蛮行におよぶ。

 こういった、ポールによる徹底的にペシミスティックで、諦観に満ちたというか、お茶でも飲みながら

 

 「人って、そういうもんやろ

 

 とでも言いたげなクールが過ぎる描写に、観ている方は本当にカロリーを使う。

 さらにはそこに、陰毛脱色、足をトイレにつっこんで洗う、血みどろに糞尿まみれ。

 まさに「バーホーベン節」ともいえるエログロが炸裂しまくって、なんかもう、とにかくポール絶好調

 特にキツイのが、戦争が終わったあと、対独協力者にオランダの「善良な市民」がリンチをかけるシーン。

 もう、これでもかというテンションの高さで描写される「魔女狩り」は正直、正視に耐えない。

 こんな明るい醜さ、よう描けるもんだ。
 
 昔、第二次大戦のドキュメンタリー映像で、「パリ解放」のシーンを見たときのことを思い出す。

 そこではパリ市民が、ドイツ人と仲の良かった女を、これ以上ない満面の笑みで丸刈りにし、「私はナチのメスブタです」と書かれたプラカードを下げさせ、顔にハーケンクロイツを落書きし、市中を引き回す。

 子供も大人も、さわやかすぎる残酷さで彼女らを足蹴にするのだが、とにかく、メチャクチャ楽しそう

 それを見て、本気で吐き気をおぼえたけど、それをポールは見事に再現しているんだ、コレが。

 もちろん、それに私が嫌悪をもよおすのは

 

 「自分にも、そういう【正義をバックにつけて、思う存分に暴力をふるいたい】という願望があるから」

 

 にほかならず、いわば近親憎悪なのだが、だからこそ、それをむき出しにされるとキビシイ。

 ポールから「突きつけられてる」気がするからだ。

 

 「オレもオマエも、しょせんは、こんなもんやで」と。

 

 作中、ヒロインがあまりの試練に耐えかねて、

 

 「苦しみに終わりはないの?」

 

 そう叫び、嗚咽するシーンが見せ場だが、観ているこっちも

 「もう勘弁してください

 音を上げそうになる。まだ終わらんのかい、と。

 登場人物は、ドイツ人もオランダ人もユダヤ人も、それぞれにインパクトを残すが、もっとも印象的なのはやはり、主人公ラヘルの「友人」ロニーであろう。

 この女というのが、いわゆる尻軽で、ドイツがブイブイ言わしていたときはその愛人になり(相手はラヘルの家族を惨殺したフランケン)。

 ナチスが追い出されたら、いつの間にか連合軍兵士の彼氏を引き連れ、なんのかのと楽しく生きて、最後まで幸せになっている。

 この人をどう見るかは、

 

 「強い」「したたか」「クソ女」「天然」「ビッチ」「いい人」

 

 など人それぞれのようだが、ポールはあまり、否定的に描いているようには見えない。
 
 なぜ腰の定まらないロニーが、「天罰」のようなものを受けないのか。

 たぶんそれは彼女だけが、この救いのない物語の中で、唯一「憤怒の罪」をまぬがれているからではあるまいか。

 そこに「意思」があるかに違いはあるけど、ブラッド・ピット主演の『フューリー』(「憤怒」の意だ)における、最後にアメリカ兵を助けたドイツ兵のように。

 その意味で彼女は、徹底して戯画化されたリアリズム(というのも変な表現だけど)の中でファンタジー的存在。

 「天使」のようでもあり、他者の不幸の上に幸福を築く、無邪気な「悪鬼」のようにも見える。

 なんて見どころはタップリなんですが、なんせとにかく、全編

 

 「ポール・バーホーベンのガチ」

 

 を見せつけられて、そこがもう大変でした。

 鑑賞しながら、しみじみ思いましたね。

 そういや、この人って、こんなんやったなあ、と。

 傑作なのは間違いないけど、ここから5年くらいポールの映画お休みしてもええわ、とグッタリ。

 おススメですけど、すすめはしません。

 いやもう、とにかく疲れましたわ(苦笑)。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「業の肯定」とフランス落語 カトリーヌ・ドヌーブ主演『しあわせの雨傘』

2020年10月30日 | 映画

 映画『しあわせの雨傘』を観る。

 あらすじは作品紹介によると、

 

 スザンヌは、朝のジョギングを日課とする優雅なブルジョア主婦。

 夫のロベールは雨傘工場の経営者で、「妻は美しく着飾って夫の言うことを聞いていればいい」という完全な亭主関白だ。
 
 ところがある日、ロベールが倒れ、なんとスザンヌが工場を運営することに。

 明るい性格と、ブルジョワ主婦ならではの感性で、傾きかけていた工場はたちまち大盛況! だが、新しい人生を謳歌する彼女のもとに、退院した夫が帰ってきた

 

 主演はカトリーヌドヌーブ

 といっても、この映画の彼女は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』のような、若くてコケティッシュな姿ではなく、もすでにいるというおばあちゃん役。

 ただ、そこはなんといってもフランスの名女優のこと。

 その存在感と華やかさはなかなかのもので、演技はもとより、ダンスと大はりきりと、その魅力をふんだんに振りまきまくって、まずそこを観ているだけでも楽しい映画。

 では肝心のストーリーはどうかといえば、これがまた実に良かった(以下、ネタバレあります)。

 物語のキーワードは

 

 「みんな間違ってるよなあ」

 

 家庭にしばりつけられた主婦が、ひょんなきっかけから社会に出ることになり、そこで自己実現のきっかけをつかんでいく、というのはストーリーとしては、さほど目新しいものではない。

 どっこい、これがフランス喜劇となると、そう一筋縄ではいかない。

 最初の45分くらいまでは、亭主関白の旦那がまくしたてるようにイバリ散らすため、この人が「悪役」として配置されているのかと思いきや、ことはそう単純ではないのだ。

 とにかく、この映画に出てくる登場人物は間違いまくりである。

 エラそうな旦那はもとより、カトリーヌ・ドヌーブも邪気のないおばあさんと思いきや、過去にはがいる身でガンガン男に抱かれてる。

 母親が横暴な父親の言いなりなのを、やや上から目線ながらも歯がゆく思っていたは、土壇場で裏切って、カトリーヌを社長の座から引きずり降ろし、

 

 「アンタ、家にしばりつけられてるウチのこと《飾り壺》やって、バカにしてたやないの」

 

 そう行動の矛盾をつっこまれると、

 

 「うん。ゴメンね。でも、パパと離婚はせんといて」

 

 的外れかつ、勝手なことを言う。

 なんといってもすばらしいのが、ジェラールドパルデュー演ずる左翼市長

 立派で高潔な彼はかつて一夜を共にしたカトリーヌと再会できて、やれうれしや、結婚しよう。

 さらには彼女の息子が、自分の隠し子だとカン違いして浮かれたあげく、彼女の放埓な一面を知ると、

 

 「ボクはブルジョアのメス豚にのぼせあがっとったんか……」

 

 突然、スゴイことを言い出す(笑)。

 あげくには、カトリーヌの息子が自分の落とし種でない(ついでにいえば夫の子でもない!)ことを知るや、家まで5キロもある郊外の湖に置き去りに。

 

 「ちょっと! ウチ、ハイヒールやのに、どうやって帰るのん?」

 

 という訴えにも、ガン無視で車を出してしまうところなど、ジェラール最低! でもって最高

 なんてちっちゃい男なんや、おまえはホンマと、もう大爆笑なのである。

 なんて書くと、なんだかこの映画の登場人物がみなそろいもそろって、愚か者エゴイストのような印象をあたえそうだが、そこはそうでもない

 たしかに彼ら彼女らは、たくさんの間違いを犯す。

 それも、なかなかに人としてヒドかったり、状況として最悪だったりと、観ていて「なにやってんのよ」と笑いっぱなし。

 でもねえ、これがフランス喜劇の底力なのか。

 そこがあんまり、怒ったり呆れたりといった感じにならないというか、むしろ、しみじみさせられるというか。

 なんか、人ってこういうバカなこと、言ったりやったりするよなあと。

 私も大人になって思うようになったことは、

 

 「人間って、そんなに賢くないよなあ」

 

 これは別に、「人類は愚かだ」みたいな、

 「どの目線でしゃべってるねん!」

 そう突っこみたくなるような文化人発言ではなく、なんかねえ、人ってそんないつもいつも賢明にはふるまえないじゃん、みたいな。

 

 「ここで、それやるか」

 「そこで、それ言うか」

 

 学校で、家庭で、仕事で、友人家族恋人に、そんなことばかりしてるのがというものだ。

 それらの多くは、あとで冷静に考えたら

 

 「なんであんなことを……」

 

 バカバカしくなったり、頭をかかえたりすることばかり。

 けど、そのときは感情がおさえられなかったり、それが最善だと思ってやってたりする。

 阿呆やなあとボヤきたくなるが、カートヴォネガット風にいえば、「そういうもの」ではあるまいか。

 それこそ、の立場からすると、ジェラールがカトリーヌをメス豚(何度聞いてもいい語感だ)呼ばわりしたあげく置き去りにするとか。

 下手すると「人間のクズ」というくらいヒドいんだけど、なんかわかる、とはいわないけど、自分だったらどうだろう。

 結構、似たようなことしちゃうんじゃないかなあ、少なくとも紳士的にふるまう自信はないよなあ……。

 なーんて苦笑してしまうというか。それは同じくカトリーヌやその娘の間違いも、それぞれの立場に共感できる人が見たら、

 

 「ヒドイ! でもなんか、わからんでもないわ……」

 

 そうなるんではあるまいか。その演出のさじ加減が絶妙なんスよ。

 この作品を見て思い出したのは、立川談志師匠のこんな言葉。

 

 「落語は人間の業を肯定する芸である」

 

 人間というのは完璧ではなく、間違いは犯すし、でもそれこそが人間であり、そこを笑って慈しむのが落語であると。
  
 もうひとつ、作家の池澤夏樹さんがギリシャ神話について語ったとき、こう言ってもいる。


 「神話というのは、人間の行動の基本パターンを物語化したものだと思う。

 人間は好色で、喧嘩好きで、すぐ裏切り、怒りに身を任せ、それでも崇高なものに憧れて、時には英雄的にふるまう」。

 

 ―――池澤夏樹『世界文学リミックス』 

 

 そう、この『しあわせの雨傘』はまさに「業の肯定」映画。

 「喧嘩好き」で、「すぐ裏切り」「怒りに身をまかせ」「時には英雄的にふるまう」。

 池澤先生の言うエッセンスが、すべて詰めこまれている。まさに「フランス落語」。

 それも日本の「人情喜劇」みたいに湿っぽくないのが良いというか、その理由に「間違い」に対する登場人物の反応もあるかもしれない。

 失敗失言に、もちろん怒ったりガッカリしたりはするし、それをゆるすというわけではないけど、そこでガッツリ傷ついたりしないというか。

 なんといっても、置き去りにされたカトリーヌは結局ヒッチハイクして帰るんだけど、そこで拾ってくれたたくましいトラック運転手とまんざらでもない雰囲気を出したりと(若き日のジェラール・ドパルデューもまた、かつてはしがないトラック運転手だった!)、メチャクチャこのあたりもカラッとしている。

 そこで泣きさけんだり、平手打ちしたりせず、このあっけらかんとしたところが、また良いのである。

 登場人物の愚かさに共感しつつも爆笑し、ついでに言ってしまえば、ラストでカトリーヌがとる行動が、またダイナミック

 アンタ、そこへ行きつきますか! パワフルやなあ。

 もうねえ、まいりましたよホント。なんて、かわいいおばちゃんなんや!

 フランス野郎がつくったから、しゃらくさいんだろとか思わず(のことです)、一度は見てください。

 ジェラール・ドパルデューとのダンスも最高。超オススメです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」にあふれた怪獣映画でしかない

2020年10月11日 | 映画

 コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」映画ではないか。

 私は「萌え」というのにうといタイプで、もともとアニメ美少女ゲームなどに縁があまりなかったせいか、そういった文化にピンとこないところがある。

 いや、もちろんキャラクターがかわいいというのは理解できるし、『ゆるキャン△』とかも好きだけど、それこそ『月刊熱量と文字数』のサンキュータツオさんや松崎君のような熱さでは語れないし、『艦これ』みたいな「擬人化」とかなってくると、もう置いてけぼりである。

 そんな「萌え」に関してはド素人の私が、「これがそうかも!」と感じるところがあったのが、映画『ノーカントリー』。

 傑作『ファーゴ』でヒットを飛ばしたコーエン兄弟によるバイオレンス映画で、専門家筋の評価も高いが、これが確かにおもしろかった。

 あらすじとしては、テキサスに住むベトナム帰還兵ジョシュ・ブローリンが狩りの最中に、死体が散乱しているのを発見する。

 どうも麻薬取引の際にトラブったギャングたちが、壮絶に撃ち合った後のようなのだが、相撃ちで全滅した後に、大金だけが残されてた。

 危険極まりない状況だが、ジョシュはその金を拝借することにする。

 だが唯一、瀕死ながらも生き残っていたギャングのことが気にかかり、「をくれ」と訴えていた彼のため現場に戻ったのが運の尽き。

 そこでギャングと鉢合わせしてしまい、命をねらわれるハメにおちいる。

 そこからジョシュはメキシコ系のギャングと謎の殺し屋、また彼を追う保安官賞金稼ぎなどもまじっての追跡劇に巻きこまれるのだが、ここでやはり、キモとなるのがハビエル・バルデム演ずるところの殺し屋シガーであろう。

 この人がですねえ、とにかく存在感が抜群。

 出てきた当初というか、オープニングはこの人からはじまるんだけど、とにかく何を考えているのかわからず、メチャクチャにアヤシイ雰囲気が芬々。

 自分を逮捕した保安官を殺すシーンとかは、まあ必然性があってわかるとして、その後も彼はとにかくバンバン人を殺しまくるんだけど、そのほとんどに大した理由がない

 いや、一応はウディ・ハレルソン演ずる賞金稼ぎが

 

 「ヤツなりの論理とルールで動いている」

 

 みたいなことを教えてはくれるんだけど、その内容の詳細はないし、そもそも気ちがいだろうから説明されても理解不能だろうしで、あたかもターミネーターのような、ただの殺人マシーンにしか見えないのだ。

 ハビエルのコワいのは、まず見た目

 これは演じた本人も

 

 「オレは見た目が変だから、こんな変な役がお似合いなんだよお」

 

 とボヤくように、たしかにそれだけでインパクト充分。

 

 

 

 

 

 

 一目、「オフってる状態の竹内義和アニキ」であろう。

 目や鼻など各種パーツが大きいため、そこが目を引くのに、それが劇中まったく動くことがないんだから、その能面のごとき冷たさが気になってしょうがない。

 とにかく、人を殺そうが、自分が撃たれようが、後ろでなにかが爆発しようが、ずーっと無表情

 思わずFUJWARAのフジモンのごとく、

 

 「顔デカいからや!」

 

 なんて、つっこみたくなる迫力なんである。

 さらにハビエルのコワいのは、その武器

 この手のバイオレンスといえば、やはり描写がおなじみだが、ハビエルの使っているのは、われわれの連想するバンバンというアレではない。
 
 ボンベを使った空気圧で弾を打ち出すという、なんでも家畜専門の安楽死アイテムらしく、その「プシュ」という乾いた音とともに、

 

 「人間を、家畜程度にしか呵責を感じず殺す」

 

 という空虚感も表現されていて、これまたすこぶるオソロシイ。

 なにかこう、「処理してます」感が満々なのだ。

 とどめは妙な粘着性。

 物語前半の、ガソリンスタンドにおけるおじさんとのやりとりなど、観ていてストレスがすごい。

 善良そうなおじさん相手のなにげない無駄話に「なにがおかしい?」「どう関係あるんだ?」とネチネチからみまくり、

 

 「ちょっと、ヤバイ客やん……」

 

 テンション下がりまくりのおじさんに、

 

 「いつ寝るんだ?」

 「おまえの家は裏にあるあれか?」

 「その時刻に会いに行く」

 

 とか、あまつさえ突然コインを取り出して、

 

 「表か裏か賭けろ」

 

 なんて言い出して、「何を賭けるんだ?」と訊いてもまったく応えてくれなくて、たぶん外すと殺されちゃうんだけど、その殺人に動機とかもなくて……。

 いやわかるよ。ここでなんの理由もなく殺されても、
 
 
 「この世界は生も死も、不条理に与えられたり奪われたりする」
 
 「運命などといったところで、それがどうなるかに必然性などない」
 
 
 みたいな、虚無を表現してるとか、そういうのんなんだろうけど、それよりなにより、理屈抜きでこんなヤツに生殺与奪の権を握られたくないよ! 

 観ているだけで心がザワザワして、耐えられません。もう、東京03の飯塚さんのごとく、

 

 「こえーよー!」

 

 絶叫したくなるようなシーンが延々と続くのだ。

 そう、この『ノーカントリー』はラストの終わり方とか(コーエン兄弟によると「だって、原作がそうだからしゃーないやん」とのことらしいけど)、おびただしい数の殺人とか、イェーツの詩とかトミー・リー・ジョーンズのの話とか、それこそコインに象徴されるハビエルの思わせぶりな「悪魔的」行動とかで、

 

 「形而上学的で難解」

 

 と解釈する人もいるみたいだけど、私からすればこれはもう、

 

 「ハビエル・バルデム大暴れ映画」

 

 ということで、いいんでないかと思うわけだ。「怪獣映画」ですよ。

 いやーなんか、ストーリーとかどうでもよくて、

 

 「《無垢なる暴力》としての象徴」

 「人の運命は不条理で残酷なもの」

 「欲と悪にまみれた人間の悲劇」

 

 とかなんとか、そういうのはとりあえずに置いておいて、それ以上にやはりキャラクターとしての勝利ではないかと。

 なんかねえ、月影先生とか、黒い天使の松田さんとか、男岩鬼みたいに、

 

 「出ているだけでオモロイ」

 

 そういうことなんじゃないだろうか。

 で、そこでポンと手を叩いたわけだ。

 「これって、【萌え】っていうんじゃね?」

 つまりだ、「萌え」の定義は数あれど、そのなかのいくつに、

 

 「なにも事件など起こらなくても成立してしまう」

 「存在することが、もうかわいい」

 「見ているだけで癒される」

 

 こういうものがあるとすれば、まさにこの映画のハビエル・バルデムが当てはまる。

 以前、『けいおん!』を観たとき、なんとなく退屈で1話でやめてしまい、アニメファンの友人に、

 

 「その、なにも起らん感じがええのになあ」

 

 と諭されたことがあったが、たしかにあの作品の唯ちゃん律ちゃんをハビエルに変換すれば、今なら言いたいことはわかる。

 それなら絶対におもしろいし、観る。それこそ、まさにキャラクターの魅力であり、「萌え」ではないのか。

 ということで、早速『けいおん!』をすすめてくれた本人である友人イズミ君に問うてみたところ、

 

 「いや、違うと思うけど……」

 

 私の萌えへの道は2020年も遠そうである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』が好き好き大嫌い!

2020年08月16日 | 映画
 「オレは『グランドブダペストホテル』という映画が好き好き大嫌いやあああああ!!!!!」。
 
 週末の夜に、そんな岡崎京子さんのマンガのような声がこだましたのは、友人アクタガワ君のこんな言葉からだった。
 
 
 「これ、君が好きそうな映画やから見たら?」
 
 
 そうして渡されたDVDが、『グランド・ブダペスト・ホテル』であった。
 
 『ロイヤルテネンバウムズ』『ダージリン急行』など、非常に洗練された作風で鳴らす、ウェスアンダーソンが監督をつとめた作品。
 
 ライムスター宇多丸さんをはじめ、評論筋からも非常な高評価を得た良作だ。
 
 舞台は1932年、東ヨーロッパにあり、おそらくはハプスブルク家が治めるオーストリア=ハンガリー帝国の一部だったであろう小国ズブロフカ共和国
 
 グランド・ブダペスト・ホテルはズブロフカ随一の高級ホテルであり、そこのコンシェルジュであるグスタフと、難民からこのホテルに拾われたベルボーイゼロを主人公に、殺人事件や名画をめぐる冒険を描いた、ミステリ調の喜劇である。
 
 で、これがおもしろかったのかといえば、たしかに評判通り、いい出来であった。
 
 ストーリーはテンポよく進み飽きさせないし、かわいいミニチュアに、色合いから画面構成、セリフ回しのさなど、実に巧みでオシャレである。
 
 玄人の映画ファンから、デートムービーで行くカップルまで、幅広い層にも楽しまれそうなところもすばらしい。
 
 そしてなにより、友がニヤニヤしながら「いかにも」といった要素が、こちらのツボをくすぐりまくる。
 
 学生時代ドイツ語とドイツ文学を学び、今でも池内紀先生の本を愛読している身からすると、もう舞台設定からして、どストライク。
 
 ストーリーや空気感も、エルンストルビッチからビリーワイルダーの師弟ラインや、ハワードホークスプレストンスタージェスといった流れにバンバンに乗っかっており、これまた大好物。
 
 とどめに、シュテファンツヴァイクの名前まで出てきた日には、もう笑うしかない。
 
 『マリーアントワネット』や『ジョゼフフーシェ』はもう、学生時代何度も読み直したものだ。『マゼラン』『人類の星の時間』とか。
 
 そんな、全編「オレ様の大好物」でできているような映画でありまして、そらアクタガワ君がすすめるのもしかり。
 
 いやあ、ようできた映画ですわ。次はぜひ、ヨーゼフロート『聖なる酔っ払いの伝説』か、シュニッツラーの『輪舞』を撮ってくれないかしらん。
 
 カレルチャペック『長い長いお医者さんの話』でもいいなあ……。
 
 なんて感想を思いつくままに語ってみると、
 
 
 「なんだおまえは、ふつうに楽しんでいるではないか。それなのに、さっきは《大嫌い》といっていたが、それはどういうことなのだ」
 
 
 なんて、いぶかしく思う向きもおられるかもしれないが、そうなんです。
 
 やっぱオレ、この映画が好きになれないなあ。
 
 理由は、ひとことで言えば「近親憎悪」。
 
 よくあるじゃないですか、オタクマニアと呼ばれる人が、同じ趣味志向の人を見ると、同志愛をおぼえると同時に複雑な感じになることが。
 
 「アイツはわかってない」と議論になったり、なぜか「一緒にしないでくれ」と否定して周囲から「一緒や」と苦笑されたり。
 
 そういう、めんどくさい感情にとらわれるのが、同族嫌悪と言うやつなのだ。
 
 冒険企画局の『それでもRPGが好き』という本の中で、
 
 
 奈那内「近藤さんは、エンデが嫌いでしたよね」
 
 近藤「冗談じゃない。嫌いなものか」
 
 (中略)
 
 奈那内「でも、なんかエンデの本について話しだすと、近藤さんトゲトゲしいですよ」
 
 近藤「だって、あの人理屈っぽいんだもの。自分の作品について、作者のくせにいろいろ理論を語っちゃうし」
 
 奈那内「同じですよ、近藤さんと……。あ、そうか。だから議論になっちゃうんだ」
 
 
 こんなやりとりがあったんだけど、近藤功司さんの気持ちはスゲエわかる!
 
 ましてや、同じ世紀末ウィーンの話をしても、ウェスはラジオ番組「たまむすび」で赤江珠緒さんに「かわいい」って言われるのに、私だと、
 
 
 「なにがウィーンだ。テメーは『ゴジラ対メガロ』の話でもしてろ!」
 
 
 ……てなるのは目に見えてるんだもんなあ。
 
 シュテファン・ツヴァイクを取り上げても、将棋の佐藤天彦九段なら「貴族」だけど、私だと
 
 
 「乞食が、なんかいうとるで」
 
 
 てあつかいですやん、きっと。
 
 まあ、その不公平感といいますか。「同類」やのに、なんでオマエだけモテてるねん! 
 
 ……なんか、言葉にすると、すげえ情けないですが、まあそういうこと。
 
 ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』はとってもおもしろかったので、私以外の方には超オススメです。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 『桐島、部活やめるってよ』の松岡茉優編

2020年01月24日 | 映画
 「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 
 
 そんなことを言ったのは、後輩ハナタグチ君であった。
 
 彼は映画やマンガが好きなのだが、最近そこで出てくる悪者に不満があり、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 「弱者による世界への復讐」
 
 
 のような、人生哲学感情移入を誘発するヤツはアカンと。
 
 
 「もっとシンプルに、平松伸二先生の『ブラックエンジェルズ』に出てくるような、心の底からブチ殺したくなる、わかりやすい悪がええんです」
 
 
 というのが彼の望みなのだ。
 
 
 
 
 
声に出して読みたい松田さんの名セリフ。
「いや、ネットリンチとかって、そういうノリから……」とは、とてもつっこめません。
 
 
 
 
 
 前回『シカゴ』のヒロイン(→こちら)などを紹介したが、続けて「やな女」部門から。
 
 映画版『桐島部活やめるってよ』の野崎沙奈
 
 
 
 
 
 
 
 
 もともと『桐島』は、観たあとかならず自分の青春時代を良かれ悪しかれ振り返り、そのさまざまな記憶の奔流に、
 
 
 「ああ!! あああああ!!!!」
 
 
 頭をかかえて悶絶させられるという、デヴィッドフィンチャーゴーンガール』のような、
 
 
 「絶対見るべきだが、決しておススメではない」
 
 
 といったタイプの映画だが、とにかく鑑賞中ずっとザワザワしっぱなしで、居心地が悪いのなんの。
 
 そもそもこの映画は、学校という閉鎖空間の息苦しさを見事に表現した、ある種の「収容所もの」でもあるわけだが、これはもうオープニングでの女子4人の会話から、これでもかとそれを感じさせる。
 
 なんかあの女子たちの、
 
 
 「顔がかわいいもの同士なんとなくつるんでいて、別にそこに熱いものはないけど、そこを軸に周囲を見下す態度を取ることに、やぶさかでない」
 
 
 という、イヤーな連帯感を見せられる。もうこの時点で、
 
 「あ、これはアカンやつや」
 
 という気にさせられますよねえ。
 
 部活のことで悩んでるバドミントン部の子に、
 
 
 「あたしだって、別に本気でやってるわけとかじゃないし」
 
 
 みたいなことを言わせる同調圧力とか、ヒドイなあ。
 
 監督の演出が巧みすぎて、ちょっと正視できない感じなのだ。
 
 でだ、立場的には明らかに文化系地味男子の私からすれば、あのパーマとか桐島の彼女とか言いたいことあるヤツはいっぱいいるわけだけど、中でもダントツに「仮想敵国」になるのが、松岡茉優さん演ずるところの野崎沙奈。
 
 いやもう、この女がねえ、すごく、すーんごく、やな女なんですよ。
 
 うーん、これじゃあ言い足りなあ。ちょっとここは一発いかしてください。
 
 松岡茉優ちゃん演ずるところの、野崎沙奈。これがもう、すごく、すごーくヤな女で、もう観ている間中ムカムカしまくりで、死ねこのクソ女とスクリーンに叫びまくりやあああああ!!!!
 
 ぜいぜい……ちょっと興奮してしまったけど、とにかくそういうこと。
 
 もう、無茶苦茶に、ムーッチャクチャにイヤな女なのだ。
 
 このふだんはボーっとした私が、連呼してしまったものねえ。
 
 死ね、死ねこの女、今すぐ死刑
 
 嗚呼、腹立つぜ。
 
 これは私だけでなく、映画評論家の町山智浩さんをはじめとして、この映画を観た男子が同じように、
 
 
 「やな女なんだよー(苦笑)」
 
 
 と語っているから、本当にそうなんだろう。
 
 具体的にどう嫌なのかは映画を観てもらうとして、彼女のすごいのは個々の言動とか言うよりも雰囲気というか、とにかく全身から「イヤな女子高生」オーラが噴き出ているところ。
 
 なにがどうということはないけど、わかるのだ。コイツとは絶対に仲良くなれないよ、と。
 
 いや、これねえ。もちろん、ほめ言葉なんです。
 
 つまるところ、セリフとかうんぬんじゃなくて彼女自身が
 
 「ヤな女にしか見えない」
 
 ということは、演じている松岡茉優さんが、すんごく演技上手ということなんですよ。
 
 彼女はNHKのドラマ『あまちゃん』で、
 
 「明るくがんばり屋で、それでいてちょっと抜けているところがあって、皆から慕われるリーダー」
 
 ていう、まさに正反対の役をやってるから、よけいにその達者さが際立つ。
 
 すごいなあ、この子。今の邦画やテレビドラマの大きな弱点
 
 
 「役者がそろいもそろって演技が下手すぎる」
 
 
 ということだから(なので『シンゴジラ』は「演技をさせない」ため、あんな編集になってるんですね)、よけいにそれが際立つというもの。
 
 この作品は群像劇であり、あえていえば神木隆之介君と東出昌大君が主人公になるんだろうけど、物語の芯を支えている裏MVPは、間違いなく松岡茉優さんであろう。
 
 もう、出てくるたびに、
 
 「この女、オレ様が成敗してくれる!」
 
 て気になるのだ。まあ、どう「成敗」するかは、ご想像におまかせしますが(←絶対エロいこと考えてるだろ)。
 
 いやあ、いいなあ松岡さん。最高ですやん、この子。
 
 というと、なんだかさんざ語っておいて「最高」とはどういうことだとつっこまれそうだけど、前回も言ったように、
 
 「女のド外道は魅力的でもなければならない」
 
 わけで、その定義からいっても、松岡茉優さん演じるあの女は、もう腹立って、ぶん殴りたくなって、「でも……」という気分にさせられる、「最高にいいクソ女」なのである。
 
 つまるところ、結論としては、
 
 
 「ゴミみたいなあつかい受けてもいいから、死ぬほど根性の曲がった松岡茉優さんとつきあいたい」
 
 
 ということであり、マジで惚れますわホンマ。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 『シカゴ』のロキシー・ハート編

2020年01月15日 | 映画
「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 
 
 前回(→こちら)そんなことを言ったのは、後輩ハナタグチ君であった。
 
 彼は映画やマンガが好きなのだが、最近そこで出てくる悪者に不満があり、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 「弱者による世界への復讐」
 
 
 のような、人生哲学感情移入を誘発するヤツはアカンと。
 
 
「もっとシンプルに、平松伸二先生の『ブラックエンジェルズ』に出てくるような、心の底からブチ殺したくなる、わかりやすい悪がええんです」
 
 
 というのが彼の望みなのだ。
 
 
 
 
 
 ハナタグチ君の望むカタルシスはこれです
 
 
 
 
 
 
 そこで今回もステキなド外道についてだが、悪党は暴力的な男だけではなく、もちろんのことにもいる。
 
 西部劇のように拳銃を振りかざしたり、マフィアのように密輸や暗殺したりもしないが、知恵色気で周囲を惑わす悪女というのは存在感抜群だ。
 
 たとえば『シカゴ』に出てきたロキシーハート
 
 『シカゴ』といえば、ブロードウェイでも大ヒットしたミュージカルの映画版。
 
 ストーリーはスターを夢見るロキシーが、彼女をだまして、もて遊んだ男をカッとなって殺害するところからはじまる。
 当初は正当防衛を主張して罪を逃れようとしたロキシーだが、浮気の事実が夫にバレたことから断念。
 
 そこでリチャードギア演じる敏腕弁護士のビリーに助けを求め、彼と二人三脚。
 
 ロキシーを極刑にしようと奔走する検事や、一筋縄ではいかない刑務所長女囚相手に、あの手この手で無罪を勝ち取ろうとするが……。
 
 といったあらすじを見ればおわかりのように、この映画は登場人物が悪役ばかりで、彼ら彼女らがそのエゴをむき出しに、走り回るさまが楽しいコメディーだ。
 
 そんなナイスな小悪党たちの中でも、ひときわ光るのがロキシーの「やな女」ぶり。
 
 もともと、「そこそこにはかわいい」程度の容姿なうえに、歌もダンスも十人並みの彼女がスターうんぬんというのもドあつかましいが、それ以上に性根が腐りまくっているのがステキだ。
 
 
 
 
 
 
いい顔してます。
 
 
 
 
 そもそも殺人の動機も、「芸能界にコネがある」と男にだまされたことによる自業自得とも言えるものだし(「枕営業」ってやつですね)、旦那がお人好しで自分にべた惚れなのをいいことに、ふだんからバカにしまくっている。
 
 ビリーの策略によって、刑務所内で「悲劇のヒロイン」になれば、それにひたりきって、周囲の人間をアゴで使う。
 
 世間の同情をひくため「子供ができた」とウソを言い、反省どころか、
 
 
 「これを利用してスターになれる!」
 
 
 とか、ぬかりなく考える。
 
 あまつさえ、裁判でいい印象をあたえるため用意された衣装を、
 
 
 「こんなダサい服で写真に撮られたくない」
 
 
 そう拒否したうえ、「おい! オレは弁護のために、知恵しぼってこの服も選んどるねん!」とキレるビリーに、
 
 
 「ウチはスターなんやで? もっと態度をわきまえなあかんのとちゃう?」
 
 
 などと言い放って解雇するなど、もうやりたい放題。
 
殺人の重み? の意識? への贖罪?
 
知るかいな! そんなもん、どこの国のケチャップぬったアメリカンドッグやねん! と。
 
 もう、見ていてメチャクチャに腹が立つというか、上映中の2時間ずっと、
 
 「この女を高く吊るせ!」
 
 という気分にさせられるのだ。
 
 で、この映画のすごいのは、そうやってさんざん
 
 「このクソ女がいつ死刑になるか」
 
 という興味で引っ張っておきながら(←いや、とかダンスとかもあるだろ!)、最後の最後は彼女がハッピーになったことで、思わず祝福の拍手を送ってしまうこと。
 
 いやホント、その演出はすばらしいものがあった。途中、あんだけ
 
 「法が裁けないなら、オレが踏みこんで討つ!」
 
 な義憤に駆られていたのに、見事な大団円。
 
 マジで、最後のナンバーのあと、「やったぜロキシー!」って気分になるのだ。あれはやられました。 
 
 最初の1時間50分は、
 
 
 「この女、ぶっ殺す!」
 
 
 残りの3分が、
 
 
「ロキシー最高! アンタに心底惚れましたわ!」
 
 
 このギャップがたまらない。
 
 ふつうは、こんなヤな女が成功したら、モヤモヤしてカタルシスもなさそうなもんなのに。レネーゼルウィガー、すごいなあ。
 
 やはり男とちがって、女の悪役は魅力的でもないとあきません。
 
 だまされて、裏切られて、それでも懲りないわれわれ男子。
 
 バカで安っぽく、それでもたくましいロキシー・ハート嬢こそ、まさに最高のド外道女ですねえ。
 
 
 
 
 
 (松岡茉優編に続く→こちら
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平松伸二『ブラックエンジェルズ』並みな「ド外道」を探せ! 映画の魅力的な悪役について

2019年12月02日 | 映画
 「この世界に足りないのは、ド外道っスよ!」
 

 近所のモツ焼き屋で、熱くそうぶち上げたのは、後輩であるハナタグチ君であった。
 
 発端はマンガや映画の話からだったが、彼によると、最近はなかなかおもしろい作品に出会えていないという。
 
 なぜならそこには、

 
 「魅力的な悪役

 
 これが足りていないのだと。
 
 そうかなあ。『ダークナイト』のジョーカーとか、『シン・ゴジラ』の破壊シーンなんて評判ええやないの。
 
 なんて問うてみると、ハナタグチ君は

 
 「そういうんちゃうんです。ボクが言うてる悪役は、もっとシンプルで下世話なんです。なんか、偏差値高そうなのはダメなんですよ」

 
 彼によると、
 
 
 「頭脳明晰な殺人者」
 
 「完全なる悪」
 
 
 みたいな、哲学性があるもんとか、
 
 
 「原爆の怨念を背負って」
 
 
 とか、そういうのはアカンと。
 
 「思想
 
 「共感
 
 「情状酌量の余地」
 
 これがあると、ブチ殺してもカタルシスがないと。

 
 「もっと、だれが見ても《こら、殺されてもしゃあないわ》と思わせるヤツじゃないと、ボクは満足できません!」

 
 なるほど。要は感情移入を誘発するような「深み」があったら困るというこっちゃな。
 
 そんなとことん悪いヤツいうたら、平松伸二先生の大名作『ブラックエンジェルズ』に出てくるようなんのこと?
 
 と問うならば、ハナタグチ君は我が意をついに得たりと、

 
 「そう、そうっス! ド外道ッスよ! それが出ない映画とかドラマは、ボク物足りへんのですわ!」

 
 平松伸二『ブラックエンジェルズ』とはどういうマンガなのかといえば、「黒い天使」という暗殺者集団が主人公。
 
 現代の仕置人ともいえる彼らが、法で裁けない悪を次々殺していくという「勧善懲悪」ものだが、その悪の基準というのが、
 
 
 「平松先生が、テレビや雑誌で見て頭にきたヤツら」
 
 
 というのだからステキだ。
 
 『ブラックエンジェルズ』に出てくる悪者は、それはそれはお悪うございます。
 
 第1話からして、前科はあるが更生してがんばっている青年を、再犯させるよう執拗に挑発し、
 
 

 「逮捕ってのはな、犯罪が起きてからするもんじゃねぇ、起こさせてするもんなんだ!」

 
 
 との、とんでもない名セリフを吐き、あまつさえ青年の妹を暴行するだけでなく、ついにキレた彼を

 
 

正当防衛成立だな」


 
 と撃ち殺す悪徳刑事とか。
 
 
 
 
 日本の警察が「優秀」なのは、こういう人が数字をあげているからかもしれません
 
 
 
 
 続く第2話では、面白半分で人を車で轢き殺し使用人になすりつけるだけでなく、その娘を強姦したうえに、真相を話すべく警察にむかう彼女を轢き殺し、最後には黒い天使に殺されそうになるところを、
 
 

 「助けてくれ! 金なら出す! 100万か? 200万か?」

 
 
 との、ステキすぎる命乞いをするドラ息子とか。
 
 
 
 
  
     安西先生の教えを忠実に守るぼっちゃん
 
 
 
 他にも、
 
 
 「アイドルをシャブ漬けにして、心身ともいいようにもてあそんだあげく、自殺に追いこむ芸能事務所

 「面白半分にホームレスリンチして殺し、それを目撃した独居老人をおどしたうえ、年金貯金などもすべて奪い取り、拷問にかけたうえで自殺に追いこむ街のチンピラ

  「執拗な取り立てのみならず、払えなければで何とかしろと若い母親風俗営業店へ売り飛ばし、軟禁状態で仕事をさせた末、その結果放置された子供が死に、母親もその場で自殺したのに高笑いサラ金業者
 
 
 などなど、なにかこう

 
 「人権意識」
 
 「法の精神」
 
 「裁判を受ける権利」

 
 といった、先人たちが多くのを流しながら手に入れた、大切なものの数々を、鼻息プーで放り投げたくなるような、ナイスド外道が盛りだくさん。
 
 この怒りを通りこして、あまりの人非人っぷりに、むしろ笑ってしまう平松ワールドの悪役の数々。
 
 たしかに、ブチ殺したときの爽快感は、絶筆に尽くしがたい。
 
 そういうとハナタグチ君は満足そうに、

 
 「そうでしょう、そうでしょう。ホラー映画でも、まずイチャイチャしてるやつから順に殺されるでしょ。あれっスよ」

 
 いや、それは悪ってほどでもないと思うけど……。
 
 でもまあ、やはりドラマの最後で、力道山怒りの空手チョップでも、葵の紋所の印籠でも、やられ役に、

 
 「でも、この人にも家族が……」
 
 「そんなミランダ警告もなしに……」
 
 「死刑の是非はそう簡単に結論の出せる問題では……」

 
 なんていう情をいだいてしまうと後味が悪い。
 
 その点、「ド外道」のみなさんは、まったくそんな気にならないから安心だ。
 
 まあ、今の日本も汚職したり、強姦したり、書類破棄したり。
 
 あまつさえ人を殺しても、不起訴になったり、ムチャクチャなルール違反しても

 
 「そんな騒ぐようなことではない」

 
 で、すましたりしてるから、ネタには困らなさそう。
 
 クリエイターの皆様にはぜひ魅力的な「ド外道」を作品の中でブチ殺し、後輩のカタルシスに、一役買っていただきたいものだ。
 
 
 (『シカゴ』のロキシー・ハート編に続く→こちら
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『怪盗ルビイ』のミステリマニアな小泉今日子がステキすぎる

2019年10月12日 | 映画
 「昭和のアイドル映画」
 
 というジャンルで最強なのは、『怪盗ルビイ』である。
 
 映画の楽しみはストーリーやアクションとともに、ヒロインの魅力というのも大きい。
 
 『カサブランカ』におけるイングリッドバーグマンの可憐さや、『アパートの鍵貸します』のシャーリーマクレーンのファニーな顔。
 
 他にも『ローラーガールズ・ダイアリー』のドリューバリモア姐さんにホッケーのステッキで尻を叩かれたいとか。
 
 『裏窓』のグレースケリーに、足が折れて動けないことをいいことに、靴にそそいだトマトジュースを無理矢理飲まされたいとか
 
 あと『ヒット・ガール』のクロエグレースモレッツ広瀬すずちゃんでも可)に「おまえはゴミ人間だ」とののしられながら、高速アクションでボコボコにのされたいとか、そういったヒロインの活躍が作品を大いに盛り上げてくれるのだ。
 
 そんなわけで(どんなわけだ)、魅力的なヒロインというのは、すぐれた映画には欠かせないファクターなのだが、その中でも「アイドル映画」というジャンルになると、「ヒロインも大事」ではなく、むしろヒロインこそが大事。
 
 というか、それがすべてで、極端な話、アイドルがかわいく撮れていたら、あとはへっぽこぴーな内容でも充分に成立しているのだ。
 
 何度もリメイクされている『時をかける少女』や『セーラー服と機関銃』なんかがその代表だが、個人的な1位をあげればこれが『怪盗ルビイ』。
 
 私はミステリファンなので、原作であるヘンリースレッサーの『快盗ルビイマーチンスン』を手に取った方が先だが、短編の名手で大好きなスレッサーを、『麻雀放浪記』の和田誠さん(先日亡くなられたそうで吃驚しました、ご冥福をお祈りします)が監督するとなれば、これはもう見るしかあるまい。
 
 となったのだが、これが鑑賞後、思わず声をあげてしまったものだ。
 
 
 「いや、これはなんか、小泉今日子メッチャかわいいやん!」
 
 
 私は昔から、アイドルという存在にさほど興味がない。
 
 もちろん、単純に見てかわいい、というのはわかるけど、どうもそれだけでなく、その後ろにある「」(吉田豪さんの『元アイドル!』の世界的な)みたいなものが苦手なのだ。
 
 なにかこう、「」のギャップがすごすぎて、ひいてしまうというか。
 
 だから、昭和のキョンキョンだナンノだおニャン子だというのは、名前と顔くらいは知ってても、歌やドラマ、映画などはほとんど知らない。
 
 当時の数少ない「推し」といえば、『月刊コンプティーク』に連載を持っていた小川範子さんくらいで、このチョイスを見ても私がいかにメジャーロードのアイドルから離れていたか、わかろうというものだ。
 
 だが、そんなアイドル音痴をして、ただただ「かわいい……」と絶句させたのだから、この映画のキョンキョンの破壊力はすごい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 丸顔で、ジーンズが似合う。ぱっつん前髪はあざとくて好きじゃないけど、この映画のキョンキョンだけは例外
 
 セクシーなシーンとかもまったくないけど、それがまた上品でよい。髪型のバリエーションも豊富で、もう全部かわいい。
 
 今の自分は新垣結衣さんが好きなんだけど、そことくらべてもホントいい勝負だ。どちらを選ぶべきか、優劣はつけがたい。
 
 いやあ、すばらしい映画だぞ『怪盗ルビイ』。内容自体は、まあ、たわいないっちゃあたわいないんだけど(原作もライトなノリだしね)、
 
 
 「アイドル映画は、アイドルがかわいく撮れてることが命」
 
 
 なわけだから、その意味ではまさに、ライムスター宇多丸さん流に言えば100点満点で5億点の出来だ。
 
 ちなみに、引越のシーンでちょこっと映るキョンキョンの愛読書は、
 
 
 ヘンリー・スレッサー『うまい犯罪、しゃれた殺人』

  ロバート・ブロック『血は冷たく流れる』

  コーネル・ウールリッチ『夜の闇の中へ』

  レイモンド・チャンドラー『湖中の女』

  山田宏一『美女と犯罪―映画的なあまりに映画的な』

  小鷹信光編『ブラック・マスク 異色作品集』
 
 
 『ブラックマスク』ってアータ! 
 
 それ以外もハヤカワミステリ文庫ポケミスも山ほど持ってて、シェリイスミス『午後の死』とか、レイモンドポストゲートの『十二人の評決』とか。
 
 レスリーチャータリス『聖者ニューヨークに現る』とか、クレイグライス居合わせた女』とか、もっかい読みたいから貸してくれないもんか。
 
 こんだけかわいくて、こんなディープなミスヲタなんて、素晴らしすぎる。もう結婚して!
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『マダムと泥棒』〇〇〇〇クラッシュなおばあちゃん萌えの映画

2019年07月13日 | 映画
 「おばあちゃんっ子は『マダムと泥棒』という映画を見ろ!」。
 
 というのが、私が世にうったえかけたい意見である。

 映画の楽しみはストーリーやアクションとともに、ヒロインの魅力というのも大きい。

 『ローマの休日』におけるオードリー・ヘップバーンの気品、『七年目の浮気』のマリリン・モンローのかわいらしいお色気。

 他にも、「墓にアレの彫刻を彫ってくれ」と遺言したくなった『アベンジャーズ』におけるスカーレット・ヨハンソンの見事な尻とか、「オレの足も撃って!」と思わず土下座してお願いしたくなるような『普通じゃない!』のキャメロン・ディアスとか。

 さらには、『桐島、部活やめるってよ』に出てきた松岡茉優さんに放課後、裏庭に呼び出されて棒でつつかれながら、

 「オマエは気持ち悪いんだから、《キモイ税》として3万円払えよ」

 などと理不尽なカツアゲをされたいとか、語りだすと枚挙に暇がないのである(一部不適切な発言があったことをおわびします)。

 そんな中、女の価値は若さだけではないと気炎を上げるのが、世界のおばあさん女優たち。

 『八月の鯨』『狩人の夜』のリリアン・ギッシュや、『毒薬と老嬢』の明るく狂った殺人姉妹と並んでキュートなのが、この『マダムと泥棒』のウィルバーフォース夫人であろう(以下ネタバレあります)。

 映画の内容は、ユーモアたっぷりの犯罪コメディ。

 アレック・ギネスやピーター・セラーズといった名優が演ずる強盗団が、現金輸送車を襲う計画を立てる。

 彼らがウィルバーフォース夫人に近づいたのは、彼女の貸す部屋をアジトとして、そして怪しまれず現金を手に入れるための「運び屋」として利用するためだった。

 作戦は見事成功し、大金を手に入れた強盗たちは、すみやかにウィルバーフォース夫人の家から去ろうとするが、ひょんなアクシデントから彼女に奪った金を発見されてしまい、事態は一転する……。  
 
 というイギリス風のドタバタ喜劇なのだが、その脚本やセリフ回しのおもしろさもさることながら、やはりなんといっても、ヒロインであるウィルバーフォース夫人が、すこぶるつきに存在感を発揮しているのが見どころ。

 善良でお人好しで、ちょっと抜けているところもある彼女は典型的な

 「近所のかわいいおばあちゃん」

 なのだが、そんな人が海千山千の悪党どもとからむと、その噛み合わなさぶりに見ているほうは悶絶する。

 犯行計画を練っているときに、しつこく「お茶はいかが」と誘ってイライラさせたり、

 「ゴードン将軍と同居している」

 と口走って「誰だ? 警戒しないと」と思わせたら、それが飼っているオウムのことだったり。

 正体がバレて逃げようとすると彼女の仲間の老婦人がドヤドヤおとずれてジャマしたりと、それはそれは楽しく場をひっかきまわしてくれる。

 なにより彼女が起こした最大のトラブルが、強奪した金を見られた後のこと。

 正体がバレてしまった強盗団は、

 「もうこうなったら、婆さんをバラしてとんずらするしかねえ」

 との意見の一致を見るが、ではだれがやるのかと問うならば、誰一人名乗り出ない。

 「お前やれよ」「いや、お前こそ」という逆ダチョウ倶楽部状態から、「経験者もいるから……」と水を向けても、そっと顔を伏せられたり、話が一向に進まない。

 そう、彼らが老嬢殺害をためらうのは、ビビっているわけではなく(「経験者」もいるわけだし)、これはもうどう見ても、

 「おばあちゃんがかわいくて殺せない!」

 という理由によるものなのである。

 そんなんできるわけないやん! そりゃ、ちょっとはイラッとさせられたし、「運び屋」のときもおせっかいからトラブルに巻き込まれてハラハラさせられたりもしたけど。

 それでもあんな善良でやさしいおばあさんを殺すなんて、そんなん人間のすることちゃう!

 などと、おのれの悪党ぶりを棚に上げて、もう嫌がりまくるのだ。

 ラチがあかないので、最後の手段とクジ引きで決めるのだが、当たったヤツがまた、

 「ムリやっていうてるやん! かくなるうえは……」

 と、なんと仲間を裏切って金を持ち逃げしてしまうのだが、アッサリと見つかって殺されてしまう(そっちは平気なんやね)。

 それどころか、力仕事担当で少々おつむの弱い「ワンラウンド」など、その「おばあちゃん萌え」が高じすぎて、彼女が眠っているのを「殺された!」と勘違い。

 仲間を追いかけまわして、これまた殺してしまうのだ(やっぱ、そっちは全然OKなんやなあ)。

 こうして、金のことも口封じも逃亡計画も、なにもかもとっちらかるどころか、ついには仲間割れが高じて全員が相打ちのような形で死んでしまう。

 危険な強盗どもはいなくなり、なんと盗まれたお宝はウィルバーフォース夫人のもとに残されることに……。

 というのは、まあ設定を見たところで、だいたい見当がつくオチではあるけど、では「漁夫の利」を得たウィルバーフォース夫人が、この間なにをやっていたかといえば、ずっと寝ていたのだ。

 自分の殺害計画が立てられていたなどつゆ知らず、寝椅子でぐっすりおやすみ。

 気がついたら一人になって、手元には大金が。

 おやまあ、おばあちゃん、びっくりや。天然ぶりも、ここに極まれりである。

 ラストの、警察署から出るときのちょっとしたオチも、なんとなくイギリス風に粋でニヤリとさせられる。

 もう最初から最後まで、フワフワしたウィルバーフォース夫人が絶好調!

 うーん、これって、映画の本だと

 「豊潤な英国風のユーモアとウィットが楽しめる大人の喜劇」

 なんて紹介されることもあるけど、

 「紅一点のあふれる魅力で男どもの結束を破壊する」

 という意味では、要するに「サークルクラッシャー」のお話なんだなあ。見直して、今気づいたよ。

 「昔、おばあちゃんっ子だったなあ」とか思い出したりする人は、絶対にハマること間違いなしの傑作。おススメです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その3

2019年03月30日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
 一見重いフィルム・ノワールに見せかけて、実はゆかいなコントのようなフランス映画『死刑台のエレベーター』。
 
 ここでさらにコメディ度を加速させるのが、主人公モーリス・ロネをの道へと導いたジャンヌモロー
 
 またこのジャンヌ姐さんが、妙におかしいというか、恋人がアクシデントに見舞われていることに、ちょっとした行き違いがあって気づかず、
 


「どうしたん? もしかして土壇場でおじげづいたんかいな。それとも、もうウチのことなんて愛してないのん?」

 

 アレコレ悩みながら、深夜の街を徘徊するのであるが、なんかそこもヘン。
 
 たとえば、モーリス行きつけのバーに、聞きこみに出かけるのだが、そこで
 


 「ジュリアン(モーリス・ロネの役名)を見かけた」


 
 という女に出会う。
 
 期待と恐れが、ないまぜになった表情でジャンヌ姐さんは「彼女に一杯」とギャルソンに告げるが、女はうつろな表情で
 
 

 「先週よ……」 

 
 
 この答えに、ジャンヌ姐さんは「ああ……」とでも、ため息をつきたげに、そっと外に出ていく……。
 
 ……て、この場面。画で見ると、ジャンヌ姐さんの演技力と、マイルスデイヴィスのしっとりした音楽で、なにやらフレンチ・ノワール的アンニュイさを醸し出している。
 
 けど、これってセリフだけ取ったら、
 
 

 「ジュリアンを見たで」

 
 
 酔っ払ってる不思議ちゃんがそういうのに、
 
 

 「彼女に一杯あげたって。で、いつ?」
 
 「うーんとね、先週!」
 
 「ズコー!」

 
 
 ……てことでしょ?
 
 

 「オレ、カジノで大もうけしたで」 
 
 「へー、すげえな!」
 
 「『ドラクエ』のやけどな」
 
 「ゲームの話かい!」

 
 
 ていう子供の会話と一緒やん!
 
 その間、勝手に車盗んで、嘘八百の武勇伝をふかしまくって、それを笑われたらいきなり拳銃で撃つとか、自分のダメダメっぷりを棚に上げて
 
 

「オレの人生はメチャクチャだ」

 
 
 ルイは苦悩している。知らんがな、と。
 
 一方、ベロニクの方は、
 
 

 「ひどいことになったわ。あたしたち、新聞に載るのね……」

 
 
 泣きそうになりながらも、ふと顔をあげ、ウットリしたようにつぶやく。
 
 

 「みんなが言うのね、見て、あのカップルよって……でも、それもステキかも……」

 
 
 完全に陶酔モード。
 
 痛すぎるねえちゃんである。絶対に彼女にしたくないタイプだ。
 
 あまつさえ、
 
 

「心中して、歴史に名を残しましょう」

 
 
 などと底が抜けたようなことをいいだし、ふたりは睡眠薬を飲んで眠りにつく。
 
 もうこのあたりは明らかに悪意のある演出で、当時まだ監督は25歳なのに、「今どきの若者」に言いたいことでもあったんでしょうか。
 
 とにかく、このカップルの能天気ぷり(まあ本人たちは大マジメですが)を見てると、そこが、モーリス・ロネのにっちもさっちもいかない危機的状況と比較されて、もう大爆笑
 
 緊張と緩和というか、悲劇と喜劇というか、ほんまにルイマル天才や
 
 いや、爆笑するところでは全然ないんだけど、笑うッスよ、これはホント。

 いやあ、もうメチャメチャにおもしろい。
 
 しかも、話はまだエスカレートし、なんとベロニクが偽名(「タベルニエ夫妻」というモーリス・ロネの役名)を使っていたことが原因となって、モーリス・ロネはドイツ人殺しの下手人として追われることとなる。
 
 朝になって、ようやく電気がついて、やれうれしやとエレベーターから脱出したら、その途端に見も知らん殺人の犯人に。
 
 しかも、エレベーターの中にいたもんだからアリバイはなく、そもそもそれを言っても信じてもらえない。
 
 だいたい、信じられたら今度は社長殺しの容疑はまぬがれず、八方ふさがり。
 
 まったくもって、おそろしい話だが、その発端はただの忘れ物である。
 
 ついでにいえば、このころジャンヌ姉さんも明け方、不審人物として警察に連行されている
 
 ドタバタしてますなあ。
 
 結局、死にきれなかったルイとベロニクであったが、ルイは「モーリス・ロネ逮捕」の報に、
 
 

 「やったラッキー!」

 
 
ガッツポーズで、おおよろこび。
 
 よろこんで、どうするという話だが、まあ、そういう子なんですね。フォローのしようもない。
 
 ところが、ここには穴があった。
 
 そう、モーテルで撮った記念写真だ。
 
 あれを見られたら、犯行時にドイツ人夫婦と一緒にいたことがバレてしまう。なんとか取り戻さないと……。
 
 バイクで写真屋に急いだところに、刑事であるリノヴァンチュラが待っていて御用となる。
 
 モーリス・ロネの無実が証明されて、ジャンヌ姉さんは
 


「いやー、もうウチ安心したわ。刑事さん、サンキューね」


 
 ウキウキとよろこぶが、そのカメラのフィルムの中にはモーリスとジャンヌ姉さんが、仲良くちちくりあっているところも写っており、リノ・ヴァンチュラが、
 


 「奥さん、写真はまずかったッスね」


 
 うなずいて映画は終了
 
 ジャンヌ姉さんは、
 
 

 「すべてはお終い。でも、写真の中だけでは、あたしたちは永遠にふたりきり……」

 
 
 遠い目をしてつぶやくのだが、その前に、これから二人で人を殺そうってときに、呑気にツーショットの写真撮るなよ!
 
 浮気とか、ようその展開でバレますねんって。

 ラブホテルで彼氏と写真撮って、それでスキャンダルになったアイドルとか、よういてますやん。
 
 てか、モーリスも元パラシュート部隊の英雄で、スゴ腕産業スパイのはずやのに、どこでも証拠残しすぎや!
 
 こうして最後まで見て、私は天にむかって叫んだのである。
 

 「この映画に出てくるヤツ、どいつもこいつもアホばっかりやあ!!!!!」

 
 だってこれ、事件を殺人現場からじゃなくて
 

 不倫現場から逃げ出す」

 
 に変えたら、そのまま立派な『ベッドルーム・ファルス』になるもんなあ。
 
レイクーニーとか、アランエイクボーンみたいな。
 
 てか、私が舞台人なら、これを一字一句変えずにコメディとして上演します。いや、マジで。
 
 かくのごとく私は、この映画を観るたびに、パリ夜闇が匂い立つような重厚なノワールを味わうつもりが、奇しくも
 
 
 「忘れんぼ兄さんが閉じこめられてる間に、リアルな世界がとんでもないことになってギャフン!」
 
 
 みたいな作品を見せられてしまい、
 

 「なんか思ってたのとちがう……」

 
 そんな気分になりながらも、
 

 「けど、おもしろかったからいいや」

 
 なんて満足してしまうのである。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その2

2019年03月29日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
ルイマル監督『死刑台のエレベーター』は、濃密なフィルム・ノワールと見せかけて、実はマヌケなギャグ映画ではないのかと疑ってしまった私。
 
 しかも、この映画のつっこみどころは、まだまだ、こんなところでは終わらない。
 
 そこで今回は、あれこれ言いながらストーリーを最後まで語っちゃうので、未見の方はスルーしてほしいが、続いてモーリス・ロネはロープを回収している間に、逃走用のを盗まれてしまう。
 
 窃盗犯は、現場である会社の向かいにある花屋の娘ベロニクと、そのボーイフレンドであるルイ
 
 彼女にいつも、

 

「あの戦争の英雄で、エリートのモーリスはんとくらべて、アンタはホンマに頼んないねえ」


 
 などと、からかわれていることに、イラッとしていたルイが、

 

 「ほな、オレ様のイケてるところ、見せたるわ!」

 

 ブチキレて、モーリスの車に乗りこみ、勝手に発進させる。
 


 「オレかって、本気出したら、こんな悪いこともできるんやぞ!」

 

 という、ヤンキー的中2病な彼氏に、最初こそ
 


 「そんなんして、怒られてもしらんで」


 
 あせっていたベロニクだが、やがて

 

 「いやーん、ドライブって、メッチャ楽しいやん。もっとスピード上げたって!」


 
ノリノリになってはしゃぎだす。
 
 なんか、殺人劇から打って変わって、頭の軽いカップルがワチャワチャやりだすのだ。
 
 そこからもふたりは、勝手にダッシュボードを開けて拳銃で遊ぶわ、仕事の書類を見るわ、果てはハイウェイで走り屋を気取るわ、もうやりたい放題。
 
 このふたりの浮かれっぷりが妙に長く、見ていてこれが、実にイライラさせられる。
 
 なんだか、殺人とかモーリス・ロネの運命など、だんだんどうでもよくなって、
 

「いつこのアホどもに天誅が下るか」

 
 そっちでハラハラするようになり、今どきの若いもんはと、とってもな気分が味わえる。
 
 そんなことも知らず、うっかり八兵衛ならぬ、うっかりモーリスは後始末に走るのだが、ここで第二のアクシデントが。
 
 なんと、エレベーターが止まってしまうのである。
 
 ロープの存在に気づいた時には、すでに会社を閉める時間が来ており、守衛がビルの電源を落としてしまったからだ。
 
 おかげで、エレベーターをはじめ、明かりなどもすべてストップ
 
 なんとモーリス・ロネは、今度は自分が密室の中に閉じこめられてしまうのだ!
 
 そこからモーリスは必死に脱出をこころみるが、動かないものはどうしようもないし、そもそもこんなところを見つかったら、社長殺しの第一容疑者だ。
 
 これでは、うかつに声も出せない。うっかりロープを忘れてしまったばっかりに、大変なことになってしまった。
 
 モーリスが袋のねずみになっている中、ルイとベロニクの阿呆カップルはますます絶好調
 
 ハイウェイで素人レースを展開したドイツ人夫婦に気に入られ、二人の泊まるモーテルに宿泊。
 
 はよ車返したれよ! とつっこみたくなるが、これにはベロニクも悪ノリ全開で、
 


タベルニエ(モーリス・ロネの役名)夫妻で一泊します」

 

 勝手に、モーリスの名前まで拝借。
 
 宿泊代も出せる当てもないのに、迷惑この上ない姉ちゃんである。浮かれとりますなあ。
 
 モーリスがエレベーターの中で悶々とし、脱出しようとしてエレベーターから落ちそうになってウッカリ死にかけたり(なにをやってるんだか……)しているのをよそに、4人はシャンパンで乾杯
 
 昔話をしたり、記念撮影をしたりと、完全にゆかいな旅行気分。
 
 ただそこに唯一、不機嫌そうなのがルイ。
 
 このアンチャン、顔はいいのだが、いかんせん無能で使えないにもかかわらず、プライドだけは山のように高いという、なんともめんどくさいタイプの男の子。
 
 それがここでも大いに発揮され、見栄をはってドイツ夫婦に
 
 

 「ドイツによる占領、インドシナ、アルジェリア、オレは戦地で命を張ってきたんや……」

 
 
武勇伝を語りまくるのだが、もちろんのことすべて大嘘のホラ
 
 まあ、「自称ヤンキー」が語る、昔オレはワルだった話みたいなもので、こういうのは洋の東西を問わないよう。
 
 後輩や女子に失笑されてるんやけどねえ……。トホホのホだ。
 
 そうやってフカしまくって、まだまだ彼女に「ワルなオレ」を見せたいルイは、ドイツ人の車を盗んで逃げようとするが、それは見破られていた。
 


 「そんなん、もうバレバレやん」


 
 バカにされた上に、

 

「外人部隊とか、全部ウソなんもわかっとったで。キミみたいな軟弱な痛い坊やは、そういうこと言いたがるねんワッハッハ」


 
 これには赤っ恥のルイが逆上
 
 なんと、ドイツ人をモーリスの拳銃で撃ち殺してしまう。
 
 おまけに、悲鳴を上げた妻もズドン。いきなり殺人犯に。
 
 ちょっとホラ吹いたのをバカにされただけで、人殺すなよ! どんだけ場当たり的に生きてるんや。
 
 外がえらいことになってるその間、主人公のモーリスは、やはりエレベーターの中。
 
 どないしようもなく座りこんでいるモーリスは、自業自得とはいえ(殺人よりも忘れ物の方でネ)実に哀れである。
 
 ここは押さえた演出で、感情表現のセリフとかナレーションは一切ないのだが、モーリス・ロネのその背中からは
 
 

 「オレって、アホやなあ……」

 
 
 という情けない声が聞こえてきそう。さすがは名優、見事な演技といえよう。
 
 ズッコケな出だしから、さらにズッコケがズッコケを呼び、再び殺人が起こってしまったというか、こんなことで殺されて、ドイツ人もいいツラの皮である。
 
 だが、ことはここで終わらないのが、この映画のすごいところ。
 
 そこからマヌケは、さらにブースターがかかっていくことになるのだから、もうなにがなにやらなのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督

2019年03月28日 | 映画
 『死刑台のエレベーター』は良質のコメディ映画である。
 
 フランスのルイマル監督といえば、『地下鉄のザジ』は大好きだし、『さよなら子供たち』は胸苦しく切ない傑作で、どちらも何度も観た。
 
 この『死刑台のエレベーター』も、やはり私のお気に入りで、こないだテレビでやってたのを見て、もうこれで4回目の鑑賞だが、またも最後まで笑いっぱなしで大いに楽しめたのだった。
 
 というと、

 
 「おいおいちょっと待て、この映画は《フィルムノワール》ではないか。マイルスデイヴィスの音楽もけだるく、どこにも笑いのはいる余地などないだろ」

 
 なんて意見があるかもしれないが、それはまったく正しい
 
 ノエルカレフ原作のこの物語は、犯罪劇であり、全編シリアスな展開のはずなのだが、それでもなぜか、私にはこの映画が喜劇に見えて仕方がないのだ。
 
 まず引っかかるのが、主人公が「やらかす」シーン。
 
 ストーリーは、主人公であるモーリスロネ演じる、元フランス軍落下傘部隊の英雄ジュリアン・タベルニエが、雇い主である社長を殺そうとするところからはじまる。
 
 なぜ、そんなことをするのかと問うならば、なんとモーリスは社長の奥さんとつきあっている。
 
 いわゆる不倫の恋というやつだ。
 
 そこで、奥さん役のジャンヌモローに、

 
 

「こんなことしてても、未来がないやん。なあアンタ、ウチのこと愛してるんやったら、ウチのこと縛りつけてるあのダンナを殺して。ほんで、二人で楽しゅう暮らそうや」


 
 不倫を発端にした事件。
 
 ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』とか、ノワールには付き物の設定だ。
 
 そこで、モーリスは殺人を決行。
 
 アリバイ工作も完璧にし、オフィスのベランダからロープをのぼって社長室に忍びこみ、見事社長を自殺に見せかけて殺すことに成功する。
 
 愛ゆえの、命をかけた犯罪だ。
 
 あとはモーリスとジャンヌ姉さんが完全犯罪を遂行できるのか、それとも警察に事が露見してしまい、ふたりは哀れ、ひき裂かれてしまうのか。
 
 そうしたドキドキ感でぐいぐい引っぱっていく、サスペンスフルな展開を期待するであろう。
 
 ところがどっこい観てみると、思ってるのと、ちょとばっかし雰囲気がちがうのだ。
 
 どう、ちがうかといえば、モーリス・ロネの犯行現場における証拠隠滅シーン。
 
 見事殺人をやりとげ、指紋もすべてふき取り、密室の状況もこしらえて、完全に自殺としか見えない場を作り出す。
 
 さてホッとしたと、愛するジャンヌ姉さんの元に走ろうと車に乗りこんだところで、ふと上を見上げて、そこで気づくのである。

 
 

「あ、ロープ回収するのん、忘れてた」



 
 ここでまず、スココココーン! とコケそうになった。
 
 おいおい、そんな大事なもん忘れてどうする。
 
 そう、自室のベランダから社長室の階に、忍者のごとくよじ登るときに使ったロープが、思いっきり出しっぱなしに。
 
 下から見ると、マヌケにプラーンとぶら下がったままなのだ。
 
 潜入に使ったロープなんて、「密室殺人」をするのに、一番現場に残してはいけないアイテムではないのか。
 
 むしろ、忘れようにも、忘れようがないアイテムだと思うが。ようウッカリしましたな。
 
 オレオレ詐欺師が、自分の本名を名乗ったりするレベルのうかつさである。

 こんなスットコなミスを犯す男が主人公で、この映画は大丈夫なのか。
 
 そう思ってしまったのが運の尽き。
 
 いったん、
 
 「主人公がマヌケ
 
 という、すりこみがあたえられてしまうと、そこからがいくらダイアログディレクターがシブいセリフを書こうと、ジャズメンがクールなラッパを吹こうと、

 
 「すべてがギャグに見えてしまう」

 
 というギアを切り替えることは、できなくなってしまったのだった。
 
 
 (続く→こちら) 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョン・ヒューストン監督『白鯨』は『ウルトラQ』のような怪獣作品でした その2

2019年03月11日 | 映画
 前回(→こちら)に続いて、映画『白鯨』の話だが、その前にスティーブンスピルバーグの『宇宙戦争』について。
 
 映画や小説の世界ではよく、
 
 
 「観てみたら怪獣映画だった」
 
 
 という作品があって、『白鯨』も『宇宙戦争』もその流れ。
 
 で、そこを見分けるためのポイントとして前回、
 
 
 「宇宙人が空から送りこんできたトライポッドが、なんでわざわざ一回地中に埋まってから出現するのか」
 
 
 という脚本的矛盾の理由について問うたわけだが、その答えというのは簡単で、そんなもん、
 
 
 「地底怪獣の出現シーンがやりたかった」
 
 
 これに決まってるんですね。
 
 絶対にそう。あんなもん見た瞬間、
 
 
 「マンモスフラワーや!」
 
 「ツインテール出現!」
 
 「おしい! 地割れはパンパン言いながら青く光ってほしかった!」
 
 「それは、や・り・す・ぎ」
 
 
 などと、みな小躍りするはずなのである。
 
 怪獣ファンだから、私もスティーブンも。もう、一発でわかります。
 
 これ、怪獣好きに同じこと訊いたら、ほぼ100%同じ答えが返ってくるはずだけど、そうじゃない人に訊いたら、逆に正答(?)率はまちがいなくゼロでしょう。
 
 よかったら、周囲の映画好きに声をかけて、やってみてください。
 
 あと、「白い航跡!」って言ってみるのもよいかも。
 
 ニヤリとした人は、「正しい見方」のできる人です。
 
 きわめつけが、
 
 
 「大阪では自力で2体倒したそうだ」
 
 
 私は別に、そんな地元愛が強い方ではないけど、このときばかりは大阪人を代表して、スクリーンに握手を求めましたね。
 
 スティーブン、あんたはよくわかってる。
 
 「大阪人はお好み焼きで、ご飯を食べる」
 
 なんていう、「大衆向けにアレンジした大阪」を嬉々として語るエセ文化人なんかより、よほど浪速のことを理解してくれている。
 
 やっと会えましたね、と。
 
 世の中にはこういった「実は怪獣映画」という作品が結構存在しているんだけど、宣伝の関係で「感動の名作」に描きかえられたり、観ているほうが気づかなかったりして、その魅力をスルーされてしまうことがある。残念なことである。
 
 このジョン・ヒューストンの『白鯨』がまさにそう。
 
 メルヴィルの原作が各所で「難解」「読みにくい」と評されていることもあって、そもそも読む気にもならず(『白鯨』原作の読み方は池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』という本が参考になります)、その流れで映画も見る気にならなかったのだ。
 
 それが、たまたまつけたテレビでやっているのをなんとなく見ていて、そのことを後悔したのである。
 
 しまった! これはどこをどう見ても『ウルトラQ』や!
 
 そもそもが、脚本にレイブラッドベリがいる時点で、怪獣映画かと推理すべきであった。不覚このうえない。
 
 ストーリーはみなさまも御存じの通り、いたってシンプル。
 
 モービーディックなる巨大白クジラをかみ切られたエイハブ船長が、狂気的な執念でもって、その復讐を果たそうとする。それだけ。
 
 ルパン銭形というか、キンブルジェラート警部というか、追うものと追われるもののサスペンスでありながら、逆方向のバディものというか、ホモセクシュアルな雰囲気もあるという「逃亡者もの」の定番設定。
 
 映画では、原作にある「そもそもクジラとは」みたいな長ったらしい博覧強記ぶりなどはすっぱりとカットして、エイハブの偏執狂的な白鯨への執着にスポットを当てている。
 
 ホント、シンプルなうえにもシンプルな「海上追跡もの」でありまして、あの船に万城目淳江戸川由利子が乗っていても、なんの違和感もない。
 
 いや、むしろクジラの生態など、一の谷博士に解説してもらえば実にしっくりくる。脳内補完しているBGMも、宮内サウンドがハマる。
 
 ラストもぜひ、あの不気味な音楽と「」の文字で終わらせてほしかった。
 
 だれか、マッド映像で作ってくれないかしらん。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする