カニエ・ウェストこそは、男の中の男と呼ぶのにふさわしいのではないか。
私はここ数年、新年に目標とするべき「アニキ」や「師匠」を表明してきた。
2017年度は杉作J太郎さん、2018年度はチャーリー・シーン、2019年度は平山夢明先生などをリスペクトする文を書いてきたが、今年度は人気ラッパーのカニエ・ウェストでキマリである。
映画評論家の町山智浩さんは『週刊文春』のコラムなどで、よくカニエのアニキが大暴れしている様をネタにしているが、もう何度読んでも笑ってしまうのだ。
『トランプがローリングストーンズでやってきた』でネタにしていたのは、「Kanyeing」(カニエる)というスラングで、これは
「邪魔なやつが、しゃしゃり出てくること」
日本語でいえば「空気読めない」「ウザい」ってことだけど、まあ端から見ているとメチャクチャでおもしろい。
たとえば、「Kanyeing」が流行ったそもそもの発端は、2009年のMTVビデオ大賞で、最優秀女性アーティスト賞をもらったテイラー・スウィフトがスピーチしようとしたのを邪魔したところから。
いったんは和解しおさまったと思いきや、次に出した新曲で、
「俺、テイラー・スウィフトとセックスできそうな気がするんだ。なぜって、あのビッチを有名にしてやったのが俺だから」
これ以上底がないという、サイテーなうえにも最低な歌詞をつけたのだが、アニキの暴走はこんなものではすまない。
その語録はイカしたものばかりで、
「俺の人生で一番つらいことは、カニエ・ウェストの生演奏が観れないことさ」
「ライバルが誰かと考えると、思い浮かぶのは過去の人ばかりだね。ミケランジェロとかピカソ、あとピラミッドだな」
「俺はウォルト・ディズニーだ。ハワード・ヒューズだ。スティーブ・ジョブズだ。俺と並べて、彼らも光栄だろう」
「俺はアンディ・ウォーホールだ。同時代でもっとも影響力があるアーティストだから。俺はシェイクスピアだ。ナイキだ。グーグルだ」
昔、ある作家だったか、マンガ家だったかが、「宇宙に行ってみたい」という理由に、
「オレがいない地球を一度見てみたい」
と答えたそうだが、それを彷彿とさせるオレ様ぶりだ。ピラミッドとかグーグルとか、もはや人ですらない。
カニエ・ウェスト対王の墓。今年の年末は、このカードで決まりであろう。
内田樹先生はその著書の中で、
「あなたの師を探しなさい」
再三述べておられるが、私の師はまさに、このお方しかあり得ない。
というわけで、私の今年の目標は
「カニエ・ウェストのようなスターになる」。
まずはその前段階として、形から入るタイプの私は、
「新年会で、これまで自分とケンカした女の子を、ビッチ呼ばわりする歌を歌う」
ことからはじめてみたいと思う(←絶対ダメだろ)。
2021年も、よろしくお願いします。
映画『ブラックブック』を観る。
『ロボコップ』
『インビジブル』
『スターシップ・トゥルーパーズ』
などなど、気ちが……作家性の強い作品で名を成すポール・バーホーベン監督の歴史サスペンス。
そのアクの強い作風ゆえ、ハリウッドを追い出され、
「じゃあ、もうコッチで好きにやらせてもらいまっせ!」
居直って地元オランダに帰ったバーホーベンが、ナチスものを作るとなったら、そらなかなか一筋縄ではいきませんわな。
ストーリーの骨格としては、ナチに家族を殺されたユダヤ人女性がレジスタンスに加わって復讐を試みるが、お約束の裏切り者や、敵の卑劣な策などもあり逆にドイツへの協力者に仕立て上げられ……。
といった、わりかし、わかりやすいといえば、わかりやすいもの。
それこそ古くは、アルフレッド・ヒッチコックあたりが撮れば、スリルあり、ロマンスあり、シャレたセリフもあったりしてハラハラドキドキのエンタメに仕上がりそうだが、これがバーホーベンにかかると、そんな期待など、ものの見事に裏切ってくれます。
とにかくこの映画、ナチスものでよくある
「ドイツ人=悪」
「連合軍やレジスタンス=善」
といった、それこそポールが最後までなじめなかった、ハリウッド的な二元論を徹底的に否定する。
家族の仇で、どうしようもない悪党のギュンター・フランケンは音楽を愛し、ピアノと歌の才能にも恵まれている「芸術家」という設定。
ルートヴィヒ・ムンツェ大尉は「ナチなのに立派」と描写されているけど、もちろん直接見せないだけで、SSである彼のせいで多くの人が殺されている。
レジスタンスにも裏切り者や、差別意識を見せる者、家族への想いゆえに理性的行動を取れなかったり、きわめて人間臭い。
「被害者」であるオランダ人やユダヤ人だって、いったん「勝者」側につけば、正義の名のもとに「ナチよりひどい」蛮行におよぶ。
こういった、ポールによる徹底的にペシミスティックで、諦観に満ちたというか、お茶でも飲みながら
「人って、そういうもんやろ」
とでも言いたげなクールが過ぎる描写に、観ている方は本当にカロリーを使う。
さらにはそこに、陰毛の脱色、足をトイレにつっこんで洗う、血みどろに糞尿まみれ。
まさに「バーホーベン節」ともいえるエログロが炸裂しまくって、なんかもう、とにかくポール絶好調。
特にキツイのが、戦争が終わったあと、対独協力者にオランダの「善良な市民」がリンチをかけるシーン。
もう、これでもかというテンションの高さで描写される「魔女狩り」は正直、正視に耐えない。
こんな明るい醜さ、よう描けるもんだ。
昔、第二次大戦のドキュメンタリー映像で、「パリ解放」のシーンを見たときのことを思い出す。
そこではパリ市民が、ドイツ人と仲の良かった女を、これ以上ない満面の笑みで丸刈りにし、「私はナチのメスブタです」と書かれたプラカードを下げさせ、顔にハーケンクロイツを落書きし、市中を引き回す。
子供も大人も、さわやかすぎる残酷さで彼女らを足蹴にするのだが、とにかく、メチャクチャ楽しそう。
それを見て、本気で吐き気をおぼえたけど、それをポールは見事に再現しているんだ、コレが。
もちろん、それに私が嫌悪をもよおすのは
「自分にも、そういう【正義をバックにつけて、思う存分に暴力をふるいたい】という願望があるから」
にほかならず、いわば近親憎悪なのだが、だからこそ、それをむき出しにされるとキビシイ。
ポールから「突きつけられてる」気がするからだ。
「オレもオマエも、しょせんは、こんなもんやで」と。
作中、ヒロインがあまりの試練に耐えかねて、
「苦しみに終わりはないの?」
そう叫び、嗚咽するシーンが見せ場だが、観ているこっちも
「もう勘弁してください」
音を上げそうになる。まだ終わらんのかい、と。
登場人物は、ドイツ人もオランダ人もユダヤ人も、それぞれにインパクトを残すが、もっとも印象的なのはやはり、主人公ラヘルの「友人」ロニーであろう。
この女というのが、いわゆる尻軽で、ドイツがブイブイ言わしていたときはその愛人になり(相手はラヘルの家族を惨殺したフランケン)。
ナチスが追い出されたら、いつの間にか連合軍兵士の彼氏を引き連れ、なんのかのと楽しく生きて、最後まで幸せになっている。
この人をどう見るかは、
「強い」「したたか」「クソ女」「天然」「ビッチ」「いい人」
など人それぞれのようだが、ポールはあまり、否定的に描いているようには見えない。
なぜ腰の定まらないロニーが、「天罰」のようなものを受けないのか。
たぶんそれは彼女だけが、この救いのない物語の中で、唯一「憤怒の罪」をまぬがれているからではあるまいか。
そこに「意思」があるかに違いはあるけど、ブラッド・ピット主演の『フューリー』(「憤怒」の意だ)における、最後にアメリカ兵を助けたドイツ兵のように。
その意味で彼女は、徹底して戯画化されたリアリズム(というのも変な表現だけど)の中でファンタジー的存在。
「天使」のようでもあり、他者の不幸の上に幸福を築く、無邪気な「悪鬼」のようにも見える。
なんて見どころはタップリなんですが、なんせとにかく、全編
「ポール・バーホーベンのガチ」
を見せつけられて、そこがもう大変でした。
鑑賞しながら、しみじみ思いましたね。
そういや、この人って、こんなんやったなあ、と。
傑作なのは間違いないけど、ここから5年くらいポールの映画お休みしてもええわ、とグッタリ。
おススメですけど、すすめはしません。
いやもう、とにかく疲れましたわ(苦笑)。
映画『しあわせの雨傘』を観る。
あらすじは作品紹介によると、
スザンヌは、朝のジョギングを日課とする優雅なブルジョア主婦。
夫のロベールは雨傘工場の経営者で、「妻は美しく着飾って夫の言うことを聞いていればいい」という完全な亭主関白だ。
ところがある日、ロベールが倒れ、なんとスザンヌが工場を運営することに。
明るい性格と、ブルジョワ主婦ならではの感性で、傾きかけていた工場はたちまち大盛況! だが、新しい人生を謳歌する彼女のもとに、退院した夫が帰ってきた
主演はカトリーヌ・ドヌーブ。
といっても、この映画の彼女は『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』のような、若くてコケティッシュな姿ではなく、孫もすでにいるというおばあちゃん役。
ただ、そこはなんといってもフランスの名女優のこと。
その存在感と華やかさはなかなかのもので、演技はもとより、歌にダンスと大はりきりと、その魅力をふんだんに振りまきまくって、まずそこを観ているだけでも楽しい映画。
では肝心のストーリーはどうかといえば、これがまた実に良かった(以下、ネタバレあります)。
物語のキーワードは
「みんな間違ってるよなあ」
家庭にしばりつけられた主婦が、ひょんなきっかけから社会に出ることになり、そこで自己実現のきっかけをつかんでいく、というのはストーリーとしては、さほど目新しいものではない。
どっこい、これがフランス喜劇となると、そう一筋縄ではいかない。
最初の45分くらいまでは、亭主関白の旦那がまくしたてるようにイバリ散らすため、この人が「悪役」として配置されているのかと思いきや、ことはそう単純ではないのだ。
とにかく、この映画に出てくる登場人物は間違いまくりである。
エラそうな旦那はもとより、カトリーヌ・ドヌーブも邪気のないおばあさんと思いきや、過去には夫がいる身でガンガン男に抱かれてる。
母親が横暴な父親の言いなりなのを、やや上から目線ながらも歯がゆく思っていた娘は、土壇場で裏切って、カトリーヌを社長の座から引きずり降ろし、
「アンタ、家にしばりつけられてるウチのこと《飾り壺》やって、バカにしてたやないの」
そう行動の矛盾をつっこまれると、
「うん。ゴメンね。でも、パパと離婚はせんといて」
的外れかつ、勝手なことを言う。
なんといってもすばらしいのが、ジェラール・ドパルデュー演ずる左翼の市長。
立派で高潔な彼はかつて一夜を共にしたカトリーヌと再会できて、やれうれしや、結婚しよう。
さらには彼女の息子が、自分の隠し子だとカン違いして浮かれたあげく、彼女の放埓な一面を知ると、
「ボクはブルジョアのメス豚にのぼせあがっとったんか……」
突然、スゴイことを言い出す(笑)。
あげくには、カトリーヌの息子が自分の落とし種でない(ついでにいえば夫の子でもない!)ことを知るや、家まで5キロもある郊外の湖に置き去りに。
「ちょっと! ウチ、ハイヒールやのに、どうやって帰るのん?」
という訴えにも、ガン無視で車を出してしまうところなど、ジェラール最低! でもって最高!
なんてちっちゃい男なんや、おまえはホンマと、もう大爆笑なのである。
なんて書くと、なんだかこの映画の登場人物がみなそろいもそろって、愚か者のエゴイストのような印象をあたえそうだが、そこはそうでもない。
たしかに彼ら彼女らは、たくさんの間違いを犯す。
それも、なかなかに人としてヒドかったり、状況として最悪だったりと、観ていて「なにやってんのよ」と笑いっぱなし。
でもねえ、これがフランス喜劇の底力なのか。
そこがあんまり、怒ったり呆れたりといった感じにならないというか、むしろ、しみじみさせられるというか。
なんか、人ってこういうバカなこと、言ったりやったりするよなあと。
私も大人になって思うようになったことは、
「人間って、そんなに賢くないよなあ」
これは別に、「人類は愚かだ」みたいな、
「どの目線でしゃべってるねん!」
そう突っこみたくなるような文化人発言ではなく、なんかねえ、人ってそんないつもいつも、賢明にはふるまえないじゃん、みたいな。
「ここで、それやるか」
「そこで、それ言うか」
学校で、家庭で、仕事で、友人や家族や恋人に、そんなことばかりしてるのが人というものだ。
それらの多くは、あとで冷静に考えたら
「なんであんなことを……」
バカバカしくなったり、頭をかかえたりすることばかり。
けど、そのときは感情がおさえられなかったり、それが最善だと思ってやってたりする。
阿呆やなあとボヤきたくなるが、カート・ヴォネガット風にいえば、「そういうもの」ではあるまいか。
それこそ、男の立場からすると、ジェラールがカトリーヌをメス豚(何度聞いてもいい語感だ)呼ばわりしたあげく置き去りにするとか。
下手すると「人間のクズ」というくらいヒドいんだけど、なんかわかる、とはいわないけど、自分だったらどうだろう。
結構、似たようなことしちゃうんじゃないかなあ、少なくとも紳士的にふるまう自信はないよなあ……。
なーんて苦笑してしまうというか。それは同じくカトリーヌやその娘の間違いも、それぞれの立場に共感できる人が見たら、
「ヒドイ! でもなんか、わからんでもないわ……」
そうなるんではあるまいか。その演出のさじ加減が絶妙なんスよ。
この作品を見て思い出したのは、立川談志師匠のこんな言葉。
「落語は人間の業を肯定する芸である」
人間というのは完璧ではなく、間違いは犯すし、でもそれこそが人間であり、そこを笑って慈しむのが落語であると。
もうひとつ、作家の池澤夏樹さんがギリシャ神話について語ったとき、こう言ってもいる。
「神話というのは、人間の行動の基本パターンを物語化したものだと思う。
人間は好色で、喧嘩好きで、すぐ裏切り、怒りに身を任せ、それでも崇高なものに憧れて、時には英雄的にふるまう」。
―――池澤夏樹『世界文学リミックス』
そう、この『しあわせの雨傘』はまさに「業の肯定」映画。
「喧嘩好き」で、「すぐ裏切り」「怒りに身をまかせ」「時には英雄的にふるまう」。
池澤先生の言うエッセンスが、すべて詰めこまれている。まさに「フランス落語」。
それも日本の「人情喜劇」みたいに湿っぽくないのが良いというか、その理由に「間違い」に対する登場人物の反応もあるかもしれない。
失敗や失言に、もちろん怒ったりガッカリしたりはするし、それをゆるすというわけではないけど、そこでガッツリ傷ついたりしないというか。
なんといっても、置き去りにされたカトリーヌは結局ヒッチハイクして帰るんだけど、そこで拾ってくれたたくましいトラック運転手とまんざらでもない雰囲気を出したりと(若き日のジェラール・ドパルデューもまた、かつてはしがないトラック運転手だった!)、メチャクチャこのあたりもカラッとしている。
そこで泣きさけんだり、平手打ちしたりせず、このあっけらかんとしたところが、また良いのである。
登場人物の愚かさに共感しつつも爆笑し、ついでに言ってしまえば、ラストでカトリーヌがとる行動が、またダイナミック。
アンタ、そこへ行きつきますか! パワフルやなあ。
もうねえ、まいりましたよホント。なんて、かわいいおばちゃんなんや!
フランス野郎がつくったから、しゃらくさいんだろとか思わず(私のことです)、一度は見てください。
ジェラール・ドパルデューとのダンスも最高。超オススメです。
コーエン兄弟の『ノーカントリー』は「萌え」映画ではないか。
私は「萌え」というのにうといタイプで、もともとアニメや美少女ゲームなどに縁があまりなかったせいか、そういった文化にピンとこないところがある。
いや、もちろんキャラクターがかわいいというのは理解できるし、『ゆるキャン△』とかも好きだけど、それこそ『月刊熱量と文字数』のサンキュータツオさんや松崎君のような熱さでは語れないし、『艦これ』みたいな「擬人化」とかなってくると、もう置いてけぼりである。
そんな「萌え」に関してはド素人の私が、「これがそうかも!」と感じるところがあったのが、映画『ノーカントリー』。
傑作『ファーゴ』でヒットを飛ばしたコーエン兄弟によるバイオレンス映画で、専門家筋の評価も高いが、これが確かにおもしろかった。
あらすじとしては、テキサスに住むベトナム帰還兵ジョシュ・ブローリンが狩りの最中に、死体が散乱しているのを発見する。
どうも麻薬取引の際にトラブったギャングたちが、壮絶に撃ち合った後のようなのだが、相撃ちで全滅した後に、大金だけが残されてた。
危険極まりない状況だが、ジョシュはその金を拝借することにする。
だが唯一、瀕死ながらも生き残っていたギャングのことが気にかかり、「水をくれ」と訴えていた彼のため現場に戻ったのが運の尽き。
そこでギャングと鉢合わせしてしまい、命をねらわれるハメにおちいる。
そこからジョシュはメキシコ系のギャングと謎の殺し屋、また彼を追う保安官や賞金稼ぎなどもまじっての追跡劇に巻きこまれるのだが、ここでやはり、キモとなるのがハビエル・バルデム演ずるところの殺し屋シガーであろう。
この人がですねえ、とにかく存在感が抜群。
出てきた当初というか、オープニングはこの人からはじまるんだけど、とにかく何を考えているのかわからず、メチャクチャにアヤシイ雰囲気が芬々。
自分を逮捕した保安官を殺すシーンとかは、まあ必然性があってわかるとして、その後も彼はとにかくバンバン人を殺しまくるんだけど、そのほとんどに大した理由がない!
いや、一応はウディ・ハレルソン演ずる賞金稼ぎが
「ヤツなりの論理とルールで動いている」
みたいなことを教えてはくれるんだけど、その内容の詳細はないし、そもそも気ちがいだろうから説明されても理解不能だろうしで、あたかもターミネーターのような、ただの殺人マシーンにしか見えないのだ。
ハビエルのコワいのは、まず見た目。
これは演じた本人も
「オレは見た目が変だから、こんな変な役がお似合いなんだよお」
とボヤくように、たしかにそれだけでインパクト充分。
一目、「オフってる状態の竹内義和アニキ」であろう。
目や鼻など各種パーツが大きいため、そこが目を引くのに、それが劇中まったく動くことがないんだから、その能面のごとき冷たさが気になってしょうがない。
とにかく、人を殺そうが、自分が撃たれようが、後ろでなにかが爆発しようが、ずーっと無表情。
思わずFUJWARAのフジモンのごとく、
「顔デカいからや!」
なんて、つっこみたくなる迫力なんである。
さらにハビエルのコワいのは、その武器。
この手のバイオレンスといえば、やはり銃描写がおなじみだが、ハビエルの使っているのは、われわれの連想するバンバンというアレではない。
ボンベを使った空気圧で弾を打ち出すという、なんでも家畜専門の安楽死アイテムらしく、その「プシュ」という乾いた音とともに、
「人間を、家畜程度にしか呵責を感じず殺す」
という空虚感も表現されていて、これまたすこぶるオソロシイ。
なにかこう、「処理してます」感が満々なのだ。
とどめは妙な粘着性。
物語前半の、ガソリンスタンドにおけるおじさんとのやりとりなど、観ていてストレスがすごい。
善良そうなおじさん相手のなにげない無駄話に「なにがおかしい?」「どう関係あるんだ?」とネチネチからみまくり、
「ちょっと、ヤバイ客やん……」
テンション下がりまくりのおじさんに、
「いつ寝るんだ?」
「おまえの家は裏にあるあれか?」
「その時刻に会いに行く」
とか、あまつさえ突然コインを取り出して、
「表か裏か賭けろ」
なんて言い出して、「何を賭けるんだ?」と訊いてもまったく応えてくれなくて、たぶん外すと殺されちゃうんだけど、その殺人に動機とかもなくて……。
観ているだけで心がザワザワして、耐えられません。もう、東京03の飯塚さんのごとく、
「こえーよー!」
絶叫したくなるようなシーンが延々と続くのだ。
そう、この『ノーカントリー』はラストの終わり方とか(コーエン兄弟によると「だって、原作がそうだからしゃーないやん」とのことらしいけど)、おびただしい数の殺人とか、イェーツの詩とかトミー・リー・ジョーンズの夢の話とか、それこそコインに象徴されるハビエルの思わせぶりな「悪魔的」行動とかで、
「形而上学的で難解」
と解釈する人もいるみたいだけど、私からすればこれはもう、
「ハビエル・バルデム大暴れ映画」
ということで、いいんでないかと思うわけだ。「怪獣映画」ですよ。
いやーなんか、ストーリーとかどうでもよくて、
「《無垢なる暴力》としての象徴」
「人の運命は不条理で残酷なもの」
「欲と悪にまみれた人間の悲劇」
とかなんとか、そういうのはとりあえず横に置いておいて、それ以上にやはりキャラクターとしての勝利ではないかと。
なんかねえ、月影先生とか、黒い天使の松田さんとか、男岩鬼みたいに、
「出ているだけでオモロイ」
そういうことなんじゃないだろうか。
で、そこでポンと手を叩いたわけだ。
「これって、【萌え】っていうんじゃね?」
つまりだ、「萌え」の定義は数あれど、そのなかのいくつに、
「なにも事件など起こらなくても成立してしまう」
「存在することが、もうかわいい」
「見ているだけで癒される」
こういうものがあるとすれば、まさにこの映画のハビエル・バルデムが当てはまる。
以前、『けいおん!』を観たとき、なんとなく退屈で1話でやめてしまい、アニメファンの友人に、
「その、なにも起らん感じがええのになあ」
と諭されたことがあったが、たしかにあの作品の唯ちゃんや律ちゃんをハビエルに変換すれば、今なら言いたいことはわかる。
それなら絶対におもしろいし、観る。それこそ、まさにキャラクターの魅力であり、「萌え」ではないのか。
ということで、早速『けいおん!』をすすめてくれた本人である友人イズミ君に問うてみたところ、
「いや、違うと思うけど……」
私の萌えへの道は2020年も遠そうである。
「面白半分にホームレスをリンチして殺し、それを目撃した独居老人をおどしたうえ、年金や貯金などもすべて奪い取り、拷問にかけたうえで自殺に追いこむ街のチンピラ」
「執拗な取り立てのみならず、払えなければ体で何とかしろと若い母親を風俗営業店へ売り飛ばし、軟禁状態で仕事をさせた末、その結果放置された子供が死に、母親もその場で自殺したのに高笑いのサラ金業者」
ロバート・ブロック『血は冷たく流れる』
コーネル・ウールリッチ『夜の闇の中へ』
レイモンド・チャンドラー『湖中の女』
山田宏一『美女と犯罪―映画的なあまりに映画的な』
小鷹信光編『ブラック・マスク 異色作品集』