青山南『アメリカ短編小説興亡史』を読む。
日本だと、昨今
「短編集は売れない」
出版業界を悩ませているそうだけど、アメリカでは短編は、
「a national art form」
であると、大変重んじられていたそうな。
その理由は、まだ映画が生まれる前、アメリカの娯楽の王様といえば雑誌。
中でも、そこに掲載されていた短編小説というのが、売上を左右するほど注目されていたからとか。
たしかに、名前くらいは知ってる『ニューヨーカー』などは、かなり色濃く短編のイメージがあり、日本で言うマンガやアニメのような「国民的お家芸」といえる時代が長かった。
で、本書ではその一端を、翻訳家の青山さんが、歴史や裏話などまじえてレクチャーしてくれるのだが、これがおもしろいのなんの。
たとえば、アメリカでは短編が「a national art form」ではあるが、それゆえに原稿料もべらぼうで、ともすると粗製乱造になりやすい。
実際、短編は「金のために魂を売る」一面もあったらしく、スコット・フィッツジェラルドなど、
「昨日も、短編という『ショート』で一発やって大金を手に入れました」
なかなかに、きわどい表現で、自虐していて笑えたりする。
とはいえ、アメリカの短編、それもシャレた都会派小説というのは傑作も多く、やはり評価も高いことも事実。
それゆえに人気作家といっても簡単に「金のため」に書き飛ばせるわけでもないようで、特にうるさ型の『ニューヨーカー』は編集側もきびしいらしい。
アーウィン・ショーや、アン・ビーティといった大御所もボツを食らいまくり、
「さすがにうんざりします」
手紙でなげいたりしている。
作品は洗練されまくっているが、その内実はなかなかシビアなよう。
シビアといえば、レイモンド・カーヴァーと、編集者ゴードン・リッシュとの関係も、まさにそう。
カーヴァーといえば村上春樹訳で有名だが、あの独特の無表情な文体は、その無機質ともいえる世界観と実にマッチしている。
読んでいて底知れない空虚感や、ときにホラーめいた恐怖を感じることすらある。
ところがどっこい、実際のカーヴァーの文体は無表情どころか、かなりセンチメンタルなものであったらしく、それをリッシュが、
「こんな浪花節でええと思てるんか!」
とばかりに叱責し、ガンガン赤を入れまくっていたそうなのだ。
それでできあがったのが、あのカーヴァー節ともいえるクールな作品群。
でも、ホントはちがうどころか、真逆の作風だった。
そう聞くと、
「え? じゃあもうそれって、レイの小説じゃないじゃん!」
といいたくもなるが、実際にカーヴァーは、
「もうこれ以上書き直さないでくれ。僕の好きにやらせてくれ」
そうリッシュに懇願し、ついには袂を分かつことに。
文学史的には、後期のカーヴァーは
「ずいぶんとセンチメンタルな作風になった」
とされるそうだが、なんのことはない。
こっちこそが「本物のレイモンド・カーヴァー」だったのだ。
なにやら、「作家と編集」ってなんだろうというか、これ自体が一片の短編小説になりうる、深みと怖さをたたえているではないか。
他にも、「大学の創作教室」に対する作家や読者の反応や、女性、先住民、黒人、ヒスパニックといった、なかなか表に出られなかったマイナー文学の曙、などなど興味深い話題が盛りだくさん。
なにより、青山さんお得意の、サクサク読める軽妙洒脱な文章が、お見事すぎる。
どうやったらこんなに楽しく、それでいて役に立つものが書けるんだろう。あこがれるなあ。
読みやすく、勉強になって、素人でも
「アメ文、ちょっと読んでみっか」
と思わされること間違いなしのオモシロ本。おススメです。
(続く→こちら)