前回(→こちら)の続き。
1969年の王座戦。
大山康晴名人は、当時若手棋士で「打倒大山」の旗頭だった米長邦雄七段の猛攻の前に、ピンチに立たされる。
▲55馬と寄ったこの局面。
先手に桂が3枚もあり、▲85や▲65に足されると、相当に気持ち悪い形。
だがここで、後手に一撃必殺のしのぎがあった。
食らった米長も、スタンディングオベーションの、あざやかすぎるディフェンスとは……。
△54金とあがるのが、「受けの大山」が見せた、あざやかな一撃。
少し前に放たれた、意味の分かりにくい△36角は、この手のために用意されたものだったのだ。
先手のカナメ駒である、▲55の馬にアタックをかけながら、遊んでいた△43の金が中央を制圧。
と同時に、門が開いて△13の地点で蟄居していた竜が、進路オールグリーンと一気に動き出す。
まるでオセロで、黒の駒がパタパタと白にぬりかえられるかのごとく、その利きが△73まで通ってくる仕掛けなのだ!
すばらしい視野の広さ。まさに「景色が変わる」とはこのことではないか。
この手を軽視していた米長だが、感心しているヒマはない。
まだ手はあるはずと、気を取り直して▲73馬と飛びこむ。△同竜に▲同桂成、△同玉。
一回▲23飛と王手して、△53歩の合駒に▲85桂、△63玉、▲73金。
△52玉は飛車打ちの効果で、▲43銀から先手勝ちだから、△64玉と危ない方に逃げるしかない。
そこで、▲66銀打としばる。
クライマックスはこの場面。
後手は△55への逃走ラインを封じられ、次に▲56桂の一手詰がある。
△45銀など△56の地点に駒を足しても、▲56桂と打って、△同銀、▲同銀で、▲55と▲65に駒を打つ筋が、同時に受けられず必至。
すごい切り返しこそあったが、そこから立て直した米長も、さすがの腕力と精神力ではないか。
が、ここで「受けの大山」の妙技、第二弾が炸裂する。
金縛り状態の後手玉だが、この包囲網を突破する手が、ひとつだけあったのだ。
ヒントは、ある格言を思い出してほしい。そしてやはり、主役になるのはあの角で……。
△56桂とここに打つのが、
「敵の打ちたいところに打て」
を実践した、盤上この一手の見事すぎるしのぎ。
これが桂打ちの詰みをつぶすだけでなく、次に△68桂成から△69角成がねらい。
これで先手玉を一気に攻略する、
「詰めろ逃れの詰めろ」
になっているのだ。またしても、△36角が光り輝いているではないか!
▲同銀と取るしかないが、そこで△65歩と強く打つのが、眉間で受ける真剣白羽取り。
危ないようでも、桂馬しか持っていない先手には、後手玉に王手をかける形がない。
後手玉をここまで追い詰めながら、あと数ミリが届かないとは、まあなんたること。
手段に窮した先手は▲28飛成と駒を補充しに行くが、冷静に△59竜と逃げられて後続はない。
以下後手は、角を取らせている間に、悠々と△66歩、△56竜と押さえの駒をきれいに掃除して憂いはなく、そのまま押し切った。
いかがであろうか。これが「受けの大山」が見せた、見事なしのぎの手順である。
絶体絶命の局面から、ほれぼれするような体返しではないか。
この将棋は、『将棋世界』か『将棋マガジン』かに連載されていた、米長の自戦記で紹介されていたのだが、あまりのおもしろさに何度も並べてしまったもの。
なにかこう、昭和将棋のコクのようなものが、凝縮されているような内容で、今の視点で見ても十分に興味深い。
渡辺明棋王・王将は自身の将棋に幅を持たせるため、中原誠十六世名人の将棋を勉強したそうだが、振り飛車党のファンや私のような「受け将棋萌え」の方は、ぜひ大山将棋を堪能してみてはいかがでしょうか。
(木村一基のど根性編に続く→こちら)