「米長哲学」とはなにか 大野源一vs米長邦雄 1970年 第24期B級1組順位戦

2021年06月23日 | 将棋・雑談

 1970年の、第24期B級1組順位戦

 その最終日は、後の将棋界に、多大な影響をあたえることになる1日だった。

 ということで前回は、自身は消化試合なのにもかかわらず懸命に戦い、大野源一九段の「58歳A級」という夢をはばんだ、米長邦雄七段の将棋を紹介した(今回の記事はこちらの米長−大野戦セットで読んでいただくと、より理解が深まります)。

 それを読んでいただいた方で、中でもカンのいい人なら、途中で察せられたのではないか。

 そう、あれが「米長哲学」という言葉を生んだ、有名なエピソードなのである。

 「米長哲学」とは、

 

 「自分には関係ないが、相手には人生のかかった大勝負。こういうときこそ、真剣に戦って勝たなければならない」

 

 論理的には筋が通ってないのだが、それゆえにというべきか、不思議な説得力重みのある言葉。

 実際、今の棋士は若手からベテランまで多くが、この哲学通り消化試合でも100%の力を出そうとする。

 ハッキリ言って相手からすれば「よけいなお世話」で、かつて名人挑戦権をかけた勝負で、消化試合だった米長に敗れた森安秀光八段は、

 

 「米長さんは、どうしてボクに意地悪をするんだ」

 

 酔って泣きぬれたそうだが(森安と米長はウマが合う間柄だった)、このあたり、この問題を語るときに棋士や評論家のよく言う、

 

 「プロなんだから勝ちに行くのは当然だし、負かされた方も勝負なんだからサッパリしたもので、それを恨んだり文句を言ったりしない」

 

 という声と、微妙に温度差があったりして興味深い。

 そりゃ人間の心なんて、そんな簡単なものではないですわな。

 やはりこの哲学のキモは、

 「どこか、矛盾をはらんでいる」

 ことだろう。

 実際、渡辺明三冠や、森下卓九段などは「違和感がある」と表明している。

 この手の例は枚挙にいとまがなく、たとえば棋聖のタイトルを取り、大山康晴十五世名人と、何度も血涙の一戦を戦った山田道美九段

 勝てば、相手を強制引退に追いやる、という一番を勝利で終えたあと、

 


 「人を不幸にして……ボクはなにをやっているんだ……」


 

 終局後、盤の前で涙したという。

 現役棋士なら先崎学九段も若手時代、『将棋世界』のエッセイにこんな一文を寄せていた(改行引用者)。
 
 
 

 話は遡るが、新四段の年、十八歳で順位戦に臨んだ僕は、最終戦を七勝二敗で迎えた。上がり目はなく、消化試合だった。
 
 しかも、人数の多いC級2組では奇跡的なことだが、勝っても負けても順位が全く変わらないという状況だった。
 
 相手には、降級点が懸かっていた。師匠の米長先生にはこういう時は、必ず全力で指して勝つのだと教わった。
 
 だが、僕は、勝ちたくなかった。相手は、日頃から親しくさせて頂いている先輩だからである。
 
 負けよう―――と思ったが、十八歳の人間が、わざと負けようとするには、純粋な心のとの葛藤を避けるわけにはいかない。
 
 迷って相談すると、返ってくる答えは決まって「甘い」だった。僕も甘いと思った。

 僕は、どうでもいいやと思って指し、しかも勝ってしまった。対局後、猛烈に後悔した。
 
 はっきりいって、勝つつもりはなかった。指していたら、必勝形になってしまった。あっという間に終わった。
 
 なんで負けなかったんだろう。勝つ意味はなかった。本気でそう思った。以来、悔恨の念は、間欠泉のようにまばらに吹き出し、僕を襲った。
 
 迷ったことと、勝ったことのふたつが、複雑に絡み合い、揺さぶられつづけた。その度に、自分は甘すぎると思い、反吐が出そうだった。

 

 
 あの羽生善治九段もまた、若いときに消化試合で「つらい勝利」を味わった(その将棋は→こちら)。

 それくらい、消化試合で「勝ってほしい相手」と戦うことは人を惑わせる。

 逆に昔なんかは、若手棋士に昇級や降級のかかっている対局で、ベテラン棋士が、

 「今日は、ごちそうになろう」

 なんて早々と投げてしまうケースもあったりして、このあたりは人それぞれとしか言いようがない。

 実際、米長も著書の中で、そういう「人情相撲」的な態度を、

 


 「それが自然な心情」


 

 そう書いているのだ。

 複雑な気持ちにゆれながらも大野に勝利し、

 


 「タイトルを争いうるところまできたと確信した」


 

 と言い切った米長だが、それは、

 「勝ってしまった罪悪感を、なんとか処理しようとする、アンビバレントな心情」

 の発露のような気もするし、たぶんこれは、

 

 「八百長はよくない」

 「そこを非情になれるメンタルでないと、トップにはなれないのだ」

 

 みたいな、われわれレベルでも思いつくような、ありきたりな考えでは、語れない問題なんだろう、きっと。

 これはもう、「正解」なんてない。

 もしあなたが

 

 「プロなんだから手を抜くな」

 

 と思っても、

 

 「別に、負けてあげればいいじゃん」

 

 と感じても、

 

 「それは逆に対戦相手に失礼でもあるんだから、状況にかかわらず全力で」

 「他力で待つ人の人生もあるんだから、やっぱりがんばるべき」

 「強いヤツを足止めするため、わざと組みやすい相手を勝たせておくという手もあるぜ」

 

 でも、なんでいいけど、それらはきっと「どれも正解」で、同時に「どれも間違い」でもあるのだ。

 それこそ、私だったら別に勝ちません。

 そこを「甘い」「プロ失格」とか言われても、「そうでっか」としか言いようがないのだ。

 マイケルサンデル教授に、ハーバードで取り上げてもらいたいくらい、ややこしくも、人間くさく、めんどくさい悩み。 
 
 ただひとつだけ言えることは、米長によって、この問題の行末を「道一本」にしぼることになったのは、大きかったろう。
 
 先輩のこういう姿を見せられ、またそれが浸透した以上、少なくとも続く者の悩む負担を、軽減させたのは間違いない。
 
 「やるしかない」のだから。
 
 そして、状況はどうあれ、
 
 「目の前の将棋を全力でがんばる」
 
 というのはプロの、いやさ、すべての「将棋指し」にとって正義の結論であること。
 
 これだけは、たしかなのだから。
 
 

  (「激辛流」丸山忠久の「友達をなくす手」編に続く→こちら

 

 

コメント (2)
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