「え? 角落ちやのに、コレ?」
なんて、目が点になったのは、ある棋譜を並べていたときのことであった。
このところ、古い将棋というか、中原米長、升田大山や木村義雄を超えて、
阪田三吉vs関根金次郎
という、あの有名な「銀が泣いている」(→こちら)や、それに阪田勝利後の「平手戦」(→こちら)など、いにしえのバトルを紹介しているが、その中で、妙な棋譜を見つけてしまったのだ。
そもそも、阪田や関根のころの将棋界というのは、資料もあまり残ってなくて、そのせいか書き手も「想像」にまかせることも多く、その実態はよくわからなかったりする。
まあ、それはしょうがないんだけど、多少はこうして調べてみると、好奇心は刺激されるもの。
今回、気になったのが、いつもお世話になっている「棋譜データベース」でのことだ。
「阪田三吉 関根金次郎」で検索すると、11個の棋譜が出てくる。
なぜか「銀が泣いている」の一局が入ってないんだけど、それ以外には「角落ち」の棋譜があったりして、なかなか興味深いが、ひとつ腑に落ちないのがこれ。
明治39年(1906年)4月12日に行われたという関根-阪田戦(棋譜は→こちら)。
とここで、年号を見てピンと来られた方は、なかなかの玄人ファンであろう。
そう、この年は関根と阪田が戦って、「千日手」にまつわる因縁があったころなのだ。
明治39年4月22日。
大阪は阿弥陀池で行われた関根-阪田戦(関根が香落ち上手)で、終盤に事件が起こった。
阪田の攻めを関根が受けているときに、手順がループする「千日手」状態に突入。
関根の△73金に、阪田は▲72金と取って、△同金、▲61銀、△71銀、▲72銀成、△同銀、▲62金、△73金で無限ループ。
関根の指摘で、阪田は▲72銀成、△同銀の局面で▲58金右とするが、△49飛成、▲62成銀、△33角、以下関根の勝ち。
今なら、ドローで先後入れ替えて(香落ちだとどうなるのかな)指し直しだが、当時は仕掛けた側が手を変えないと負けというルールだった。
そのことを指摘された阪田は動揺し、指し手が乱れて敗れた。
我流で強くなった阪田は、そのあたりのことに無頓着で、
「格上の関根が手を変えるべき」
と思いこんでいたそうなのだ。
一方、関根の方は、阪田の思い違いをついての心理戦で優位に立つなど、勝負師の一面も見せた形。
「そんなんで勝って、なんの価値があるんや!」
阪田は憤慨したが、このあたりは関根が一枚上だったともいえる。
この将棋自体、千日手にまつわる、こぼれ話としてなんとなく知っており、また鈴木宏彦さんの「イメージと読みの将棋観」でも紹介されてい。
それを見て、「あーこれかー」と勉強になったわけだが、ここで「ん?」となるわけだ。
この「千日手」をめぐる一局はわかったし、阪田をあつかう本や、雑誌記事などでも取り上げられている(ただし、これもまた棋譜データベースにはない。香落ち戦だから?)。
だが、棋譜データベースに載っている、その10日前、さらには1か月ほど前の将棋については、よくわからないのだ。
まず、明治39年の3月18日に行われたとされる、関根-阪田戦。
場所は大阪の「藤の茶屋」というところだそうだが、これがなんと「角落ち」の対戦。
しかも、並べてみておどろいたのが、途中、明らかに下手の阪田がやりそこなっているところ。
銀を▲89にへこまされ、飛車を僻地に追いやられただけでなく、桂損も確定。
なんかこれ、上手が指せるんでねーの?
並べていて、すごい違和感があった。だって、角落ちッスよ、角落ち。
なんで、阪田三吉ともあろうお人が、こんな苦戦してるの?
将棋の方はここから、△77歩成と取って、▲同金に、△22金と端を守る。
阪田は▲13歩と、それでも端に手をつけ、△同香に▲36飛と必死の手作りだが、△24歩、▲34飛、△23金と軽く受け止められ、突破口が開けない。
このあたり、いかにも上手に「いなされている」という感じで、「下手」経験者にはリアルに感じられる手順だ。
こうやって、パンチが空を切らされて、負かされちゃうんだよなあ。
やむを得ず、▲24飛、△同金、▲同角と、飛車を捨てて強引に飛びかかるが、△21桂と受けられて、やはり足は止まっている。
以下、阪田も必死に喰いつくが、関根はしばらく面倒を見てから、端からラッシュをかけ押し切った。
投了図は△55金まで。
下手側から「投了」の文字を見て、これにはビックリしたものだ。
「え? 阪田はん、角落とされて、負けてるの?」
こないだの「銀が泣いている」のところで、なんで平手じゃなく「香落ち」なんだろと書いたけど、なるほど、そういうことか。
そら、関根からしたら、
「角落ちで勝った相手に、なんで平手でやらなあかんのよ」
物言いがついても、それは決して、ただのヤカラでもなかったわけだ。
ちなみに、阪田は明治41年(1908年)とされる「銀が泣いている」の5年前の対戦でも、関根に角落ちで敗れている。
明治41年、「角落ち」戦の投了図。
言うまでもないことだが、阪田が弱かったわけではない。
いやむしろ、まだ30代で、指し盛りともいえるころだったはず。
それでも角落ちで、このありさま。
今で言えば、藤井聡太五冠がデビューからしばらく、豊島将之九段になかなか勝てなかったけど、それでも、さすがにそのころでも「角落ち」で入らないとは考えにくい。
現代なら、間違いなくAクラスにいるであろう阪田三吉を、片手剣で倒してしまうのだから、いかに関根が強かったか、ということだろうか。
「十三世名人」。納得ですわ。
(関根十三世名人の「舐めプ」編に続く→こちら)