ジュリエット・マカー『偽りのサイクル 堕ちた英雄ランス・アームストロング』を読む。
タイトルの通り、自転車競技界のみならず、全スポーツ界を震撼させたランス・アームストロングのドーピング事件をあつかった本だ。
ツール・ド・フランス7連覇の大記録を持つアームストロングには、常にドーピングの疑惑がつきまとっていた。
だが、そのことが噂の域を出ることはなかなかなかった。
ビッグマネーの力、「ガンを克服した不屈の男」の絶対的イメージ戦略力、そしてなにより
「そもそもランスにかぎらず、ドーピングをすることが大前提」
であった自転車競技そのもののゆがみが、事件から真実を覆い隠してしまっていたからだ。
この本はすぐれたノンフィクションであるとともに、一級の倒叙ミステリでもある。
ふつうの推理小説では、まず事件があって、犯人が最後に明かされるのが基本となっているのに対し、倒叙ものでは最初から犯人がわかっているのが特徴。
代表的なのはドストエフスキーの『罪と罰』。
なんて気取ったこと言わなくても、『刑事コロンボ』か『古畑任三郎』といえばいいというか、そもそも『古畑』の元ネタが『コロンボ』。
で、そのさらに元ネタが『罪と罰』の予審判事ポルフィーリーということなんだけど、ともかくも誰がやったかわかっている分、
「犯人側の視点から、探偵に追いつめられるドキドキ感」
が味わえるという、なかなかツイストの効いた構成が売りだ。
『偽りのサイクル』はまさにそれで、われわれはすでに結末を知っているところから、物語がはじまる。
「犯人」であるアームストロングと、それを追いつめようとする「探偵」側の息詰まる駆け引きが本書の読みどころだ。
追う側のあの手この手の戦略もトリッキーだが、なによりもランス・アームストロングという男がこの倒叙物の
「理想的な犯人像」
であることが、事件のもっとも大きなポイントであろう。
複雑な家庭環境から、おのれの才能と努力ではい上がったアメリカン・ドリームの体現者。
一度はガンに体をむしばまれるが、そこから不屈の精神と肉体でもって不死鳥のような(というありきたりな表現がピッタリな)復活をとげる。
だがその人間性は決して、彼の残した業績にふさわしいとはいえない。
エゴイスティックでアクが強く、金や名誉に人一倍こだわり、勝負に勝つためならどんな手でも使う勝利至上主義者。
彼は間違いなく英雄だが、その分敵も多かった。
エリートでありながら雑草であり、勝利者であるが、そのエキセントリックなキャラクターゆえに孤独にも見えた。
そう、彼は文字通りの意味で「セレブ」だった。
まさに『コロンボ』に出てきてもおかしくない見事なキャスティング。
こういう言い方は適当ではないかもしれないが、この事件はランスという「理想の犯人」を得たことによって完璧たり得たのだ。
そういった「物語」としてのおもしろさとともに、本書の本当のテーマであるドーピングについては、やはり考えさせられるところはある。
大前提として、ドーピングは良くないことは子供にでも理解できるが、勝負の世界では、ましてや
「自分以外のだれもがやっている」
そんな世界で「良くないことを良くない」という当たり前の行為は、そのまま負け犬への道一直線。
実際、どうしてもドーピングを受け入れられなかったり、
「偽善者」
「クリーンゆえに、いつ裏切るかわからない」
という視線に耐えられず、この世界から去ることを余儀なくされた選手たちも本書では登場する。
ランスのように悪びれもしない(ある意味)「強者」は別としても、去っていった者たちの惨めな姿を見ていると、やはり「良くない」という当たり前のことを言い切れるだけの勇気を持つのはむずかしい。
ランス・アームストロングのせいで万年2位だった選手の言葉がある。
「たしかにランスは間違いを犯した。でも、ツール7連覇を剥奪するのは違うと思う」
「だって、もともと自転車ロードレースの世界はドーピングが当たり前だった。皆同じ条件で1位だったんだ。だから、彼の7連覇は《実力》だよ」
倫理的にはおかしいが、アスリートの言い分としては筋が通っているというか、論理的には「正しい」ようにも思えてしまう。
「正論」「倫理感」「良心」にゆだねるには、あまりにも根が深すぎる、この問題。
正義を語るのは簡単だが、魂を売って得られるものは大きく、人の心は弱い。
同じテーマをあつかった、タイラー・ハミルトン『シークレット・レース』と合わせて読んでみても、いまだ「自分なりの正解」すらも見えてこないのが現状だ。