前回の続き。
歯医者で名前を呼ばれ、いよいよ絶体絶命となった歯が痛い私。
もうここまでくれば腹をくくるしかないが、まずは歯科衛生士さんと軽く質疑応答。
次に放射能を浴びながらレントゲン写真をパシャリと撮って、次は口を大きく開けて、カメラで直接カシャリ。
一通り終わったところで、先生がやってくる。
年のころなら30代後半のまだ若い先生。これまたマイルドな雰囲気で、圧のようなものがまったくない。
昔は歯医者にかぎらず、いろんな施設の人が横柄だったりして不愉快だったが、時代が変わってありがたいことだなーとか思いながら診てもらうと、やはり歯茎が炎症を起こしているようだ。
虫歯がなかったのは幸いで、とりあえずブラッシングの指導を受け、歯茎にいい歯磨き粉の話など聞いた後は歯石取りをやってもらう。
作業は丁寧で痛みもなく、リラックスしてクリーニングしてもらう。なんて楽ちんなんだ。
ここまでやって、他の個所については少し様子を見ようということになったが、先生が言うに、ひとつ気になったのが左上中央部の歯。
以前、虫歯の治療をしたところだが、かぶせ物の調子が悪いらしく、メンテナンスをした方がいいと。
その際、少し削ることになるが大丈夫かという。
削るが大丈夫かと訊かれれば、そんなものは全力で大丈夫ではないに決まっているが、なにかこう、そこには全体的に先生の
「治療しますよね?」
という圧が感じられて遺憾である。
好感度大な先生にそう言われては、うんと言わざるを得ない。
嗚呼、げに悲しきはNOと言えない日本人である。
もちろん、詰め物が弱っているなら、そこを治してもらうのは正義である。
しかしなあ、それでもなあ……。
とか逡巡しているうちに問答無用で治療椅子が、オーストリアの首都のような音を立てて下がっていく。
手際よく治療用の道具が並べられる。なにがどうということはないが、ふとコーネル・ウールリッチのサスペンス短編『死の治療椅子』が思い浮かぶ。
先生はさわやかな笑顔で「はい、口を開けてくださーい」と伝えてくるところでは、
『マラソンマン』
『キラー・デンティスト』
『リトルショップ・オブ・ホラーズ』
といったマッド歯医者の大活躍する映画の映像が、脳内を断片的にグルグルと回り始める。
『ウルトラマンA』に出てきた、世界一行きたくない歯医者であるQ歯科のお姉さんとか。
なにやら自分が、とんでもない罠に陥っているような気持ちになってきた。
一体、なぜこんなことになってしまったのか。刑事さん、そんなつもりはなかったんです。真珠湾なんか奇襲するつもりはなかった。
そんな思いもかまわず先生は「ヤツ」のスイッチをオンにした。
耳をつんざくような回転音。
ちなみに、こういうとき島田紳助兄さんは
「病院で胃カメラとか、しんどそうな治療をするときには、《そういうプレイ》やと思って受けるのがええんや」
その必勝法を語っておられて、はじめて聞いたときは、
「天才あらわる!」
感動に身を震わせたものだが、残念なことに私はMっ気がまったくない人間なので、この手管は使えないのだった。
嗚呼、神さま。もし運よく次も人間に生まれ変われることがあったら、ぜひとも生粋のドMに仕上げてください。
もちろん、この一連の態度はビビっているわけではない。
私の強靭な精神力をもってすれば、歯の治療などいかほどのものでもないのだ。
だが、そこは『るろうに剣心』世代の人間として、刃を人に向けるなどもってのほかという《不殺》の信念へのリスペクトであって、あのやっぱり今日は……。
NONONONONONONO!
……ふう、たいしたことはなかった。
私のような幾度も修羅場をくぐってきた猛者にかかれば、この程度の責め苦など、たいしたものではな……。
POPOPOPOPOPOPO!
これにて治療は終了。
やはり、たいしたことではなかった。これをお読みの読者諸兄の中には、
「いや、メッチャ声出てましたやん」
などとツッコミを入れてくる人もいるかもしれないが、
「痛かったら手をあげてくださいね」
との指示に固ま……クールで微動だにしなかった男に嫉妬する、みじめな人生の敗北者なのであろう。
これで、とりあえずやっておくべきことは、やってもらった。
ひとまずは安心で、危機にも雄々しく臨む私の態度に、きっと女性ファンも感動しているに違いない。
これにてミッション終了であり、私は帰りに渡された「お客様アンケート」の用紙に、
「今日はこれくらいにしといたるわ」
そう書き残すと、そのまま風のように消えたのであった。