サマセット・モーム『月と六ペンス』 「天才」ストリックランドと「凡才」ストルーヴェ

2020年09月15日 | 
 前回(→こちら)に続いて、サマセット・モーム『月と六ペンス』について。
 
 この小説における「」とストリックランドの関係は、同じようなストリックランド的友人の多い自分には、わりとすんなり理解できるのだが、取りようによってはものすごくドライで、人によっては不快と感じるかもしれない。
 
 そのことが、さらに端的に表れているのが、ストリックランドに次ぐ、この物語の名キャラクターといえるストルーヴェだ。
 
 ストルーヴェはストリックランドと同じ画家を生業とし、「マネタイズ」という点ではむしろ食えている分、彼を成果で上回っているとも言える。
 
 にもかかわらず、彼自身は(かなしいことに)自分が、ストリックランドの足元にもおよばない絵しか描けないことを知っている。
 
 まさにモーツァルトサリエリの悲劇。
 
 天はストルーヴェに「通俗的売れる絵の才能」と同時に、「天才理解する才能」を残酷にもつけ加えた。
 
 これにより、「勘違いできる幸せ」を奪われた彼は、やはりモームによる「英国流アイロニー」で徹底的に道化として描かれるが、ここでのポイントはその描かれ方の距離感とでもいうのか。
 
 一言で言えば、ストルーヴェは「愛されキャラ」である。
 
 才能は並だが絵を愛し、冴えない男だがを愚直に愛し、食うに困っているストリックランドに家を提供するほど友情にも厚い。
 
 そんな、男としてはやや頼りないが、としては愛さずにはいられないストルーヴェだが、モームの彼の対する視点は、いっそすがすがしいほどに冷淡である。
 
 普通、こういう「顔で笑って心で泣いて」なキャラクターは、その哀れな分、とことんまで作者にも読者にも愛されなければならない。
 
 ストルーヴェは自らの平凡な才能に劣等感を抱き、最愛の妻にも裏切られる。すべてを失い、尾羽うち枯らして、失意のまま故郷へと帰っていく。
 
 それゆえに、作者と読者は彼に感情移入するものだ。
 
 本来ならば拾われるはずもなかったものの人生をすくい上げ、それを救済する。
 
 弱者敗者の、や、やさしさを取り上げ、「物語」の力でへの意志や魂へと昇華する。
 
 そのことこそが、「創作」「芸術」というものの、偉大なる存在理由のひとつであるからだ。
 
 若きウェルテルも、ジャンヴァルジャンも、ネロパトラッシュも、皆そうだったはず。
 
 それこそ山田洋二監督とかなら、それはそれはうまく「泣かせ」にもっていくのではあるまいか。
 
 どっこい、このストルーヴェの場合は、どうもそうではないらしい。
 
 モームの中にそういった「愛」「救い」があったかは大いに疑問だ。
 
 ここでいう「救い」はもちろん単なるハッピーエンドではなく、仮にどんな人生でも「拾い上げた」ことによって生まれる救済(ネロとパトラッシュのような)もふくむわけだが、どうもそれすらなさそう。
 
 モームは彼のことを、シェイクスピアにおけるフォルスタッフや、ドストエフスキーにおける酔っぱらいのマルメラードフのような
 
 
 「愛すべき道化」
 
 
 として育てる気は、毛頭ない
 
 ストルーヴェは、あれだけの「愛されキャラ」の属性設定セリフ回しを与えられなながら、作者からとことんまで突き放されている。
 
 そう、ストルーヴェにとって哀れなのは、才能がないことでも、妻に裏切られたことでもない。
 
 産みの親であるサマセット・モームに、とことんまで物語の中で「技巧的に描かれる」ことなのだ。
 
 
 「きみだって、もうわかってるんだろう。僕には人間としてのプライドが欠けてるんだ」
 
 
 こんな忘れがたきセリフを残しているにもかかわらず、作者に思い入れも持たれず、さりとて憎まれこづき回されるわけでもなく、最後の最後まで
 
 「効果的な舞台装置のひとつ」
 
 くらいの距離感で語られる。
 
 一番すごいのが、ストリックランドのすごさや、本当に深遠な芸術を理解するのに必要な要素を得々と語ってから、「自分には才能がない」と自虐する彼に、妻が
 
 
 「そんなことない。じゃあ、あたしがあなたの絵を見てすばらしいと感じるのはどうして?」
 
 
 そう、たずねるシーン。
 
 ここのやりとりは、ぜひ本文を参照してほしいが、本当に意地が悪いというか、私がストルーヴェやったら耐えられません。
 
 自分のことを心底愛してくれている妻に、
 
 
 「ボクの絵に感動できるのは、キミが教養もモノを見る目もない、ただのバカだからだよ」
 
 
 なんて、何重にもの意味で言えるわけないやん! かオマエは!
 
 しかも、おそらく作者はそこに「憐み」も「軽蔑」「嘲笑」すらも乗っけてない。
 
 薄ら笑いすら浮かべず、お茶でも飲みながら淡々と、こんな挿話を入れてくる。
 
 そこが、えげつないではないか。高畑勲か。
 
 この小説では、ストリックランドの強烈なエゴが読者の心をざわつかせることがあるが、私にはそれよりもなによりも、
 
 
 「サマセット・モームのストルーヴェに対する立ち位置」
 
 
 のほうが、よほどエゴイスティックに見えるのだ。
 
 こんなん、よう読まんわ。ヒドイ人やで、サマセット・モームってオッサンは!
 
 
 

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