「七冠王フィーバー」があったころ 羽生善治vs谷川浩司 1990年 第8回全日本プロトーナメント決勝

2020年09月18日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 将棋で「フィーバー」と聞いて思い浮かべるのは、世代によってそれぞれだろう。

 昭和の将棋界を知る人は「21歳名人」の谷川浩司フィーバー(→こちら)。

 「A級から落ちたら引退」という危機を、何度も奇跡的にしのいで「将棋界の一番長い日」という文化を作った、大山康晴十五世名人の超人伝説(→こちら)。

 悲願の「50歳名人」で話題になった「米長邦雄名人」誕生。

 平成なら渡辺明羽生善治の永世竜王をかけた「100年に一度」の決戦に(その模様は→こちらから)、その完結編ともいえる「羽生永世七冠」獲得のシリーズ。

 今のファンなら、言うまでもなく「藤井聡太フィーバー」だろうが、自分の世代だとやはり

 羽生善治の「七冠フィーバー」。

 これで決まりということになろう。

 現在、活躍する棋士からも、

 

 「羽生七冠王にあこがれて将棋をはじめた」

 

 という声を聞くのはしょっちゅうで、これは羽生個人だけでなく、将棋界全体にも大きな影響をあたえた事件だった。

 現在、藤井聡太王位棋聖が羽生善治の後継者になるのは、ほぼ決定的とも言えるが、「羽生超え」なるかどうかはこれからの物語で、私としても興味津々。

 前回は久保利明九段の「さばき」を生んだ大野源一九段の振り飛車を紹介したが(→こちら)、今回は少しばかり「七冠王」のことを思い出してみたい。


 1995年の幕開け、将棋界はかつてない興奮と熱気に包まれていた。

 1月から開幕する、谷川浩司王将羽生善治六冠で争われる、第44期王将戦七番勝負。

 これを羽生が制すると、竜王名人棋聖王位王座棋王王将を同時に保持するという、前人未到の

 「七冠同時制覇」

 が実現することとなったからだ。

 まさに空前にして絶後であり、なぜこんな、信じられないことになってしまったのか。

 いい機会なので、元の元から話をしてみたいが(第44期王将戦七番勝負まで飛ばしたい方は→こちら)、まず羽生善治が四段プロデビューを果たしたのが、1985年のこと。

 当時のタイトルホルダーは、

 

 中原誠名人・王座

 米長邦雄十段

 桐山清澄棋聖

 高橋道雄王位

 谷川浩司棋王

 中村修王将

 

 大山康晴十五世名人はまだ現役。「ひふみん」こと加藤一二三九段も、A級でがんばっていたころだった。

 羽生はこのころかというか、奨励会時代からすでに「名人候補」の筆頭だった。

 デビュー初年度にいきなり勝率1位賞(同率1位に中田宏樹四段)を獲得し、その後も天王戦(2連覇)、新人王戦NHK杯で優勝。

 また「対局数 勝数 勝率 連勝」の記録4部門を独占で「最優秀棋士賞」受賞など、前評判にたがわぬ活躍を見せる。

 その実力はすでに、A級やタイトルホルダーに勝るともおとらず、タイトル戦こそなかなか結果が出なかったため、

 「もしかしたら、勝負弱いのではないか」

 という、今となっては笑い話のような推論を呼んだりしたが、1989年の第2期竜王戦で、ついに挑戦者に。

 持将棋をはさんだ8局におよぶ激戦の末、フルセットで島朗竜王から奪取して、19歳2か月で初タイトル獲得(当時の最年少記録)。

 当時話題になったのは、谷川浩司名人との「竜名決戦」となった、1990年、第8期全日本プロトーナメント(今の朝日杯)決勝3番勝負。

 谷川の先勝を受けての第2局

 羽生は相掛かりから、横歩を取る積極策を見せる。

 むかえたこの局面。

 

 

 

 先手の羽生が、▲77桂と跳んだところ。

 飛車交換になりそうなところだが、ここで谷川にカッコイイ手が飛び出す。

 

 

 

 

 △25飛とタダのところに回るのが、空中戦らしい軽やかな一着。

 ▲同桂なら、そこで△64歩と取って、▲25桂馬が、うわずっているから後手が指せると。

 ならばと羽生は、取れる飛車を無視して▲84飛と回る。

 △28飛成にいったん▲29歩と受け、△19竜に自分も▲82飛成と成りこんだ。

 華々しいやり取りがあって、この図。

 

 

 

 

 後手が△27歩成と、せまったところ。

 先手はを作っているが、まだこれという攻め手はなく、と金で守備駒をけずられる形で、あせらされている。

 左辺の金銀も浮き駒な上に、にもなっていてピンチのようだが、ここからの羽生の指し手が見事だった。

 

 

 

 

 

 ▲29香、△17竜、▲27香、△26歩、▲同香、△同竜、▲82竜(!)。

 まず、打ちから、と金を除去してしまうのが好判断。

 駒損だが、を追い飛ばして、これですぐに負けることはない。

 そこで、じっと▲82竜が当時絶賛された、すばらしい一着だった。

 △26同竜の局面は、必死の防戦でようやく手番が回ってきたとあっては、ふつうなら一気に反撃と行きたいところ。

 そこを黙って、▲91で蟄居しているを活用。

 森内俊之との新人王戦で見せた「伝説の▲96歩」もそうだが(その将棋は→こちら)、こういう急ぎたい場面でじっと手を渡せるのが、羽生善治という男のおそろしいところで、

 

 「この落ち着きが19歳とは信じられない!」

 

 各所で絶賛されたものだった。

 ここから2連勝で逆転し、全日プロ初制覇。

 どうであろう、この羽生の進撃ぶり。

 記録部門総ナメ、勝率8割で各種棋戦で優勝しまくり、タイトルも獲得。

 とどめに、名人として頂点に君臨する谷川浩司まで、大舞台で破ってしまう。

 とここまで聞けば、その強さは圧倒的で「七冠王」もありえるんでね?

 くらいに感じるかもしれないが、この時代のおそろしいところは、これが決して「ひとり勝ち」というわけではなかったこと。

 まず羽生のデビューから、少し遅れて四段になった17歳佐藤康光が、勝率8割ペースという、ライバルに負けない勢いで勝ちまくる。

 1990年には王位戦挑戦者になり、谷川王位相手にフルセットの健闘を見せたが、内容的にはここで奪取しても、おかしくないほどだった。

 続けて16歳森内俊之が、佐藤の四段昇段の2ヶ月後、追いかけるように参戦。

 やはり、新人離れした勝ちっぷりを見せ、新人王戦早指し新鋭戦優勝

 2年目には全日本プロトーナメントで、谷川浩司名人を破って、羽生より先に全棋士参加棋戦優勝と、ドデカイ花火を打ち上げる。

 さらには屋敷伸之が、大豪中原誠から棋聖を獲得

 18歳6か月で、史上最年少タイトルの記録をあっさり更新。

 郷田真隆も四段のころから棋聖戦に2度、王位戦でも挑戦者になるどころか、谷川王位からタイトルを奪取する(しかし、このころの谷川さんは苦労してるな……)。

 他にも17歳村山聖はデビューから12勝1敗で走り、C級2組を1期抜けするわ、先崎学20歳NHK杯を獲得するわ。

 少し上の森下卓も、優勝こそ恵まれないものの各棋戦でファイナリスト常連になるなど、もう若手棋士(それも10代から20代前半)大暴れの時代。

 いわば、毎年のように藤井聡太クラスのスタートダッシュを披露する若手が、それも下手すると複数人飛び出してくるイメージだ。

 今と昔では棋士のの厚さが違うから、単純には比べられないが、ともかくも

 「少年棋士たち(だったんだよなあ……)が強すぎで、旧世代の棋士や評論家が大困惑におちいる」

 そういう祭のような季節だったのである。

 しかも、ここからまだ

 

 丸山忠久

 藤井猛

 深浦康市

 三浦弘行

 久保利明

 

 とかが出てくるんだから、こわれた蛇口状態で、まだ終わらんのかい、と。

 そんな才能の奔流から、ひとり飛び出したのが羽生善治だったのだ。

 

 (続く→こちら

 

 


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