前回(→こちら)の続き。
「マイナー選手萌え」である私が、テニスにおけるやや渋めの選手について紹介していこうというこの企画。
前回は「1996年ウィンブルドンはジェイソン・ストルテンバーグが勝つべき大会だった」。
という、我ながら意味不明の提言をしたものだが、地味な選手シリーズの最後はUSオープン編。
スポーツの世界には、家族も同じ競技のプレーヤーというケースがたまに見られる。
長嶋茂雄と長嶋一茂とか、マラソンの宗兄弟とか、レスリングの伊調姉妹。
テニス界でもマレーバ三姉妹とか「ジェンセンズ」ことジェンセン兄弟。
今だとボブとマイクのブライアン兄弟や、ミーシャとサーシャのズベレフ兄弟、アンディーとジェイミーのマレー兄弟なんてのもいて、それぞれに活躍していたりする。
彼ら彼女らは、ときに刺激を受けて活躍しあったり、ダブルスを組んだり、中には少々格差が生まれたりもすることもあるが、テニス界でもっとも「キャラ的に格差」があるのがこの兄弟ではなかろうか。
そう、ジョンとパトリックのマッケンロー兄弟。
ジョンのほうはいうまでもあるまい、元世界ナンバーワン。
グランドスラム大会7勝(ウィンブルドン3、USオープン4)、ツアー通算単複合わせて148勝。
実績だけでなく人気の面でも他の追随をゆるさない、世界に誇るテニス界のスーパースターである。
一方、弟のパトリックのほうはどうであろうか。
世界ランキングはシングルス28位。キャリア通算優勝回数も、シングルスでは1回のみ。
それでもテニス選手としては、トップ100に入ってタイトルもとっているのだから十分すぎるほどの成功者なのだが、これが
「ジョン・マッケンローの弟」
として見ると、どうにも見劣りすると言わざるを得ない。
実際、「悪童マック」とおそれられた兄とちがって、パトリックのほうは温厚な人格者として知られ、プレーヤーとしてよりもデビスカップの監督として有名と見る人もいよう。
もしかしたら、そのあたりの人の好さが、才能以前に彼がジョンほどの実績を築けなかった原因かもしれない。
そんなナイスガイのパトリックが輝いた大会がふたつあって、ひとつが1991年のオーストラリアン・オープンでのベスト4。
もうひとつが、1995年のUSオープンでのベスト8だ。
ゴーラン・イバニセビッチが1コケしたドローから、ブレッド・スティーブン、アレクサンドル・ボルコフ、ダニエル・バチェクと、これまたいい感じにマニアックな中堅どころを倒しての準々決勝に進出。
ここで当たったのが、兄に勝るとも劣らないスーパースターのボリス・ベッカーだった。91年全豪の準決勝でも戦った、因縁の相手だ。
この試合、私もテレビで観戦していたが、とにかくニューヨークのファンからパトリックへの声援がすごかった。
元からしてUSオープンの客はアメリカンでノリがいいが、このときはパワーがさらにちがう感じであった。
パトリックがニューヨーカーであり、本当に地元中の地元選手であることにくわえて、各上のベッカー相手に3度もタイブレークに持ちこむ頑張りを見せたこともあって、会場は爆発的な大盛り上がりを見せていたのだ。
結果は4セットでベッカーが辛勝するんだけど、随所に「あわや」な場面を作りだし、それよりもなによりも、いかにも人格者である彼らしい、あきらめない、ひたむきなプレーが感動的であった。
私だけでなく、あの試合を観戦したすべての人が、パトリック・マッケンローのファンになったのではなかろうか。そう確信できるほどの好ゲームであったのだ。
私は世代的にピート・サンプラスやアンドレ・アガシ、ジム・クーリエにマイケル・チャンといった選手の洗礼を受けている。
それ以前のレンドルやベッカー、エドバーグに関しては知ってはいるものの「同時代感」はなく、それより前のジョンやボルグ、コナーズといった面々はすでにして「伝説」であった。
その意味では、1995年からテニスを見始めた私にとって、むしろリアルな「マッケンロー」といえばパトリックということになる。
テニスを知らない人には
「マッケンローのジョンじゃないほう」
そう語られがちだが、私にとっての「じゃないほう」はむしろジョンの方なのである。
★おまけ 好漢パトリックの活躍は→こちら