「うつ病」への偏見をなくすには、先崎学九段の『うつ病九段』が良い入口に 

2020年12月22日 | 将棋・雑談

 先崎学『うつ病九段』が、ドラマ化されて話題を呼んでいる。

 将棋のプロ棋士である先崎学九段が、2017年に突然の休場宣言をしたのには、おどろかされた。

 

 「一身上の都合により」

 

 というあいまいな理由が、心配と共にさまざまな憶測を呼んだが、フタを開けてみると「うつ病」という意外なもので、そのときの顛末と七転八倒の(という表現がピッタリな)闘病記が記されている。

 


 妻にはなすと、少しやり取りがあった後、突然泣き崩れられた。私はそんな妻の姿を見たことがなかった。

「先崎学が将棋を指せないなんて……」といって、しばらく涙が止まらず、私はかけることばもなかった。



 
 作中にあるこの一文が、内容をすべて表しているといってもいい。

 私も発売されてすぐ読んだが、この本は「うつ病」のだけでなく、その人がもっとも魂をささげ、人生をかけて積み上げたなにかが、一瞬でに帰す恐怖絶望、そして回復への希望の記録でもある。

 というと「なんか暗いのはヤダなあ」と思われる方も、おられるかもしれないが、そこは将棋だけでも文筆才能でも鳴らす先チャンのこと。

 本来なら陰惨になりそうな話なのに、あまりそれを感じさせることもなく読み進められ、「自分も持っていかれる」という心配はまったくない。

 この本はとにかく、「うつ病」というものが、先崎九段の体験と、またお兄さんが優秀な専門医だったこともベースに、かなりくわしく描かれているのが目を引く。

 

 「寝転んだ状態から、ただ起き上がる」

 

 という行為に、こんな苦痛労力がともなうなど、経験者にしかわからないだろうし、またそれを他者に伝えるのも至難。

 先チャンも書いているが、「うつ病」の苦しさはそれ自体にくわえて、

 

 「伝わらないこと」

 「誤解」

 「偏見」

 

 というものが厳然と存在し、その「よけいな苦しみ」を周囲があたえてしまわないためにも、こういう本はもっと読まれるべきだろう。

 このあたり、私も「うつ病」ではないし、ここまで重症でもなかったけど、心身のバランスをくずしてしまった一時期、その「伝わらなさ」に大苦戦したことがあるので、多少ながら共感はできるところはある。

 かなり幸運にも、周囲に「理解しようとしてくれた」人が多かったにもかかわらず、

 

 「どうすれば正確な状況が伝えられるのか」

 

 ということに煩悶したものだから、

 

 「甘え」

 「仮病」

 「かまってほしいだけ」

 

 みたいな、弱者に妙なきびしさを見せる日本社会では、それが治療の足かせになるのは容易に想像できる。

 ただこれは、自分が反対の立場になったとき、悩んでいる友人を見て

 

 「それホントにィ?」

 「大げさに言ってない?」

 「もう、何回も聞いたって、その話!」

 

 など、似たようなことを感じてしまうケースもあったから、そのあたり一概に

 

 「理解しようとしない方が悪い」

 

 とも言い切れないところもある。

 うつ病に限らずだが、こういうのは自分も体験してみないと、なかなか実感はできないものなのだ。

 仮に「理解しよう」としたところで、

 

 「苦しんでいることはわかっても、それに対して自分がどう対処すればいいのかわからない」

 

 立ち尽くすしかないストレスも相当で、このあたり私は、どちらの立場も経験したことがあるので悩ましいところだ。

 そういった場面におちいったとき、やはり最後に頼れるのは「正しい知識」と「ケーススタディ」であり、先崎九段のこの本には、かなりそれがそろっている。

 たとえば

 

 「うつは心でなくの病気」

 

 というのは、今では知られているとはいえ、案外と世間には浸透していないのではないか。

 少なくとも、「甘えてるだけ」という偏見を凌駕するほどには。

 「うつ病」というのは、決して他人事ではない病気である。

 だから、自分がかかったとき、大切な人がそれで苦しんでいるとき、この両方にそなえて、ある程度のことは知っておきたいわけで、その入門書として本書はとても役に立つ一冊ではないだろうか。

 あと、ひとつ「そっかー」と感じたのが、この言葉。
 
 
 「こういうときのために、人権という言葉があるんだな」

 

 昨今の日本では、やたらと「自己責任」という言葉が、幅を利かす場面がある。
 
 でもこの先崎九段のケースみたいに、人は「責任」のあるなしにかかわらず、足をにとられたりすることもある。
 
 それは我々だって同じなんだから、そんな簡単な言葉で決めつけてしまっていいのかと、考えるところはある。
 
 金や権力など、を持った人からすれば、それを持たない人間の権利は、なるたけ少なめにした方が色々と便利であろう。
 
 なら「される側」にある我々が、口車にのせられたり、
 
 
 「ガツンと言ってやったぞ!」
 
 
 という一瞬快感のためとか、
 
 
 「自分は他者など頼らない強い存在である」
 
 
 なんてアピールで、それに加担するのを見るのは、なんだか変な気がするわけだ。
 
 もちろん、先崎九段のようになってしまった人に同情したり、共感したり、救いの手を差し伸べたりするかどうかは、それぞれの判断。
 
 私だって聖人ではないから、たいしたこともできないし、先も言ったとおり、めんどくさいときには友人相手でも「ホンマかいな」くらいの対応になってしまうときもあろう。
 
 言いにくいことだけど、実際に「ただ甘えているだけ」の人だって、いるのかもしれない。 
 
 でも、そういうときでも、仮になにもアクションを起こさないにしても、足を取られた人の状態を、限られた自分の知識や経験だけで決めつけず、
 
 
 「話を一回、聞いてみる」
 
 
 くらいのことは、してもいいのではと自省をこめて思うのだ。
 
 どう考えるかは、それからでも遅くはない。
 
 そしてそれは長い目で見れば、きっと「自分のため」でもあるのだから。
 
  

 

 


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