「絶対詰まない形っていうのを、プロは嫌うんですよね」
というのは、将棋の解説を聞いていて、よく聞くセリフである。
絶対詰まない形とは、穴熊の王手すらかからない王様のような、昔なら「ゼ」(「羽生世代」の棋士は今でもこっちを使いますね)今なら「ゼット」と呼ばれる局面のこと。
こうなると相手は1手の余裕があるうえに、駒を何枚渡してもいいという、攻撃的にフリーハンドな状態になってしまう。
そこで自玉に必至をかけられたりすると、負けが確定してしまうからなのだ。
「振り穴王子」時代の広瀬章人八段の寄せ。
先手玉は「絶対詰まない」から、角を捨てても攻めが切れなければ大丈夫。これが「ゼット」の強み。
△同桂、▲32歩、△同銀に▲42金と貼りついて先手勝ち。
ただ逆にいえば、
「自玉はその間に寄らない」
ということを読み切ってさえいれば、一瞬相手が詰まない形でも、なにも怖くはないわけで、むしろ難解な局面で自らそこに飛びこむ手を選ぶ人は
「しっかり読んでいて強い」
「恐れない精神力がすごい」
評価が上がるくらいのもので、前回は谷川浩司九段の「光速の寄せ」を紹介したが(→こちら)、今回は逆に落ち着き払って指した寄せの妙手を。
1983年の、第43期棋聖戦五番勝負。
森安秀光棋聖と米長邦雄王将・棋王との一戦。
米長と森安の将棋というのは、プライベートでもウマが合い、またそれぞれ
「泥沼流」
「だるま流」
という、ねばり強さを持ち味とする棋風が共通していたせいか、熱戦や珍局が多い。
この第1局も、森安の四間飛車に米長が「鷺宮定跡」で対抗。
青野照市九段が考案した「鷺宮定跡」。
考えたのは青野だが、結果を出しタイトルを取ったのが米長ということで、当時ふたりが住んでいた地名から取っての鷺宮。
中央と端で、ねじり合いが展開され、両者らしい力のこもった将棋。
むかえたこの局面。
敵陣に並んだ3枚の歩が、いかにも米長と森安の対戦らしい。
形勢は難解だが、ここで米長が披露したのが、おどろきの手だった。
▲92歩と打ったのが、米長本人も、
「我が将棋人生でもめったに指せない手」
そう自賛する一手。
米長流のサービス精神あふれる、やや大げさな言い回しのようだが、なかなかどうして、これは簡単に指せる手ではない。
この手のなにがすごいといって、この終盤の競り合いに、あまりに悠長に見えるから。
具体的には、次に▲91歩成と成った手がなんでもなく、その次に▲81と、まで指して、やっと詰めろなのだ。
いわゆる「三手スキ」という形だが、後手からすると、この形がほとんど「ゼット」なうえに、もう一回▲91歩成とされても、まだやはり「ゼット」が続く。
その2手の間、好きなように先手玉にせまれる。
そして先手は、そのスピードを変えることができない。
2手の間、完全に相手の言いなりにならなくてはならないのだ。
しかも、相手は自玉を見なくていい。
ノープレッシャーで攻めに専念できる。これは受ける側にはメチャクチャに怖いのだ。
いや、怖いどころか、これでもしそのまま無抵抗で寄せられでもしたら、まったくバカバカしいではないか。
それくらいリスクのある手なのだが、先ほども言ったが、それはあくまで「自玉の安全を読み切れていない」場合。
ここで米長が、堂々と歩を打ったということは、当然のこと成算があったから。
この危ない形を、難解な終盤をすべて切り抜けられると踏んだから、「ゼット」でも恐れることはない。
だからこそ「めったに指せない手」と胸を張ったのだ。
「好きに攻めてこい」と門を開けられた森安は、△55桂と寄せに行くが、先手は悠々と▲91歩成。
△67桂成と取って、▲同金に△55桂とおかわりするが、これが詰めろになっておらず、やはり堂々▲81と、と取って先手勝ちが決まった。
すごい見切りだが、ではこれにて米長の快勝かといえば、それがそうでもないのが将棋のむずかしいところ。
後手は△55桂と打つところで、△73桂と受けに回るのが正解。
これで、森安が優勢の終盤戦だった。
ただ、これもなかなか指せない手だ。
なんといっても敵が、
「2手の間、好きなようにしてください」
といっているのなら、そのスキに敵玉を攻略してやれと、腕まくりするのは自然なところ。
そこをあえて△73桂。
「2手の間、受けのことを考えなくていい」
という局面の最善手が、受ける手とは……。
もちろん米長は、
「そんな手なんか、指せるわけないやん」
と見切ったうえでの▲92歩なのだろう。
読みだけでなく、その気持ちの面での強さもたいしたもので、このあと米長は棋聖を奪取し、一気に四冠王への階段を駆けあがるのだ。
(真部一男の幻の妙手編に続く→こちら)
米長邦雄永世棋聖の将棋は本当に魅力的で、その勢いと粘り強さは、あこがれの対象です。
子供のころは『米長の将棋』がバイブルで、何度も並べ直したものでした。
米長対大山、米長対中原もすばらしいですが、本文にも書いたように、私は米長対森安戦が好みで、そのわけのわからないねじり合いにワクワクします。
なにせ「だるま流」と「泥沼流」ですものね。泥仕合萌えにはたまりません。