前回の続き。
18歳の屋敷伸之棋聖に24歳の森下卓六段が挑戦する、1990年後期、第57期棋聖戦5番勝負。
1勝1敗のタイでむかえた第3局は、これまた両者の持ち味が存分に発揮された激戦となる。
屋敷が谷川浩司九段のような「光速の寄せ」で攻めつぶしたように見えたが、森下も徳俵でのねばりを見せ、なんとか踏みとどまる。
こうなると、もうどっちが勝ちかわからない大熱戦だが、クライマックスはおどろきの展開を見せたのだ。
次の手が森下の意表を突き、結果的に勝着となった。
△76金が、屋敷の見せたアヤシイ手。
一見、角を守りながら先手玉に圧をかけた手で、きびしそうに見えるが、これが危険な手に見えるのだ。
この手は▲同歩なら、△66角と王手する。
▲77銀の合駒に△89角成と切って、▲同玉に△77桂成で必至というねらい。
だが、そうなると先手には角と金が持駒になることに。
そこで後手玉は、▲32飛成、△同玉、▲43金、△同玉、▲21角、△32合、▲53金までの詰みになるのだ。
だとすれば、この手は先手に詰ますための駒をあたえる「ココセ」(相手に「ここに指せ」と指令されたような悪手のこと)ではないか。
森下は「勝った」とばかりに、勇躍▲76同歩。
当然に見えたが、なんとオソロシイことに、この手が敗着になってしまった。
それは、本譜の手順を見ればわかる。
森下は読み筋通り、△66角に▲77銀、△89角成。
さっきと同じ、まったく工夫のない同じ手順であるが、後手はこれから変化のしようがない。
だが、この局面が先手負けなのだから、森下も茫然としたことだろう。
読み筋では、ここで▲同玉と取り△77桂成に▲32飛成とすれば、先手が勝つはずである。
ところが、上記の手順通りに進めてみてほしい。
なんと、最後の▲53金のところで、実は詰んでいない。
そう、△89角成としたところで、△59の竜が遠く▲53の地点を守っているではないか!
△56の角がいなくなったおかげで、▲53金に△同竜で詰まない。
なんと森下は、この初心者がやりそうなウッカリを、この大舞台で披露してしまったのだ。
まさに、森下が自虐するときによく出る
「なんと馬鹿なことをしたのかと、ほとほと自分にあきれ果てました」
というフレーズが聞こえてきそうなシチュエーションではないか。
考えてみればおかしな話で、屋敷伸之ほどの男が、こんな簡単な負け筋に自ら飛びこむはずがないのだ。
いつもの森下なら、こんなミスはやらかすはずがない。
あまりにもうますぎる話に、気持ちを引き締め直して、1秒もかからずに▲53金が打てないことに気づいたはずなのだ。
それが、このエアポケット。
理屈ではない、屋敷の持つ独特の「妖力」のたまものとしか言いようがないが、屋敷本人もビックリしたかもしれない。
今さら言っても意味はないが、▲76同歩では、▲78銀打と受けておいて、まだまだ熱戦は続いてた。
まさかの落とし穴は、おそろしいことに次にも繋がる深い闇となった。
第4局は先手の屋敷が、棋聖獲得の原動力ともなった相掛かりを示すと、森下もそれに追随。
むかえた、この局面。
先手の布陣にスキありとして、森下が果敢に端から仕掛けて行ったのだが、次の手が森下のねらっていた軽手だった。
△37歩とタタいて、森下は指せると見ていた。
▲同桂は△17歩成で突破される。
▲同金は△28銀から、桂香を取られてしまう。
▲同飛は△45銀と出て、飛車が殺されそうで困る。
後手がポイントをあげたようだが、これがとんだ尻抜けだったのだ。
▲28金とかわして、後手の攻めは頓挫している。
これで後手は手順に△17歩成を防がれたうえに、飛車をいじめる順もなく、歩打ちが完全に空振ってしまっている。
これぞ見事な「スカタン」であり、見れば見るほど悲しい形。
以下、▲37桂から▲16香と味よく歩を払って、先手は全軍躍動。
一方の後手は後退に次ぐ後退で、ヒドイことに。
図は△12歩と受けたところだが、自ら元気いっぱいで△15歩と仕掛けていったのに、その端を逆にあやまらされるのでは、なにをかいわんや。
それでも歩を受けた根性は、さすが不屈の森下卓だが、これは局面的にも気持ち的にも、あまりにつらすぎるというものだ。
堅実派の森下が、まさかの2局連続で大ポカ。
第3局の終盤からは急転直下の決着で、森下も納得がいかなかったろう。
以下、後手の懸命のがんばりを振り切って屋敷が制勝。見事、タイトル初防衛を果たした。
森下はA級10期、棋戦優勝8回、通算800勝以上を数える大棋士だが、タイトル戦には6度登場しながら、1度も獲得することができなかった。
それは相手の大半が、天敵ともいえる羽生善治だったことが大きな原因で(他は屋敷と谷川浩司が1度ずつ)、そのせいか後年この棋聖戦が「最大のチャンス」と言われることもあったが、残念な結果となってしまった。
(「無冠の帝王」と「C1に14年」の七不思議編に続く)
★おまけ
(森下が名人挑戦を決めた将棋はこちら)
(屋敷が「史上最年少タイトルホルダー」になった将棋はこちら)
(その他の将棋記事はこちらからどうぞ)