前回(→こちら)の続き。
第48期A級順位戦の最終戦で降級の危機をしのぎ、またもや「現役続行」を決めた大山康晴十五世名人(第1回は→こちらから)。
ただ、なんとか残留を決めたはいいが、いよいよおとろえは隠せなくなってきており、この期こそ本当に「ヤバいぞ」と見られていた。
その予想は、ものの見事に当たった。
大山は開幕局に敗れると、そのまま連敗街道に入り、たてつづけに星を落としてしまう。
第5戦を終えて、まだ目が開かない5連敗。
さすがに、今度こそダメだろう。
私など呑気なものだから、そう思いこんでいたのだが、ここから続く3局が、後期「大山伝説」の語り継がれるべき名局群となる。
まずは6回戦、南芳一棋王戦。
タイトルを持ち、ここまで4勝1敗の南は、大山と対照的に名人挑戦をねらう立場。
しかも、大山は南に4勝11敗と大きく負け越しており、このときも5連敗中と大の苦手。数字だけ見れば、絶体絶命に見える。
だが、この将棋は序盤から、大山がうまく指していく。
後手で四間飛車に振ると、南の十八番である左美濃相手に、3筋からうまくさばいていく。
苦しくなった南は、先手番ながら千日手模様で様子を見るが、大山は果敢に打開し、リードを維持したまま中盤戦へ。
端にアヤをつけ、馬とと金でじっくり「真綿で首」の準備をしたところで、じっと△65歩と打って守っておく。
▲66角の活用や、手に乗って▲69飛と回るような反撃の威力を消して、このあたりの落ち着きはさすがである。
ただ、このとき盤側では、少々雰囲気がアヤシイのでは、という声もあったそうだ。
振り飛車さばけ形なのは間違いないが、南もねばっており、なかなか決め手をあたえない。
「地蔵流」南芳一と言えば、デビュー当時はそれこそ「リトル大山」と呼ばれた、腰の重さが売りで、そう容易には倒れないのだ。
なにかドラマが起こるぞ、と身構えたときに指された、▲85銀という手が、結果的には敗着になってしまった。
この場合、▲85銀という手自体の好悪は、あまり問題ではないというのが、プロレベルの将棋、そして順位戦を語るのに、おもしろいところ。
仮にここで、当時は影も形もなかったAIが、この手を「最善手」と判断したとしても、やはりそう指すべきではなかったのだ。
一体、それはどういう意味なのか。
問題はこれで切り合いになってしまい、流れがわかりやすくなってしまったこと。
将棋と言うのは、指しやすいのはわかっていても、それを具体的に優勢、勝勢へと結びつけるのが、むずかしいのは、皆さまもご存じの通り。
また、そこでスッキリした順が発見できないと、むしろリードしているほうが、あせりなどから精神的に追いこまれていくというのは、まさに将棋「あるある」なのだ。
で、この局面こそが、まさにそうではないかと。
中盤の難所で、後手やや有利だが、じゃあどうやれば、より良くなるかは、なかなか見えない。
なら南がやるべきことは、できるだけ局面を複雑化させたり、手を渡してプレッシャーをかけたりすること。
まさに、大山その人が多くの修羅場で見せた勝負術の、そのお株を奪って戦うべきだったのだ。
その意味で、▲85銀という特攻は、後手の歩切れを突いて攻めとしては有力だが、「勝負術」という点では見劣りするところがある。
△85同歩に、▲同金、△47と、▲84歩、△同銀、▲同金に△57と。
という手順を見れば、なんとなく、言いたいことが伝わるかもしれない。
先手は相当に攻めこんでいるが、後手の手を見ると、これが実にわかりやすい一本道。
どれも、読まなくても指せるというか、「この一手」という手ばかりなのだ。
これは選択肢がなく、つらいようでいて、逆にプレッシャーのかかる戦いでは気楽な展開でもある。
手が見えなくて、ウンウンうなって追いつめられる状況は、心身も疲弊し、持ち時間もけずられ、悪手を指す比率も高くなってしまう。
一方、▲85銀からの折衝は、一気に寄せられてしまう恐怖こそあるものの、勝負将棋でもっとも恐ろしい、
「見えない影におびえる」
という、もっともミスの出やすい道を、歩かなくてもよくなったからだ。
「拷問は受ける前の方が苦しい」
なんてよく言われるけど、まさにそれ。
その意味で、南の▲85銀は悪手ではないかもしれないが、大山に腹をくくらせてしまった、という意味で「敗着」となった。
ここでは、▲11と、とか▲66歩とかで手を渡して、
「どうぞ、好きに指してください」
と居直れば、じらされた大山の苦悶と迷走は、まだまだ続いたことだろう。
事実、河口俊彦八段によると、
「こりゃ勝負形になった、と、観戦記者たちは騒ぎ出したが、プロ棋士達は逆に見た。大山が勝てる流れになったと」
追いつめられた大山にとっては、妄念に悩まされなくて済むスピード勝負は望むところで、しっかりと読み切って勝利へと前進する。
図は大山が△66角と王手して、南が▲77桂と受けたところだが、ここでは先手玉に詰みがある。
実戦詰将棋として、考えてみてください。
5手目にキレイな手があって、思わずニッコリ。
△77同角成、▲同金、△96桂、▲87玉、△78銀で詰み。
この銀打が、さわやかな決め手で、ピッタリ詰んでいる。
▲同金は△86金打。
▲同玉は△88金で詰み。
ここで投げれば美しい投了図だったが、南は▲96玉ともう一手だけ指し、△85金打まで投了。
ここまで、なかば死に体だった大山が、まずは片目を開けることに成功した。
それでもまだ、圧倒的に苦しいことには変わらないが、希望は出てきた。
ひとつは、降級をめぐる競争相手も、また星が伸びていないこと。
もうひとつは、次の相手が内藤國雄九段だったことだ。
(続く→こちら)