第二外国語の選択はむずかしい。
というテーマで少し前に語ったことがあったが(→こちら)、私の場合はドイツ文学科に進学したので、これに関しては泣いてもわめいても「強制ドイツ語」だった。
なぜにて、そんな因果な羽目におちいったのかといえば、これはもう10代のころ「ドイツ文学」に目覚めてしまったからに他ならない。
前回(→こちら)はエルンスト・フーケ―の『水妖記』などを紹介したが、今回も、ただでさえ足を踏みはずしがちだった私の人生を、完全にレールの外に追いやってしまった、罪深くもすばらしい本の数々を紹介したい。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ヘルマンとドロテーア』。
世に良い小説や、詩を残す作家は数いるが、「文豪」と呼ばれる人となると、その国から数人しか選ばれない名誉がある。
イギリスならシェイクスピアにディケンズ、ロシアならドストエフスキーにトルストイ。
フランスはバルザックにユゴー、スペインならセルバンテス、わが大日本帝国なら金之助に林太郎となろうが、ドイツだとたぶん、トーマス・マンとゲーテ先生になる。
『ファウスト』『イタリア紀行』など有名な作品は数あれど、私がここに紹介したいのが『ヘルマンとドロテーア』。
ストーリーに関しては死ぬほどたわいなくて、フランス革命の余波で難民になることを余儀なくされた少女ドロテーアを、裕福で純朴な青年であるヘルマンが助け、やがては恋に落ち、結ばれるというもの。
一言でいえば、「ボーイ・ミーツ・ガールのしょうゆ味」
ちなみに、日本語訳では小説の体をとっているが、原語では抒情詩です。
なぜにてゲーテ先生で、『若きウェルテルの悩み』でも『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴』でもなく、こんなマイナーで地味な作品を取り上げるのかと問うならば、ここにこそ「文豪」の底力を感じるからだ。
一時期はやった「泣ける映画」というのが、『さよなら絶望先生』で、
「ただ人が死ぬだけの話でしょ」
ネタにされてたけど、まさにこの『ヘルマンとドロテーア』こそ、
「ただ若い男女が出会って、結ばれるだけ」
といった、ポテチでいえば「うすしお」といった趣きの、メチャクチャにプレーンな物語なのだ。
それが読んでみると、とんでもなく美しくて引きこまれる。
ホント、たかだか男女の、ほれたはれただけですよ。
そこにモンタギューとキャピュレットがどうとか、嵐が丘がどうとか、明日は明日の風がどうとかといったドラマチックな展開などない。
なのに、読んでる間ずっと、若き恋人たちの高潔な魂に魅了される。
なんのヒネリもない恋愛沙汰だけでここまで耽溺させるとは、これこそが「文豪の底力」といわずして、なにをそうというのか。
しつこいようですが、こんな「かつお節だけでダシ取ったすまし汁」みたいな商品が、
「ドイツ古典主義の代表的傑作」
とかになるんスよ。マジすごすぎじゃん、ゲーテ先生!
ホント、『ファウスト』みたいな、退屈で辛気臭いもんなんか読むヒマあったら、絶対こっちを手に取った方がいい。
「恋愛もの」が苦手な私が薦めるのだから、間違いないのです。
短くて、サクッと読了できるのもよし。でも、今は手に入りにくいんだよなあ。
(ホフマン編に続く→こちら)