将棋の世界には「クソねばり」という言葉がある。
形勢が不利になると、逆転をねらって「ねばる」というのは、当たり前の行為だが、中には
「もうムリっしょ」
「早く投げろよ」
という声が多勢をしめるような局面にもかかわらず、それでも根性(もしくは投げきれなくて)で指し続ける場合があって、こういうのを少々下品な言葉だが「クソねばり」というのだ。
前回は若手時代の羽生善治が、名人戦で森内俊之に見せた、神業的読みの深さを紹介したが(→こちら)、今回は実戦的で、泥臭い将棋を見ていただきたい。
1982年、第40期棋聖戦の第1局。
二上達也棋聖と、森雞二八段との一戦。
先手の森が向かい飛車にして、▲86歩と飛車交換をせまる仕掛けを見せるが、これが少々無理気味だったよう。
二上のあざやかなカウンターを食らい、形勢を損ねてしまう。
△88歩が痛打で、先手がシビれている。
▲同金は△67歩成が、金銀両取りで終了。
本譜▲77桂にも、△89歩成として、次に△88と、▲同金に△68飛が金取りと、△67歩成が同時に受からず負け。
△89歩成に、森は▲69歩と打ってねばる。
いかにも、つらい手だが森いわく、
「この手が一番長持ちするでしょ」
たしかにそうかもしれないが、ただ長引かせるだけでジリ貧になる可能性も高い手だ。
そこからあれこれあって、この局面。
駒得のうえに、馬が手厚い後手とくらべ、先手の陣形は駒をベタベタと打ちつけて、いかにも「クソねばり」な雰囲気を醸し出している。
当時の観戦記でも、一時よりマシになったが、それでもまだ後手が、かなり有利と衆目が一致。
先手は1筋から攻められると、左辺の金銀が壁になって逃げられないし、そもそもここで次に指す手すら、まったく見えない状況だ。
だが、森はあきらめていなかった。
圧敗必至のこの場面で、ふたたび驚愕の一手を指すのだ。
▲83歩と打ったのが、すごい手。
ねらいとしては、もちろん、次に歩を成るということはわかるんだけど、こんな王様と反対の真空地帯に、と金を作って一体どうしようというのか。
そもそも、ここで1手パスして▲82歩成としても、後手からすれば、なんのこともないではないか。
ところがこれが、ここまで精緻をきわめた、二上棋聖の思考を乱すのだから、勝負というのはわからないもの。
よく解説を担当するプロが、
「中盤で差がつきすぎると、かえって指す手がむずかしい」
「どうやっても勝ちという場面ほど、迷ってしまって結構あぶない」
なんて言うものだが、これは本当で、この後の展開がまさにそうだった。
また観戦してた米長邦雄棋王や芹沢博文九段が、
「二上さんは怒っている」
1筋こそ突破されたものの、森もそこからなんやかやとアヤをつけ、さらにはその間隙をぬって、と金を右側に寄せていく。
▲83歩、▲82歩成、▲91と、▲81と、▲71と、▲61と……。
書き写しているだけでもイライラする亀の歩みだが、これが
「マムシのと金」
「と金のおそはや」
意外なほど、後手にプレッシャーをかけているようだ。
二上が攻めあぐんでいるうちに、先手はいつの間にか、後手の飛車を召し上げてしまう。
さらには、と金が▲51と、と後手の守りの要である「底香」をさらい、ついに▲41と、と銀までうばってしまうのだ!
先手はいいタイミングで、▲59玉と早逃げしたのが好手で、ここにきて将棋は完全に逆転。
ここで先手に、カッコイイ決め手がある。
▲15香と打つのが、玉の逃げ道をふさぎながら、▲31飛から詰めろという妙手。
△同馬は▲12飛で、王手馬取りが決まる。
二上は△41玉とするが、そこで▲81竜と、遊び駒だった竜を使うのが気持ちのいい手。
以下、森が、あざやかな寄せを見せて勝ちきった。
その独特の雰囲気を持った逆転術を武器とし、森は「終盤の魔術師」と恐れられたが、その見本のような勝ち方。
森はこれで勢いにのり、3連勝で棋聖獲得。
二上は勝てば「永世棋聖」の称号を得られたが、それはかなわなかった。
森といえば、対局中に控室にあらわれ、検討用のモニターに映る対戦相手の姿に
「間違えろ!」
「悪手を指せ!」
そう叫んでいたというが、まさにこの▲83歩からも、それが聞こえるようだ。
名局とは言えないかもしれないが、「おもしろい将棋」とはこういう一局のことをいうのであろう。
(先崎学の「穴熊の暴力」編に続く→こちら)