「若者は今の作品だけでなく、もっと古典にも親しんだ方がいい」
というのは読書や映画など芸術鑑賞の際に、よくアドバイスされることである。
そこで前回は「本当に古典を読んだり見たりするべきか」について語ったが、今回もそんなお話。
これに関しては私も、ミステリならホームズからクリスティー、コーネル・ウールリッチにクレイグ・ライス。
SFならハインラインにフレドリック・ブラウン、レイ・ブラッドベリ。
映画ならビリー・ワイルダーにルイ・マル、アルフレッド・ヒッチコック。
などなど、古典と呼ばれる古い作品も大好きだが、「タイパ」なんて言葉がはやるように昨今はコンテンツの数が多すぎて、とてもそんな時間など取れないのもわかるところだ。
こうなると「優雅に古典」なんて夢のまた夢で、こうして書きながらも昔はなんで、あんなにたくさん本読んだり映画見たりできたんだろうと、ちょっと不思議な気分になったり。
これに対しては、
「それはわかるけど、オレはやっぱ《過去の名作》のすばらしさを若い子にもわかってほしい!」
という意見もあろうし、まあ、それは私も本質的にはそうなんだけど、そこはねえ、そんなに気にしなくていいんじゃないかなあ。
というのは、本当にその作品やジャンルが好きになったら、絶対に「古典をたどる」ようになるから。
世のどんな「新しいもの」も、いきなりポッと無から有へと生まれるわけではない。
かならず、なにかからの「影響」を受けているものなのだ。
となれば、これは中島らもさんも言ってたけど、人はその「好き」を探求したいため、どうしてもその「影響」を探っていかざるを得ない。
そうして時代をさかのぼっていくと、結局行きつく先は「古典」であるし、そこでようやく心から納得することができるのだ。
「はー、すべてのはじまりは、ここやったんやなあ」
よく言うではないか。クリエイターになりたかったら、好きな人の作品だけでなく、
「その人が好きだった作品を、さかのぼって観賞してみなさい」
かくいう私も、ミッシェル・ガン・エレファントをバリバリ聴いていたときはドクター・フィールグッドを聴いたり、筋肉少女帯の影響から町田町蔵に手を伸ばしたり。
ビリー・ワイルダーから、エルンスト・ルビッチやプレストン・スタージェスを観たり。
さっきの中島らもから、東海林さだおやボードレールを手に取った。
今でも『名探偵コナン』の女性ファンが『機動戦士ガンダム』をせっせと勉強したりとか、そういうこともあるんである。
また、私が受験生だったころは、
「歴史を理解するためには「因果関係」が重要だから、学校の授業では『現代史』からはじめて、過去へとさかのぼって教えるべきではないか」
なんて意見もあって、おもしろいなあと思ったものだけど、これだって発想は同じだ。
「今」を理解するためには、絶対に「過去」を知らなければならない。
だから「古典もいいよ」派は、別にわざわざそこをアピールしなくても、
「フッフッフ、キミらは今、若いからわからんかもしれんけど、その道を歩いている限り、この場所にくることは避けられへんのやで」
余裕ぶっこいていればいいのだ。
そうして私のように
「今さらやけど、クイーンとかカーとかチェスタートン、いいっスね!」
という「元若者」がやってきたとき、
「やろー?」
したり顔をしながらニコニコと受け入れてあげればいい。
古典も新作も、両方好きなコウモリ派の私はそう思うのですね。