「古典ミステリはおもしろい」
ということで、前回G・K・チェスタートン『ブラウン神父の知恵』を楽しんだ話をしたが、こういうことがあると、いつも思うのは、
「《古典》って、別に無理して読まなくてもいいよなあ」
といってもこれは、
「古典なんて古くてつまんねーんだよベロベロバーカ」
ということではなく、時期の問題。
私は本でも映画でも、若いころからわりと古い作品も楽しんでいたので、人生の先輩たちからの
「どんなジャンルでも、今のだけじゃなく過去の名作にも接した方がいいよ」
というアドバイスにそれほど抵抗はないが、接してるからこそ
「古い」
「読みにくい」
「そこまで時間が回らない」
というヤング諸君の声も理解できる。
そのコウモリ的立場からすると、「古典」自体に興味があるならいいけど、無理してまで観たり読んだりしなくていいと思うのは、この理由があるから。
「本当に普遍性のある古典は、今の作品にも息づいている」
映画ファンの「あるある」で、若い子と『ブレードランナー』を見たら、
「あの映画って、今やってる○○とか▲▲とかのパクリですよね。ヤバいッスよ」
なんて言われて、
「ちがうねん! その○○とか▲▲がパクッてんねん! 『ブレードランナー』はそのすべての大元ネタなの! みーんなが影響を受けてる偉大な作品なんやで!」
憤慨するというのがあるが、これが結構本質的な話。
先輩映画ファンは、こういう目にあうと、
「今の子は『ブレードランナー』も観てない。もっと昔の名作も観て教養を深めてほしい」
となるわけだが、考えてみればその「観てない後輩」は実はすでに『ブレードランナー』を鑑賞しているともいえるのだ。
彼ら彼女らが、「これ、見たことあるぞ」となるのは、そこ。
そう、たしかにその後輩は『ブレードランナー』自体は観てないかもしれない。
けど、明らかにそこから影響を受けた、感動して人生を変えられた、大人になったら『俺ブレードランナー』を作るぞと決意した、そういう今の作品を山ほど観ている。
つまりは直接の接点はないが、長い歴史的観点から見れば、その先輩と後輩は「同じ道」を歩いていることに、なるのであるまいか。
すぐれた古典というのは、かならず大量のフォロワーを生み出す。
そして、技術は高まり、改善点はされ修正され、さらには「今の問題」も取り入れることによって、様々に進化していく。
そら、そういうのに接していれば「古典」はどうしても「古い」と感じてしまうわけだ。
でも、それでいいんである。
われわれは今でも常に、
「最新の状態にブラッシュアップした古典」
これを鑑賞しているのだ。
『ブレードランナー』だけでない。シェイクスピアも、エドガー・アラン・ポーも、オーソン・ウェルズも。
升田大山の名局も、『機動戦士ガンダム』もビートルズもみんなそう。
だから私は、「古典」の楽しさを知っている立場だけど、ヤング諸君にはこう言うのだ。
「古典もいいけど、最近のおもしろいヤツ楽しんでよ」
それで「古典」のエッセンスは充分学べるし、われわれ「古典派」も彼ら彼女らと接することで新しいものを知ることができる。
これでウィンウィンじゃないかなあと、思うわけなのだ。
(続く)