前回に続いて、鴻巣友季子『明治大正翻訳ワンダーランド』を読む。
明治大正期、黒岩涙香先生は外国のオモシロ小説を日本に紹介する、いわゆる「翻訳者」であった。
ただ、先生の翻訳の仕方というのが、実に独特であり、凡百のそれとはまったくちがう。
たとえば、涙香先生が「翻訳」した『法廷の美人』という探偵小説の前文がすごい。
余は一たび読みて胸中に記憶する処に従ひ自由に筆を執り自由に文字を駢べたればなり、稿を起こしてより之を終わるまで一たびも原書を窺はざればなり、
和文和訳するならば、
「オレ様は一回原書を読んだら、その記憶をたよりに、本文を参照することなく適当に書く」。
それ「翻訳」って言わねーよ!
といっても涙香先生、けっしていいかげんな気持ちで、そんなことをしていたわけではない。
先生からすると、本文に忠実で緻密な訳文よりも、
「オレが書いた方がおもしろい」
という作家魂が炸裂してゆえのことである。
「こんなおいしいネタを、さらりと流すなんてもったいない」
「もっと、おもしろく、できそうだけどなあ」
たしかに、小説や映画などでイマイチなものに出会うと、そんなことをいいたくなるときもあるけど、それにしても堂々としたものだ。
もちろん、翻訳者としての良心や著作権からして、決してほめられた行為ではない。
当然、批判の声も上がるわけだが、そこは涙香先生堂々としたもので、
「たしかにこれは「翻訳」ではないかもしれんが、訳だといわないと盗作だと怒られるので、訳ということにしてある」
あまりにあまりな赤裸々大人の事情、というか子供のいいわけ。さらには、
「ワシは翻訳者ではない」
ステキすぎる開き直り。
およそ作家というのは「オレ様」な人が多いといわれており、また、そうでないと、きっとつとまらない職業のだろうが、ここまでパンチの効いている人も、なかなかいまい。
大先生のみに、ゆるされる狼藉である。よう言うたなあ。
かつて、原作を少々の意訳には目をつぶって、リーダビリティ優先で訳す「超訳」というものが流行って、論議を呼んだことがあった。
原作を読みやすく「うすめる」主旨だった超訳と違って、むしろおもしろいよう「濃くする」涙香先生のサービス精神は熱い。
鴻巣氏いわく、
「黒岩涙香には「超訳者」という称号を贈りたい。「超訳・者」ではなく「超・訳者」である」。
「超・訳者」。
さすが本業の翻訳者は、いい言葉を思いつくものである。
たしかに、涙香先生の生き様には「超」がふさわしい。
まあ、今だったら超がつくほど、怒られますけどネ。
(続く→こちら)