「勝負の世界は、いい人だと思われたら終わり」
そう言い放ったのは、将棋の鈴木大介八段であった。
ふだんなら、ほめ言葉であるはずの「いいひと」がときにネガティブな意味となりえるのが、ひとつは「恋愛」であり、もうひとつがスポーツなど勝負の世界。
鈴木八段の所属する将棋界でも、かつては大山康晴という巨人が、盤上だけでなく盤外でも相手に圧をかけるという戦術で、劣等感を植えつけ、「負け下」に追いこむことによって常勝時代を築いた。
では、勝つためには「いいひと」であることを捨てなければいけないのかといえば、この問題に、また別の解答ともいえるものを出したのが、羽生善治である。
羽生は「いい人」である。
といっても、もちろん私が羽生さんの人間性など知るよしもないけど、勝利や地位への執着や、それにまつわる威圧感やハッタリなど、勝負師に独特の「アク」のようなものが、一見感じられない。
いかにも常識人というか。本当に、学校の先生や一流企業のサラリーマンなどをやっていてもおかしくない、ごくごく普通の男性に見えるのである。
だが、羽生は「いい人」でありながら、単なる「いい人」ではない。
そのことは、タイトル戦など大勝負に、ときおり見せる常人離れした執念や、ことさら相手にダメージをあたえるような負かし方など、様々なところにあらわれている。
そして、それがもっともハッキリした形で出たのが、1990年の第48期C級1組順位戦最終局、対森下卓六段戦ではあるまいか。
このふたりはもともと因縁が深く、少年時代から将来を嘱望され名人候補とうたわれたが、直接対決においては森下は羽生に、痛い目に合わされ続けていた。
森下がその実力にもかかわらず、いまだタイトル獲得がないのは「棋界の七不思議」と言われていたが、その原因のひとつに羽生という大きな壁があったのだ。
そして、この順位戦でもふたりは、またもや作ったような大一番を戦うこととなる。
順位戦の最終局というのは、それだけ見ても大きな勝負だが、この対戦はさらにややこしくも注目を集める要素が加わっていて、まず羽生はすでに9戦全勝で、B2昇級を決めていた。
前年度、ベテラン勢の「技」にかかってまさかの次点を食らったが、ここは格のちがいを見せたのはさすがである。
一方、森下も8勝1敗で2位につけていた。
C級1組は総勢30人ほどで行われ、上位2名が昇級するが、競争相手の土佐浩司六段が7勝2敗で追っており、まだ決定ではない。
整理すると。1位は羽生で、これは決まり。
残るは2位争いだが、最終局に森下が勝てば文句なく昇級。
負けると土佐にチャンスが回ってきて、勝てば逆転昇級。もし土佐が負ければ、仮に森下が負けても森下昇級。
レース展開は、森下が有利。いわゆる「4分の3」というやつだ。
だがひとつ問題なのは、最終戦が羽生だということ。
勝てば決まり。ただし、相手は最強の男。
そして、もうひとつ因縁なのは羽生と森下は、ふだんプライベートでは仲がよい友人同士だということだ。
昇級がかかった順位戦最終局。友人でライバル同士の激突。
かたや人生のかかった一番、かたや勝利はすでに手にして消化試合。
二重にも三重にも因縁がからみあう、この血涙の一番は予想通り、いやそれをはるかに超えた、壮絶な結末をむかえることになるのである。
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