まじめな優等生に説教つきでフラれる私は風のような自由人でない

2022年02月05日 | モテ活

 「妥協するなら、下ではなくてにしたほうがいい」

 

 こないだ、

 

 「スペックは悪くないのに、なぜか彼氏彼女がいない人」

 

 について、なんでそうなっているのか推測し、語ってみたが(→こちら)、そこでの結論がそれだった。

 そこで前回(→こちら)は、「世話好き」に好かれる(らしい)私が、「干渉」を嫌って逃げ回っている話をしたが、今回もそういうスカタンな例を。

 人には相性というものがあるが、私の場合はもうひとつ、

 

 「マジメな優等生」

 

 これにも、ときおりお近づきになるチャンスがめぐってくる。

 勉強ができて、倫理感も高い女の子が、なぜにて私のような、脳みそが風船でできているような男に興味を持つのかと問うならば、彼女らはどうも、

 

 「自由」

 「反抗」

 

 というものに、あこがれているようなのだ。

 先も言ったが、私はこう見えて「干渉」「束縛」が大嫌いである。

 これは別に、異性にかぎらず一般生活でもそうで、世の「常識」「当たり前」でまかり通っている「理不尽」にも、どうにも相性が悪い。

 「なら」「なら」「若者なら」「学生なら」「社会人なら」「プロなら」「大人なら」「有名人なら」「日本人なら」etc……。

 その他、数えきれないほどの、たいした根拠もないカツアゲ

 こんなもん、別に普遍性もなにもなく、ただ

 

 「その時代にたまたま多数派」

 

 だっただけのシロモノであって、それをあたかも「当然」のごとくエラそうに語ったり。

 ましてや、人に強制するのは、あまりに想像力が足りない、と思ってしまうわけなのだ。

 なので、そういうところから、なるたけ距離を取っているわけなのだが、どうもマジメな女の子のアンテナは、そこに引っ掛かるらしい。

 優等生というのは、周囲に認められて大人にもほめられて、いい身分のようだが、その実、内心ではそのことに意外なコンプレックスを持っていたりする。

 せっせとルールを守って、小市民的に生きている自分は、ひどく「退屈」な人間なのでは。

 あるいは、本当はレールの上なんて歩きたくないのに、そこからはずれる勇気がない。

 そういうとき、彼女らが感じている「常識」という圧迫感を、まるで無視して鼻歌でも歌っている私を見ると、

 

 「自分もあんな風に、自由に生きたい!」

 

 と思うようなのだ。

 バックパッカーとかやってた影響もあるのだろうか、実際、女の子に

 

 「風のような自由人なんだね」

 

 と言われたこともあるし。

 おお、言った方も言われた方も、激恥ずかしいぞ。

 おたがい、若かったというか、なんでなんも言ってない私まで恥ずかしいのか謎だが、とにかくそう思う人もいるようだ。

 こちらとしても、頭のいい女性は好きだし、人間性にもすぐれているとあっては、仲良くするに、しくはない。

 そもそも視界に入らない「世話好き」と違って、今度は割と進展するというか、いわゆる「おつきあい」に結びつきやすいのは、断然こっちの方なのである。

 となれば、話はハッピーエンドのようだが、もちろんそんな甘い話など、私のコイバナに出てくるはずもない

 結論から言えば、フラれます

 簡単にフラれます。早いと、2週間くらいでフラれます。それこそ風のよう、さわやかに、大谷翔平選手の剛速球並みなスピードでフラれます。

 しかも、場合によっては説教つきで。

 若いころは、カフェとか飲み屋で、ガンガンにアップをカマされながら、

 

 「なんで、オレ、こんなに怒られてるんやろ」

 

 ボンヤリそんなことを考えていたものだ。

 要するに、私は彼女らが期待していたような「自由人」ではないということ。

 たしかに私は、世の「常識」なんて、ただの多数決イキりくらいにしか感じてないし、レールの上を走る人生でもない。

 でもそれは、彼女らが思うような、なにか思想信念があるものではなく、

 

 「わずらわしいから」

 

 程度の理由でしかなく、またその手の考え方は精神論にかたよりがちなところが「論理的に気持ち悪い」のと。

 あとその「常識」やら「当たり前」やらを使って、他人を支配しようとする卑怯者がイヤなだけ。

 つまりは、そこに「彼女」の入る余地はなく、あくまで個人的なはなしで、別に私がそれを強制されなければ、他の人に、それこそ干渉する気はない。余計なお世話だろう。

 レールの上を走ってないのも、そこに高邁な意志はなく、

 「頼んでも、向こうが乗せてくれない

 ハッキリ言えば、乗るには能力が足りないという、ただのスカタンなのである。見込み違いも、はなはだしい。

 そのことに彼女らは、期待があった分、はしごを外されたようなガッカリ感があり、それを

 

 「だまされた」

 

 と取ってしまうようなのだ。

 つまるところ、『ムーミン』に出てきたスナフキンを、

 

 「自由に生きる旅人」

 

 と見るか、

 

 「口だけ達者な、宿なしの無職」

 

 そう解釈するかで、そのキャラクターが変わるように、彼女らは最初、前者を見るのだが、すぐに後者であると理解するようになり、

 

 「裏切られた!」

 

 それが怒りとなって噴出するのだ。

 私からすれば全力で「知らんがな」だが(こういう態度がまた良くないのだけど)、今となっては反省するところも多い。

 けど、そのころは全然わかんなかったし、まさに馬の耳に念仏、糠に釘である。甲斐ないなあ。

 私はテキトーに生きているだけで、物語に出てくるような「自由人」ではない

 嗚呼、サンタラの名曲『バニラ』やGO!GO!7188の『雨上がり アスファルト 新しい靴で』が頭の中に流れるよ。

 応える気概も能力もないから、期待なんて、しないで!

 

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