1995年デビスカップ決勝は死闘だった。
テニスファンにとってこの季節は、なんといってもデ杯。
テニスではめずらしい国別対抗の団体戦ということで、ふだんは一人で戦うプレーヤーたちが、国の威信とチームの連帯感(ときには確執)を背負ってコートをかける姿は、平時のツアーとは一味も二味も違う熱気があるのだ。
1995年、決勝にあがってきたチームはアメリカとロシアだった。
当時のアメリカは、ピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、マイケル・チャン、ジム・クーリエといった綺羅星のごときトッププレーヤーを有し、黄金時代をほしいままにしていたころ。
当然、優勝候補バリバリだったが、われわれが注目していたのは、むしろロシアであったかもしれない。
ソ連時代をふくめて、ロシアは常にスポーツ大国であったが、ことテニスにかぎっては、それほどの実績がなかった。
ソ連が自国選手の外国での試合を禁じていた時代があったからだが、それが解放されたのち、南部の小さな街ソチよりエフゲニー・カフェルニコフという男があらわれたところから、ロシアテニスの大爆発が始まる。
この年、まだ21歳だったカフェルニコフ(愛称カフィ)はローラン・ギャロスでベスト4に入る活躍を見せ、このデビスカップでも当然のごとく優勝をねらっていた。
ただ、試合前の下馬評では、戦力的に見て単純にアメリカ有利。
なんといっても当時のアメリカには、世界ランキング1位の絶対王者、ピート・サンプラスがいた。
このシーズンも、全豪こそ準優勝に終わったものの、ウィンブルドンとUSオープンで優勝し、アンドレ・アガシに奪われていたランキング1位の座もうばいかえしていた。
タイトなスケジュールをやりくりしなければならず、またポイント的うまみも薄いため、トップ選手はあまり出たがらない傾向もあったデ杯だが、このときのサンプラスは高いモチベーションで優勝に向かって邁進していたのだ。
これに加えて、アガシ、クーリエも参加を表明しており、さらには控えにトッド・マーチンもいるというその層の厚さ。
唯一の不安材料はダブルスだが、これもリッチー・レネバーグというスペシャリストを擁しており、まともにぶつかればアメリカが4ー1くらいで勝ちそうとは、素人でも予測できるところだ。
だがデ杯というのは、そう単純なものではない。
まず、ロシア側には、先述したカフェルニコフという頼れるポイントゲッターがいる。
まだ荒削りで、まともにぶつかればサンプラスやアガシにはおよばないところも多いが、なんといっても若さの勢いがある。
また、カフィはダブルスもうまいのが売りだ。
シングルスの選手は、基本的にはダブルスにあまり力を入れないものだが、彼はそちらも積極的に進出していた。
またチームには不動のコンビ、アンドレイ・オルホフスキーという息のあった名パートナーがいるのも心強い。
デ杯は「ダブルスが重要」というのはテニスファンにとって定跡のようなもの。
急造ペアで戦うことになりがちなこの大会で、「通いなれた道」を歩けるのは、ものすごく大きいことのだ。
そしてなにより、開催地がロシアということが最大に予測を難しくさせる要素でもある。
スポーツにはそもそも「ホームタウン・ディシジョン」というのが存在するが、デ杯では開催地側にコート・サーフェスを選択する権利があり、そのことが、さらに有利さを加速させる。
当然、ロシア側は球速の遅いクレーコートを敷いてアメリカチームを迎え撃つこととなる。
これだけで、勝負は一気に互角か、それ以上にロシアに勝ち味が倍増するのだ。
なぜなら、カフィをはじめロシアの選手たちは皆クレーコートで育った、バリバリの「スペシャリスト」にも関わらず、アメリカのナンバーワンであるピート・サンプラスはクレーが大の苦手ときているのだから。
おまけに、アメリカ側は直前にアガシの欠場というハンディも負うことになった。これに勢いづいたロシアは、相当なる自信をもつこととなる。
事実、試合前の記者会見でもカフィは堂々たるもので、「地元で優勝する」と意気ごんでいたものだ。
こうして役者はそろった。
モスクワのオリンピック・スタジアムで、シーズン最後を飾る大一番、ロシア対アメリカのデビスカップ決勝が幕を開けたのである。
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