「そう考えたら、ピンさんはすごかったんやなあ」
そんな感嘆の念をもらしたのは、将棋ファンの友人ミナミ君であった。
ことの発端は藤井聡太七段が、棋聖戦で
「史上最年少タイトル挑戦者」
になったことに、おめでとうという話から、また第1局でも、最強の渡辺明三冠相手にとって、激戦の末に勝利。
これに関してはもう、「すごいもんだ」とあきれるしかないが、前回はそれを受けて、ぜひとも谷川浩司九段の持つ大記録
「21歳で、史上最年少の名人獲得」
これも更新してほしいという話をしたが(「21歳」谷川浩司名人誕生の一局は→こちら)、そこにミナミ君は、
「名人戦で史上最年少なら、実はもうひとつあるんやね」
あー、そうであった。
谷川の成し遂げたことは快挙だが、もうひとり名人戦まで、フルスピードでかけ上がった男がいたのだ。
それは大山康晴でもなく、中原誠でもなく、もちろん谷川でもなく、森内俊之や羽生善治ですらない。
そう、今ではタレントとして、すっかりおなじみになった、あのレジェンドのこと。
だが、おどろいたことに、この七番勝負の主役になったのは、その「天才」ではなかった。
前代未聞の「20歳名人」あるかと沸き返ったシリーズは、実はその前途洋々だったはずの若者が、
「つぶされた」
とされる、おそるべき罠が待っていて……。
1960年に開催された、第19期名人戦七番勝負。
大山康晴名人に挑むのは、今は「ひふみん」でおなじみの、加藤一二三八段だ。
加藤一二三といえば「神武以来の天才」と呼ばれ、14歳でプロデビューしてからも、
「18歳でA級八段」
「20歳3ヶ月で名人挑戦」
という破格のというか、ここまでのペースだけなら谷川浩司や、羽生善治以上の出世街道を驀進していた。
ライバルである二上達也と並んで「打倒大山」の先陣を切って走り、堂々登場した名人戦でも、すでに「永世名人」を確保するだけでなく九段(今の竜王)と王将も保持する、絶対王者相手に第1局を快勝。
これには「加藤名人あるか」と、世間は色めきだったというが、今の
「藤井フィーバー」
「史上最年少タイトルホルダーを期待」
という空気感を知る身とすれば、その熱気は相当なものだったであろうと、推測はできる。
ところが、ここから大山が力を発揮し出す。
もともと大山は、番勝負の第1局を落とすことがよくあり、その内容もあっさりしたものなところから、
「様子見のため、力を抜いているのではないか」
「わざと負けているのではないか」
なんて言われていたらしい。
さすがに、わざと負けはしないものの(当然ながら、ふつうにストレート勝ちすることも多い)、「初回から全力投球」というスタイルで、なかったのはたしかだろう。
実際、加藤相手の名人戦でも、緒戦を落としてからは一気の3連勝で、若き挑戦者を、あっという間にカド番に追いこんでしまった。
どうもこのころ、大名人と加藤の間はまだ差があったようで、『大山康晴の晩節』という著書もあり、このシリーズで記録係もつとめた河口俊彦八段によると、
「ほとんど問題にせず、子供あつかいにして四連勝した」
また、鈴木宏彦さんの記事によると、第1局に敗れた大山は、盟友である丸田祐三九段にこう言ったという。
「加藤は攻めが強いというけど、たいしたことないね。もう負けないよ」
こうして、大山が名人防衛に王手をかけたが、問題なのは第5局。
ここでも大山は地力を発揮し、加藤を寄せつけず終盤は勝勢になる。
むかえたこの局面が、「事件」の起こった場所だ。
盤面は、先手の大山が圧倒しており、ふつうに指せば、次の一手で投了となるところだ。
そう、▲14銀と打つのが「玉はつつむように寄せよ」の格言通りな筋のいい手。
▲68にいる角のレーザービームがすさまじく、後手玉はまったく身動きが取れない。
加藤の△51飛は、そのきれいな形で投げるべく「首を差し出した」手で、たしかに名人戦の収束にふさわしい、美しい図だ。
ところがここで、大山は違う手を指した。
▲62馬と入ったのが、今でも論議を呼ぶ手。
この手のなにに、そんな語るべきところがあるのかと問うならば、大山がこれを
「わざと指したのではないか」
という疑惑があるからだ。
ここで▲14銀は、さしてむずかしくないどころか、プロなら一目で見える手だ。
それを大山が、見逃すはずがない。
では、なぜ指さなかったのかと問うならば、多くの人が推測するに、
「次以降の対戦にそなえて、加藤により大きなダメージをあたえる負かし方をする」
1手で終わるところを、わざと遠回りな攻めで、手数を長引かせる。
「次につなげる」ための、気持ちの整理や、きれいな「形作り」をさせない。
テニスでいえば、マッチポイントで力なく上がったロビングを、スマッシュせず軽く返す。
そこから、さらに延々と打ち合いを続け、相手が疲れ切り、観客の嘲笑や同情の目が最高潮に達し、
「頼むから、もう試合を終わらせてくれ!」
そう懇願されてもかまわず、ぶっ倒れるまで無意味なラリーを続けさせるようなものだ。
一言でいえば「なぶり殺し」「公開処刑」であり、名人戦という大舞台で加藤は
「投了させてもらえない」
という辱めをあたえられた。
この将棋の観戦記を担当した作家の五味康祐氏は、この場面についてこう書いている(改行引用者)。
名人はもたれて指すと書いたが、指される方にしてみればこんな残酷な攻めはないと思う。
九分九厘勝ち目のない将棋だ。深手を受けたにひとしい。それを寸だめし、五分だめしで、じりじり切りさいなまれる。
急所にとどめを刺してくれないのだから断末魔の苦しみがいたずらに続くわけだ。
武士の情けという言葉があって、古来、日本人は散りぎわを尊重する。
節目のある試合なら必ず止めを刺す。止めも刺してやらないのは、相手が町人ふぜいの場合に限る。
つまり大山と指して負ける棋士は、大山に町人根性でいたぶられるわけになろう。
大山は、いさぎよく散ることもできず、血まみれの盤上で、のたうち回るしかない加藤を冷たく見下ろすことによって、
「おまえなど、とどめを刺してやる価値もない」
そんな烙印を捺してしまったのだ。
敬意など、はらうわけもない。格下風情は、皆の前でみじめな醜態をさらせばいい。
おれにとって、おまえは、その程度の存在なんだぞ、と。
河口八段をはじめ、多くの棋士やファンが、
「加藤はこれにより、コンプレックスを植えつけられ、大山に勝てなくなった」
事実、加藤は大山とのタイトル戦でこの名人戦から5連敗を喫し、通算でもシリーズ1勝8敗と歯が立たなかった。
そのせいで、「神武以来の天才」と呼ばれながら、初タイトルまでデビューから14年。
名人獲得にいたってはこの初挑戦から20年近い歳月を必要とした(「加藤名人」誕生については→こちら)。
一方の大山は、この手について、
「単に▲14銀が見えなかっただけで、ふだんから、勝ち将棋は危険をおかさず安全勝ちをねらう、という信念があるから▲62馬と指した」
とコメントしており、実際のことろはどうなのか、どこまでも推測の域は出ない。
たしかに河口八段の論はかなり主観的で、ファクトよりも「おもしろさ」「伝説性」、ときに「願望」を重視する書き手。
また、五味康祐氏は大山のことを嫌い、ライバルだった升田幸三をひいきしていたから、そこになんらかのバイアスがあった可能性は十分ある。
ただ、加藤のライバルである中原誠十六世名人や、内藤國雄九段などは、
「加藤さんは若いころ、もっとふつうの人だったが、大山先生に負かされすぎて、だんだん変わっていった」
といった内容の証言をしており、特に奨励会時代の加藤を知る内藤など、そのさわやかさから、
「天才は汗をかかない」
という言葉を残したほど。
どうも、われわれの知るホットな「加藤伝説」の数々とは、不釣り合いな評であるようにも思える。
事実、大山に嫌われていた内藤は、盤外戦術をモロに受けて疲弊させられたし、大山と名人戦などで戦った高島一岐代九段の自戦記にも、
「大山さんの盤外戦術は実に辛辣」
逆に中原は大山の「カマシ」をすべて強気ではねつけ、
「そうしなければ、大山先生には勝てなかった」
『将棋世界』のインタビュー記事などで、おっしゃられていた。
一方の加藤は、
「盤外戦術なんてなかった」
「大山先生には、むしろかわいがっていただいた」
基本的にはその説を否定しており、ファンの感心するように
「さすが、ひふみんは天然だ」
ということなのかもしれないが、ことはそんな単純な話でもないような、ドロリとしたものも感じる。
大山を取り上げた本や雑誌記事には、駒の交換が起こったとき、加藤が取った駒を駒台に置く前に、直接に手から荒っぽくむしり取ったりしてたそうだから(まるでケンカだ)、相当に対抗意識はあったようだし。
そのあたりは、これからもオールドファンの間で議論の肴にされていくのだろうが、まさに映画『羅生門』のごとく、すべては「藪の中」。
ちなみに、私自身は大山が▲14銀をスルーしたことについては、
「これ、やってんな」
と思わされることが、その他にもけっこうあったりしたので、次回はそのひとつを紹介してみたい。
(続く→こちら)