沼野充義最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人 村上春樹、大江健三郎からサンギまで」を観る(→こちら)。
沼野先生といえば東京大学の教授であり、スラブ文学の第一人者。
専攻のロシア・ポーランド文学のみならず、スタニスワフ・レムの翻訳や同人活動など、東欧SFの分野でも活躍。
また、綿矢りささんやリービ英雄さんという現代日本文学作家との対談なども精力的に行い、「亡命文学」や語学・文学エッセイなどにもたずさわる。
「世界文学」と接する者は足を向けて寝られない、それはそれは偉い人なのである。
沼野先生とのファーストコンタクトは、学生時代に読んだ白水Uブックス『屋根の上のバイリンガル』。
多民族国家アメリカで生きるロシア語や、イディッシュ語とドイツ語の関係性など、様々な言語について軽妙洒脱に語る良質なエッセイ。
私も学生時代ドイツ語とドイツ文学を専攻していたため、語学エッセイを読むのが好きなのだが、この『屋根の上のバイリンガル』は稲垣美晴さんの『フィンランド語は猫の言葉』や、千野栄一先生の『外国語上達法』などと並んで、もう本がボロボロになるほど読み返したものだった。
講義の内容は、ドミトリー・コヴァレーニン氏(ロシアにおける村上春樹人気に火をつけた日本文学翻訳家)とのフェイスブックでのやり取りからはじまって、前半は主に村上春樹さんの話。
『国文学解釈と教材の研究』という雑誌で、中上健次さんと対談した村上さんが、フォークナーを祖とする中上さんに、自身のベースであるフィッツジェラルドでは弱いと、トルストイやドストエフスキーを持ち出して対抗したとか。
そこに諏訪部浩一氏と若島正さんが、パーティで将棋のはなしをしていたとかいう、楽しい脱線(これはすぐれた講義に必須である)も交えて、興味深い話題が盛りだくさん。
なんだか、学生時代にロシア文学もそこそこ読んだけど、チェーホフって全然ピンとこなかったなーという、ボンクラ元文学部生にはもったないボリュームで、これが東大生以外も無料で聴けるのだからゴキゲンではないか。
2時間近い講義が、ちょっと長いなーという人は、沼野先生もおっしゃるように、ニヴフ人の作家サンギさんのインタビューだけでも聴いてほしい。
こういうお話を聞くと、やはりいつも思うのは、「言葉」というのは多様であり、また「生き物」でもあるということ。
日本の外国語教育は、ほとんど100対0で英語に偏りがちだけど、たまにでいいから、
「世界はそれだけではない。数え切れないほどの英語以外の言語や文化があり、その価値はすべて等価である」
という、当たり前の上にも当たり前にもかかわらず、ときに信じられないほど軽視されがちな、この真理にふれてほしいと願うものだ。
それともうひとつ、講義の最後に沼野先生が残された言葉。
アーカイブの1時間23分くらいのところだが、このコロナによる危機に「不要不急」の文学に、なにができるかという、いわゆる
「飢えた子供の前では文学は無力」
という根源的な問いに、こう答えておられるのだ。
「どんなにおそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと」
先生は静かに続けて、
「そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです」
講義を終えて、さっそく積読になっていた先生『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』とスタニスワフ・レム『ソラリス』を読もうとページを開いたのだが、これがはかどらなくて困っている。
それは、この最後の言葉以来、涙があふれてきて、ぬぐってもぬぐっても止めることができないからだ。
なにかの作品や、だれか言葉にふれて「泣いた」という話は、そもそも恥ずかしいものだ。
それは単に泣き顔がみっともないとか、「感受性の豊かな人」アピールと取られるのではないかというものと同時に、
「心打たれて涙する」
というのは、自分の心の中にある、もっともやわらかい部分を無防備にさらけだしてしまうせいだ。
私にとってそれはきっと、「同調圧力への不同意」の姿勢と、「文学」、いやもっといえば小説や映画や演劇やマンガ。
絵画やお笑いやライトノベルや詩やゲームや評論やエッセイなど、ありとあらゆる「表現者」の仕事が持つ、
「抵抗者にあたえる勇気の力」
これを信じていることだろう。
たとえどんなに無力でも、そのことによって多数派が占める「心地よいグループ」に入れないとしても。
暴力や抑圧、差別や搾取を笑って肯定するような場に、「そっと不同意」の姿勢だけは示し続けていきたいと願っている。
そんな私の微力なたましいを、沼野先生の言葉は静かに肯定してくれた。
きっと、そんな気がしたからだ。