「はー、そう指すもんですかー」
というのは、森下卓九段の解説で、よく聞く言葉である。
これと「○○流ですね」というのが、森下先生の口ぐせ。
その影響なのか、私も人の将棋を観ていて、思わず口をついて出てしまうことがある。
前回は羽生善治九段の、めずらしい大悪手3連発を紹介したが(→こちら)、今回は羽生の、一見わかりにくそうな好手を見ていただきたい。
1994年前期の、第64期棋聖戦。
羽生善治棋聖と、谷川浩司王将の一戦。
1勝1敗でむかえた第3局。先手の谷川が、向かい飛車に振ると、羽生は棒銀で対抗。
後手が飛車を敵陣に打ちこんで、指せるように見えるが、先手も馬ができているのが主張点。
△82の銀もおかしな形で、バランスは取れているようだ。
ただ、この馬取りに対する応手が、先手も悩ましい。
▲74歩みたいに受けても、△83歩とか、この馬をいじめられそうである。
だがここで、谷川は軽妙な手を用意していた。
▲65歩と突き上げるのが、いかにもセンスのいい手。
一見△84飛で馬がタダだが、それには▲66角が「詰めろ飛車取り」のカウンターで取り返せる。
かといって、△65同飛は▲68歩とでもガッチリ受けられて、これはつまらない。
先手の馬が攻防に利いて手厚く、△82の銀も遊んで、これは振り飛車も充分やれそうだ。
それは冴えないと、羽生は△84飛と取り、あえて▲66角を打たせて勝負に出る。
▲22金の一手詰みを△33角と受け、▲84角と飛車を回収したところで、△98飛成と香を補充。
次に△47香が激痛だから、先手は▲58金打と埋めるが、次の手が問題だ。
形勢は、ほぼ互角。
先手は飛車の打ちこみがねらいで、8筋9筋の駒を取っていけば、美濃囲いの堅陣もあって、自然と振り飛車が勝つ。
後手の切り札は△15歩の端攻めだが、すぐ行って決まるかどうかは微妙なところ。
どう指すのがセンスがいいか、首をひねりそうなところだが、ここでの羽生の手が意表をついた。
△61香が、「はー、こう指すもんですかー」と声が出る一手。
なんとも不思議な香だが、これが谷川も見えなかった好手だという。
意味はもちろん、▲62角成の侵入や、▲61飛の打ちこみを消した手。
こう見ると、変な形だった△82銀も、自陣にスキを作らない意図であり、指し手の連動性が理解できる。
中盤で▲85桂と跳ねたのに、△82銀と引いたのは、一見退却に見せて、この香打ちまでの流れを想定した
「自陣に竜を作らせない」
という構想のたまものだったのだ。
とはいえこれは、ちょっと打ちにくい香でもある。
ただ受けただけの手だし、できれば香は、端攻めなどに使いたい駒のように見えるからだ。
その思いこみにとらわれないのが、さすが羽生の強みで、事実、先手から、これ以上の攻めが難しい。
以下、後手は馬を作り、好機に△15歩を発動させて1手勝ち。
この手が、急所中のド急所。
「美濃囲いは、端歩一本でなんとかなる」
対振り飛車戦では、絶対におぼえておきたいキーワードで、これで先手は受けがない。
▲15同歩には、いろいろありそうだが、たとえば、△17歩、▲同香、△16歩、▲同香、△39銀、▲同金、△18金、▲同玉、△39馬くらいで必至。
△66馬の位置エネルギーがすばらしく、金銀3枚の美濃囲いも崩壊。
シリーズも3勝1敗で、羽生が棋聖防衛を果たしたのだった。
(村山慈明の絶妙手編に続く→こちら)