前回(→こちら)の続き。
中島らもさんは、女子高生の
「なんで、そんな自由にしていられるのか」
とのぶしつけな質問に、
「それはたぶん、自分のことがあんまり好きでないからやろうね(中略)そやから、自分を可哀そうに思ったり、大事にしてあげたりせえへんから」
私はここに、自らのファッション音痴を解き明かす鍵が、あるような気がした。
そう、私は自分にあまり興味がない。
昔からそうだが、自分という存在に、あまり重きをおいていない。
といっても「自分が嫌い」というわけでもない。
自己嫌悪というのは自己愛の裏返しで、それだけ自分に深く、コミットしているということだから。
そうではなく、愛の反対は「憎悪」ではなく「無関心」といわれるが、どうも私には「自分」というものが、この世界の中で、さほど重要なものとは感じられないのだ。
もちろん、自意識や自己愛というものは皆無ではない。
それなりに自分のことは興味深いし、つきあえば、そこそこには楽しめる人間ではないかとも思っている。
が、まあその程度。
思春期にありがちな
「自分とはなんなのか」
「なんのために生きているのか」
といった煩悶には無縁だった。
「自分探しの旅」など、どう考えても、たいしたものは見つからんだろうなあと、検討の余地すらない。
私の場合はやや極端かもしれないが、だから、らもさんの言うことはよくわかるつもりだ。
そもそも自分を飾って
「より良く見せよう」
と考えるという発想が、根源的にないのだ。
着飾ってほめられたら、そらうれしくないことはないが、たぶんそれは「おしゃれな人」の10分の1程度の感動だろう。
そこまでのもんじゃないし。そんなことより、もっと楽しい話がしたい。
ライターの吉田豪さんは自分のことを話さない理由に、プライベートをさらして、仕事に支障をきたしたくないというのの他に、
「自分のことって、おもしろくないんですよ。それより、世に中にはみんなの知らない、すごいおもしろい人やモノがあるって言いたいんです」
というようなことを、おっしゃっていた。
同じだ。おそらく豪さんも、ファッションに関しては「こっちチーム」ではあるまいか。
ということは、逆に考えればこうなる。
ファッションが好きだったり、自分がどう見られるかにこだわったりする人というのは、これはもう
「自分が好き」
「自分を大事にしている」
という人に他ならない。
というと、なんだかただのナルシストか自己中のようだが、そうではない。
人間にとって、自分を愛し、自分を肯定し、自分をより良く見られるよう努力することは、きわめて健全なことである。
だからファッションが好きな人というのは、きっともうちょっと人生についてポジティブであり、それはたぶん「良きこと」のような気はする。
これは、ミュージシャンである大槻ケンヂさんも、似たようなことを言っていた。
オーケンもまた、ファッションに興味がなく、自分に着るもののセンスがそなわっていないことを、自覚していたそうな。
で、あるライブの時、ファンの女の子がヒラヒラのついたドレスみたいな服を着て、踊ったり跳んだりはねたりしているのを見て、天啓のようにひらめいたという。
そうか、彼女たちは、自分を大事にしているんだ。
だからきれいな服を着て、よりよく、美しく見せようとする。
そういう風に思えるということは、これはもう
「全面的な自己の肯定」
であると。
たぶんこの「自己の肯定感」の大小が、単に
「うん、この服いけてる」
「オレってマジかっけー」
といったポジティブなものから、
「自分を肯定してもらいたい」
「自分こそ、まさに自分自身を肯定してあげたい」
という切実な願いがまで、ファッションへの関心の度合いと比例しているのだと思う。
私やらもさんや、オーケンみたいなタイプは、それが低い。
そしておそらく、それはある意味「自由」でもあるのだ。
「自分を大事にする」「自分自身を肯定する」という、努力や失望から開放される「自由」。
たしかに、人によっては「うらやまし」いものであり、「可哀想」かもしれない。
そのことがわかったときに「なるほど」と腑に落ちたものだ。
ファッション音痴全員がそうとはいわないけど、まあそこそこの数は、このことが理由の一端にもなっているのではなかろうか。
「自己アピールより、【自分以外のおもしろいもの】に興味が深い」
「自我という、重たくも愛すべきものから、良くも悪くも多少は自由である」
だから、自分を飾るなどという「めんどくさい」ことはしたくない。
以上が私の考えるところの、ファッション音痴な人の特徴だ。
前回のお寺の子は、きっと「自己の肯定感」が強い。
ゆえに「自由」が侵食され悩ましい、と。
どちらがいいかは、もうその人次第です。
自分の意思で選べるかどうかも、わかんないし。
もちろんこれは個人的な考えで、中には
「流行りのファッションなど、マスコミの情報操作だから乗りたくない」
といった硬派な人とか、
「オシャレしたいけどセンスがないから、あえて興味のないフリをしている」
といった、すっぱいブドウ型の人なんてのもいるだろう。
すべての人が、そうとは言わないけど、まあ私は少なくとも、このタイプに近い。
ともかくも、我々チームはそのモチベーションに劣るところはあるから、今さら着るもののセンスをみがけというのも、たぶん無理。
せめてもの対策はこれくらいで、
「なんとか、見た人が不快に思わない清潔感ある格好をする」
そう、「ファッションに興味のない【自由】な人」にとって服装を選ぶというのは「不自由に遭遇」してしまったときに余儀なくされる「撤退戦」なのだ。
「戦果」よりも、いかに「ダメージを軽減するか」が大事。
その先に「勝ち」はなく、士気も低い戦いで大変だが、服は着ないといけないからなあ。
同胞諸君、健闘を祈る。