『エド・ウッド』を観る。
エド・ウッド。
そう聞くと、マニアックな映画ファンはたいてい静かに、愛をふくんだ苦笑いのようなものを浮かべる。
なにをかくそう彼は
「史上最低の映画監督」
として名を馳せる、知る人ぞ知るカルト映画界伝説の男なのであるから。
そのエドの生涯を追った伝記映画がこの作品。
監督は怪獣とB級SFやホラーをこよなく愛するスーパーオタク野郎ティム・バートン。
このエド・ウッドという人のなにがスゴイといって、とにかく撮る映画撮る映画すべてが超絶的にスットコなのが素敵だ。
レベル的には、はじめて動画を撮れるカメラを買ってもらった中学生が作った自主フィルムを、さらに10倍くらいひどくした感じ。
やる気と映画への愛は人一倍あるが、その映画人としての才能とセンスの無さは逆方向に一級品。
しかもその内容が、『グレンとグレンダ』のように、
「オレ、女装が趣味やから、服装倒錯者の映画を撮る!」
なんて言って、監督に主演までやってしまうようなもの。
まあ、高校の映画サークルなんかには山ほどいるようなタイプだが、こういう人がハリウッドでメガホンを撮るとひどいことになる。
ただでさえ才能も予算も、いいスタッフも役者もないないづくしなのに、それに加えて、エドの撮影はかなりアバウト。
劇中の描写を借りて説明すると、まずセットが安い。
低予算映画だから仕方がないとはいえ、UFOを出すのに、灰皿を絵の具で銀に塗って、それを糸で釣って釣り竿でフラフラと操演。
アダムスキーかマイヤーという素朴きわまりないやり方だが、いくら吊り線が特撮の魂だとしても、その動かし方なんかが、あまりにも下手っぴいで、見ている方は目をおおいたくなる。
お願いやから、もうちょっと、うまくやってくれえ!
エドのいいかげんな撮影は、技術面だけではない。
墓場のシーンで、じゅうたんに砂を敷き詰めて屋外であることをを表現しているのに、それがめくれあがってセット丸出しになっても、
「観客は、そこまで気にしないよ」
涼しい顔だけど、いや、気にするよ! めっちゃ気になるよ!
さらには、役者が素人なもんだから、セリフがゴニョゴニョとくぐもって聞きづらかったりしても、
「大丈夫、なんとか聞こえるさ」
OKを出す。役者が外に出るとき、うっかりドアにぶつかっても、撮り直しをせず、
「彼はいつもドアにぶつかるという設定なんだ」
サクサク進めようとする。
ああいえばこういう。一休さんか!
もっともムチャクチャなのが、主演であり、その才能と過去の業績に惚れこんでいるヴェラ・ルゴシの代役。
エド・ウッド映画の要である元怪奇映画の大スター、ヴェラ・ルゴシだが、エドが映画人生をかけて作るはずだった『プラン9・フロム・アウター・スペース』の撮影中に死去してしまう。
困ったのはエド。親友といっていいヴェラがいなくなった心痛もさることながら、主演俳優がいなくなってしまった。
ここでエドがとった策は、代役を立てること。
とはいえ、そう簡単にそっくりさんは見つかるわけもない。なんとか
「目だけが似てなくもないかもね」
というマッサージ師(!)を探し出したエドは、「彼で行こう!」と決定する。
「いやいや、これはどう見ても別人や!」
一斉につっこむスタッフ一同だが、ここでエドの取った起死回生のアイデアは、
「画面に出ている間、ずっとマントで顔を隠している」
それ、おかしいだろ!
いくら吸血鬼役でマントをはおっているとはいえ、出ている間中それでずーっと鼻から下を見えないように覆う。
まあ、『死亡遊戯』みたいに映画やドラマの途中で、役者が死んだり役を降りたりして、唐突にキャストが変わって気まずい思いをするというのは、まま起こりうることだ。
それには、
なんの説明もせずしれっと別の役者を出して、
《大人の事情なんだよ、わかるよね。つっこまないでよ》
と観客のやさしさにうったえる。
あるいは、
次のシーンや回からなんの説明もなくその人物が存在を「なかったこと」にされ、
《大人の事情なんだよ、わかるよね。
つっこまないでよ》
と観客のやさしさにうったえる
などといった方法で、なんとか処理をするものだが、そこを
「顔を手で隠して代役にする」
とは、素朴すぎるというか、シンプル・イズ・ザ・ベストも、ここに極まれりであろう。
こうまでやられると、逆につっこむのが野暮に思えてくる。
なんたってエドの口癖が「パーフェクト!」なのだから。
これだけ見ても、そのハチャメチャぶりというか、
「こんなやつに映画撮らすなよ」
つっこみたくなる自由なエドだが、彼の爆走はまだまだこんなものではないのである。
(続く→こちら)