前回(→こちら)の続き。
1997年のUSオープン準決勝。
パトリック・ラフター相手に2セットダウンという絶体絶命の場面。
そこから次々とスーパーショットを繰り出し、懸命の反撃を見せるマイケル・チャン。
特にラフターの絶妙のロビングを、ベースライン上で追いつき、そのまま体を強引にツイストさせて打った背面グラウンドスマッシュ。
この見たこともないミラクルプレーを見せたところでは、チャン本人や観客、さらにはそれを食らったラフターすらが、
「これで流れが変わる」
と確信したほどの、ものすごい執念を感じさせたものだった。
だが、結論からいうと、流れは変わらなかった。
次のポイントからも、ラフターはいつも通り淡々とネットプレーでポイントを重ねていく。
そこには、まるで先の超人的なスマッシュなど存在しなかったかのような、静けささえただよっていた。
おそろしいほどともいえる、ラフターの落ち着きであった。
彼は動ずることなく、ペースを変えないことによってすべての嵐を「なかったこと」にしてしまったのだ。
私は全身の力が抜けるのがわかった。
負けた、この試合は負けだ。
今のテニスを100%出し切っても、チャンは勝てないだろう。
格下だからと、決して油断したわけではない。
こと今日に限っては、ラフターは完全にチャンよりも強い。実力で上回っている。
そのことが痛いほど理解できた。
そのことを受け入れると、もう逆転を願って応援しようという気力は残っていなかった。
おそらくは、チャンも自らの敗北を自覚しただろう。
だが、コートに立っている彼は投げるわけにはいかない。
いかな絶望の淵に立たされようと、ゲームセットまでは走らなければならない。たとえ勝ち目はなくても。
USオープンの準決勝、栄冠まであと2つ、残っている連中は「普通にやれば勝てる」選手ばかりのはずだった。
そのことを思い返せば、あきらめるに、あきらめきれまい。
受け入れられない敗北に目の前がまっ暗になりながらも、チャンはあきらめずにボールを追った、食らいつき続けた。
絶望と焦燥の汗にまみれたその表情と目は、何度も何度もこう言っていた、
「なぜだ、なぜこのオレがピートもアンドレもいない大会で、決勝にも残れず、こんなところで消えなくちゃならないんだ……」
試合はストレートでラフターが勝利を収めた。
6-3・6-3・6-4のスコアで、初の四大大会決勝進出。
その決勝でも、グレッグ・ルゼドスキーを破って優勝。
翌年も、同僚のマーク・フィリポーシスを退けて大会2連覇を達成。世界1位にも輝くこことなる。
チャンは敗れた。優勝確実からの落胆。それはあまりにも残酷な結果だった。
スタンドで観戦していた、兄でコーチでもあるカール・チャンは、試合終了後も選手が立ち去ったコートをじっと見つめて動かなかったそうである。
観客が去り、照明が落ち、暗闇の中一人残されても、それでもずっと、いつまでも、いつまでも。
こうして、テニスの神様が与えてくれた最後のチャンスは、ここについえた。
この敗戦がきっかけというわけでもなかろうが、チャンはその後グランドスラム大会で上位に進出することはなくなり、2003年に引退した。
スポーツの世界では、
「あの選手に、一度はあのタイトルを取らせてあげたかった」
といわれる選手というのがいる。
たとえば野球なら、8度ペナントを制しながら結局一度も日本一になれなかった西本幸雄監督。
サッカーなら3度決勝に進出しながら、いまだワールドカップ優勝に手が届かないオランダ代表。
あの英雄ビヨン・ボルグも、ウィンブルドンで5回、フレンチ・オープンで6回も頂点に立ちながら、USオープンだけはどうしても取れず、
「どうして、ニューヨークで勝てないんだ」
と泣いた。
そういった選手たちの話をすると、やはりマイケル・チャンの名前も欠かせなくなる。
テニスファンならだれでもが、きっと彼に
「もうひとつくらいは、グランドスラムのタイトルを取らせてあげたかった」
と思っていたに違いない。
同時に、一回くらいはナンバーワンにと。
それがわずか1、2週程度のものでも良かった。
彼の才能と努力と不屈の闘志を見てみれば、それくらいのごほうびはあげたって、テニスの神さまからしても、バチは当たらなかったんじゃないのだろうか。
96年、97年シーズンのマイケルは、それにふさわしいテニスをしていたと、私は確信している。
■チャンとラフターの一戦の映像は【→こちら】