『月の部屋で会いましょう』は、へんちくりんで楽しい一冊だ。
著者のレイ・ヴクサヴィッチは、アメリカはオレゴン州出身の作家。
その多くは、数ページ程度でおさまっている短編というか掌編で、内容的にはSFというかファンタジーというか、シュールというか、とにかく不思議な触感。
ストーリーだけ取り出してみても、開口一番の『僕らが天王星に着くころ』から、こんな話。
主人公はジャックとモリーという夫婦だが、彼らが住む世界ではある病気が蔓延している。
それは、体が足元から徐々に「宇宙服」になり、ついには宇宙に飛んで行ってしまうという奇病。
運悪く罹患し、空へと舞い上がるモリーをなんとか引きとめようと、夫のジャックは奮闘するが……。
いきなりこれだ。
「宇宙服」という奇病。なんやそれは! カフカの『変身』かいな。
『セーター』では、恋人が贈ってくれたセーターを着ようとしたら、少しばかりサイズが合ってなくて、首が抜けなくて困ることに。
なんとか脱ごうと悪戦苦闘するうちに、主人公はセーターの中で迷子になって、そこからRPGでダンジョンをめぐるような「冒険」が始まるとか、もう奇想妄想のワンツーパンチ。
『母さんの小さな友だち』では、人類の健康と長寿のために体内に住まわせたナノヒューマンが、その意図通りでなく自らの繁栄のため、
「危険な活動に従事しないように、わざと老化させ、のんびりした生活をさせる」
よう宿主を改造しはじめる。
つまり、
「じっとしてたら母体がケガをしないから、寄生している自分たちの安全度が上がる」
という《論理的理由》から、まだ若い体を勝手に、高齢者のごとく「不便」にしてしまうのだ。
元の快活な母親に戻ってほしい宿主の子供たちは、ナノヒューマンたちを「脅迫」して手を引かせるため奮闘する。
老婆と化した母を、何度もバンジージャンプで危険な目に合わせるなど、過激な手法を取るけど、それって逆にどうなのといった、エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』のスラップスティック版のようなものとか、もうページを繰るだけで、頭はクラクラ。
一番ひっくり返ったのが、『彗星なし』(原題『ノー・コメット』)。
ティムはある日、妻と子供に紙袋を被ることを強要する。
いぶかしがる家族だが、そこにはあるねらいがあった。
なんと今日は地球に彗星が衝突するという、おそろしい一日だったのだ!
このままでは人類滅亡だが、破滅を前にティムは
「量子力学のコペンハーゲン解釈」
で立ち向かうことにする。
いわゆる「シュレディンガーの猫」で有名なこの理論によると、
「見ていないもの、というのは存在しない」
ということになるから、目隠しして彗星を見なければ、それは「存在しない」ことになる。
存在しないなら当然、衝突もしないわけで、よって地球は守られることになるのだ!
……て、どんな話や!
なにかこう、天下の将軍を詭弁でけむに巻いた小坊主みたいというか、まさに「地球滅亡とんち合戦」といったところ。
こんなふうな、まあホント、ようこんなん考えつくというか、
「考えついてもよう書かんで」
みたいな物語が目白押し。田中啓文か。
じゃあ、これがバカバカしいのかといえば、そういうのもあり、ちょっと切ないものもあり、残酷なものや愛を語るもの。
またユーモアもあって、あるいはホラーやミステリっぽいなどなど、えらいことバラエティーにも富んでいる。
ハッキリいって変な本だから、若干人を選ぶかもしれない。
解説の渡邊利道さんがおっしゃるように、フリオ・コルタサルやイタロ・カルヴィーノといった作家を想起させるので、この手の作品が好きな人にはおススメかも。
そういや、私もコルタサル大好きだし。
こうした、読んでクラクラ、不思議でありながら、ゾッとしたり、コケそうになったり、ときにはホロっとさせられたり、とにかく飽きさせない内容。
目を回しながら、堪能していただきたい一冊。おススメです。