違う時代に生きた四人の先祖の生きざまを通じて、「自らは誰であるか?」と問いかけた「花ざかりの森」(→§81)
「鏡子の家」に集う同じ時代に生きる四人の青年の生きざまを通じて、「では、どう生きるのか?」と問いかけているような気がします。
「自らは誰であるか?」を解く鍵は、自らの成長や発達過程において、自らの在るべき姿を追求することなのかもしれません。そしてその心理的状態を《自我》と呼んでいるような気がします。
鏡子の家に集う四人はそれぞれに俳優、プロボクサー、画家、官僚といったそれぞれの完成した《自我》をもっているものの、何らかの「壁」を意識しているところから始まります。
俳優は、「壁」を鏡にしてみせると語り、プロボクサーは、「壁」を叩き壊してみせると語り、画家は、「壁」を描いてみせると語り、官僚は、「壁」そのものになってみせると語り、それらの「壁」が何であるか?を認識できていません。
自らの在るべき姿が完成したと思いきや、自らの課せられた役割を果たせない時の心理的状態が《不条理》なのかもしれません。(→§85「憂國」 三島由紀夫, 1961.)
言い換えると完成は崩壊の始まり。その崩壊を免れるには美意識に彩られた死を選択し、自由を獲得するのか?判断を放棄した盲信を選択し自由も放棄するのか?支配されることを選択し自由から逃走するのか?
「自らは誰であるか?」という問いかけに続く、「ではどう生きるのか?」という問いかけを示唆しているのかもしれません。
初稿 2018/05/06
校正 2020/10/12
写真 小林一三記念館
撮影 2018/05/02(大阪・池田)
「鏡子の家」に集う同じ時代に生きる四人の青年の生きざまを通じて、「では、どう生きるのか?」と問いかけているような気がします。
「自らは誰であるか?」を解く鍵は、自らの成長や発達過程において、自らの在るべき姿を追求することなのかもしれません。そしてその心理的状態を《自我》と呼んでいるような気がします。
鏡子の家に集う四人はそれぞれに俳優、プロボクサー、画家、官僚といったそれぞれの完成した《自我》をもっているものの、何らかの「壁」を意識しているところから始まります。
俳優は、「壁」を鏡にしてみせると語り、プロボクサーは、「壁」を叩き壊してみせると語り、画家は、「壁」を描いてみせると語り、官僚は、「壁」そのものになってみせると語り、それらの「壁」が何であるか?を認識できていません。
自らの在るべき姿が完成したと思いきや、自らの課せられた役割を果たせない時の心理的状態が《不条理》なのかもしれません。(→§85「憂國」 三島由紀夫, 1961.)
言い換えると完成は崩壊の始まり。その崩壊を免れるには美意識に彩られた死を選択し、自由を獲得するのか?判断を放棄した盲信を選択し自由も放棄するのか?支配されることを選択し自由から逃走するのか?
「自らは誰であるか?」という問いかけに続く、「ではどう生きるのか?」という問いかけを示唆しているのかもしれません。
初稿 2018/05/06
校正 2020/10/12
写真 小林一三記念館
撮影 2018/05/02(大阪・池田)