Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§87「豊穣の海(一)春の雪」 三島由紀夫, 1969.

2018-05-30 | Book Reviews
 生まれながらにして特権階級が約束された侯爵令息・清顕と伯爵令嬢・聡子。幼き頃より何不自由なく優雅に暮らす二人が無意識に紡いできた想いと裏腹に、断る事も出来た筈の宮家との婚姻の勅許。

 この期に及びて、二人がそれぞれに「自らは誰であるか?」と問うこともなく、「自らは斯く在りたい」とも考えることなかりせば、偽らざる想いを認識した彼と逢ってはならぬ覚悟を意識した彼女の不条理な縁のみが実在してしまいます。

 〈不条理〉とは、自らが現実に存在しているにも関わらず、自らの存在理由や存在意義を認識できない心理的状態なのかもしれません。

 「豊穣の海」とは、月面に現実に存在するクレーターの名称。月が満ちたときに目を凝らせばそこに宿るかのような海は不条理な存在であり、「春の雪」もまた、降る間もなく瞬く間に消えてしまう不条理な存在としての暗喩のような気がします。

初稿 2018/05/30
校正 2020/10/11
写真 御室の桜
撮影 2017/04/08(京都・仁和寺)