織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将 山内一豊は妻 千代の内助の功が引き立てられがちですが、彼の功名の所以は槍先の誉れだけではなかったと思います。
随所に主となれば立つところ皆、真なりに他ならず、自らの資質や能力を信じること、自らの将来に期待を賭けること、自らは振向かず駆け抜けることを徹底したことに尽きるような気がします。
とはいえ、土佐二十四万石は自らの力のみで得ていない以上、随所に主とはなりがたく、もはや徳川家には従わざるを得なかったと思います。
自らは期待された資質や能力を発揮すること、自らの将来は期待された資質や能力を継承すること、自らが立ち止まり期待に応えたかどうか振り返ることを徹底せざるを得なくなった時こそが、功名の別れ道なのかもしれません。
初稿 2017/01/03
校正 2020/11/30
写真 追手門から望む天守
撮影 2011/05/17(高知・高知城)
随所に主となれば立つところ皆、真なりに他ならず、自らの資質や能力を信じること、自らの将来に期待を賭けること、自らは振向かず駆け抜けることを徹底したことに尽きるような気がします。
とはいえ、土佐二十四万石は自らの力のみで得ていない以上、随所に主とはなりがたく、もはや徳川家には従わざるを得なかったと思います。
自らは期待された資質や能力を発揮すること、自らの将来は期待された資質や能力を継承すること、自らが立ち止まり期待に応えたかどうか振り返ることを徹底せざるを得なくなった時こそが、功名の別れ道なのかもしれません。
初稿 2017/01/03
校正 2020/11/30
写真 追手門から望む天守
撮影 2011/05/17(高知・高知城)
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