大雲院は、京都市東山区にある寺院で、通常は非公開。
ねねの道から円山公園に行く途中にあります。
1587年(天正15年)、正親町天皇の命により、貞安が織田信忠の菩提を弔うため、信忠が討たれた二条御所跡に創建したのに始まり、その後、秀吉の政策により寺町四条(下京区)に移転。
その後、1972年(昭和47年)に、島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して現在地に移転。
境内墓地には織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。
五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によるのだそう。
また、大雲院という寺院名は、信忠の法名からとっているそうです。
以下、豊臣秀次の供養塔について、京都新聞の記事から抜粋です。
京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、豊臣秀吉の甥(おい)、豊臣秀次(1568~1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。調査地は、安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。
調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、高さ16センチ。鞍馬産の石に「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」の文字が刻まれていた。「道意」は秀次の高野山に入った際の法号で、年号と月日は秀次が切腹した日だった。
現在、大雲院は祇園にあるが、元来は織田信長の子、信忠が「本能寺の変」の際に自害した二条御所跡に建立された。その後、秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、秀次との関係が考えられていた。(2014年8月22日)
記事全文はコチラ
↓↓↓
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140821000106
本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえています。
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1587年(天正15年)、正親町天皇の命により、貞安が織田信忠の菩提を弔うため、信忠が討たれた二条御所跡に創建したのに始まり、その後、秀吉の政策により寺町四条(下京区)に移転。
その後、1972年(昭和47年)に、島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して現在地に移転。
境内墓地には織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。
五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によるのだそう。
また、大雲院という寺院名は、信忠の法名からとっているそうです。
以下、豊臣秀次の供養塔について、京都新聞の記事から抜粋です。
京都市下京区の河原町通四条下ルの発掘調査で、豊臣秀吉の甥(おい)、豊臣秀次(1568~1595年)の供養塔の一部が21日までに見つかった。調査地は、安土桃山時代に寺院「大雲院」が移された場所にあたり、非業の最期を遂げた関白・秀次と大雲院の関連を示す物証となりそうだ。
調査した民間発掘調査会社のイビソク関西支店(伏見区)が発表した。見つかったのは五輪塔下の基礎部分で幅23センチ、高さ16センチ。鞍馬産の石に「文禄四年/禅昌院殿龍叟道意大居士/七月十五日」の文字が刻まれていた。「道意」は秀次の高野山に入った際の法号で、年号と月日は秀次が切腹した日だった。
現在、大雲院は祇園にあるが、元来は織田信長の子、信忠が「本能寺の変」の際に自害した二条御所跡に建立された。その後、秀吉の寺町整備で今回の調査地に移された。大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献があり、秀次との関係が考えられていた。(2014年8月22日)
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本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえています。
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桜が綺麗ですね。
五右衛門の墓があるとは・・・
>境内墓地には織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。
ありがとうございました。
その時は見学しに行きたいですね。