ライオンの詩 ~sing's word & diary 2

~永遠に生きるつもりで僕は生きる~by sing 1.26.2012

山伏、現る現る。

2010-04-22 19:28:55 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記


桜並木の道をくねくねと下っていく。那智の御神体への道。いよいよ那智の神様に逢える。
飛瀧神社。鳥居をくぐって、階段を下りる。高く生い茂る杉の木の合間、豪快な音、滝が見えてくる。





落差133メートル、滝幅13メートル、滝壺の深さ10メートル。日光の華厳の滝、茨城の袋田の滝と共に日本三大瀑布の一つ。那智の大滝。

高い。強い。壮大だ。大迫力だ。そして、美しい。
滝に対する自然崇拝の聖地。否が応でも、手を合わせたくなる。



滝見台に上がるには入場料が必要だ。200円。滝見台と言っても、4、5メートルしか高くないので、入場しても入場しなくても、見える滝の姿はほとんど変わらない。でも入場料を払うと、「那智御瀧飛瀧神社延命御守」がもらえる。ちょっと嬉しい。
延命長寿の水があり、「一口飲むと何年」といったものだろうか?・・・せっかくだから、手のひらに掬って三口くらい飲んでおく。



那智には四十八の滝があり、その昔、多くの修験者たちが滝行を行った。花山法皇は二の滝の断崖上に庵を設けて、千日間滝籠行をしたらしい。千日ったら・・・三年近く・・・。断崖上に庵を設けてって・・・あんまり意味がわかんないけど、すごいんだろうな・・・きっと。千日、籠るってだけですごいもんな。千日テレビだけを観て過ごす・・・無理だな。夏も冬もだもんな・・・無理だ。海に行きたい!とか、バイクに乗りたい!とか・・・想っちゃうもんな。
その花山法皇の滝籠行のおかげで、ここの水が延命長寿の水になったらしい。

明治政府が出した神仏分離令、それとともに修験道禁止令が発布された。これによって、神仏集合的な信仰が失われてしまい、以降熊野古道周辺の神社の数は激減、熊野詣での風習もほとんどなくなってしまったということだ。


もしも、神仏分離が行われていなかったら・・・
今でも山の中で修行をする修験者がたくさんいて、山道でばったり山伏に出くわす・・・なんてことがちょくちょくあったのかもしれないな。政治や企業経営にも陰陽道が使われたりしてね。・・・今とは違う国になっていたのかもな。。。惜しいなぁ。

シングの・・・ちょっと歴史探訪はいかが?の時間

2010-04-22 08:07:42 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、二回言った。



日本では、神様と仏様ってのはとても仲良しなのだ。だったのだ。
仏教という宗教が日本に伝わって来て、それが日本国内に広まった。その時に、まぁ、なんと言うのか・・・かなりぐちゃぐちゃになったんだね。

遥か昔の日本人は、こう考えていた。世の中には数知れない霊魂がある。人間一人に一個の霊魂。動物や植物にも霊魂がある。道具にも霊魂が宿る。空気中にも数えきれない霊魂がある。雨が降ったり風が吹いたりするのは、かれらの働きによるものである。古代の人たちは、様々な霊魂の力で自分が生かされていると感じ、多くのものを神様として祀った。これが、いわゆる精霊崇拝というもの。世界中のあらゆる民族が、かつては精霊崇拝の形をとっていたといわれている。
その後、大和朝廷や豪族たちの思惑や画策が色々とあって、神様の呼び名や形が変わったにせよ、精霊崇拝の基本は崩れぬまま、日本人は仏教の伝来を迎えたのだと想う。
仏教は瞬く間に広まったのだろう。だがしかし、日本人が神社を捨てて仏教に走った訳ではない。ここがポイント。なぜ、仏教を受け入れつつ、神道が残ったのか。精霊崇拝をやめずに、どうやって仏教を受け入れることが出来たのか。ここがポイント。
僕が想うに、それは二つの宗教がともに「優しい宗教」だったからじゃないか?想うに、優しい宗教と優しい宗教の出逢いだったからじゃないか?

民族の特色というものは、文化の至る所に出るものだが・・・神社と仏教、これは分かり易い。日本人は、この二つを合わせてしまったのだ。
例えば、奈良時代には伊勢神宮、鹿島神宮、賀茂神社の境内にお寺が建てられた。宇佐八幡宮の御神体は菩薩の形をしている。興福寺は春日大社を守護神とし、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を守り神とし、延暦寺は日吉大社、東寺は伏見稲荷大社をそれぞれ守護神に持つ。神社側も寺院側も、互いに歩み寄っている。
それは庶民がそう望んだからなのではないか?と想うのである。

「まぁまぁ、ケンカするなよ。オレたち、両方とも好きなんだからさ。うん、同じ場所に両方あったら便利だよね」的なね。まぁ、宗教観的には、グダグダな感じ。

こんな流れを、「神仏習合」と呼んだりするわけだ。


時は進み、明治維新からワールドウォーツーの時代。政府は「国家神道」を元にする宗教統制を行う。神道の前に「国家」を付けるだけで、まったくの別物になってしまう。キリスト原理主義やイスラム原理主義・・・の「原理」と同じ感覚なのかもね。何かを付け加えると、「優しいもの」が優しくなくなってしまう。
細かい趣旨や歴史はさておき、ここで明治政府が行った政策が「神仏分離」なのである。長い歴史の中で合わさった神仏習合の「慣習」はここで禁止されてしまった。そして・・・今にいたる。

話を「青岸渡寺」に戻そう。
かつては熊野三山の他の二つ、速玉大社と熊野本宮大社にも仏堂があった。それが神仏分離によりすべて壊された。ここ那智山において、那智大社の如意輪堂は破壊を免れた。後に、信者の手によって復興されたのが、青岸渡寺なのである。三重塔越しに見える那智の滝は壮麗だ。

つまり、何が言いたいのか・・・だよね。

そもそも、この二つの建物を隔てる「壁」は必要無いってことだよ。法令により、仕方なく造られた壁。千年以上もの間、共存してきた神社と寺院。これが民族の「願い」の真実だとするならば、この「壁」が持つ意味、この「壁」がある意味ってなんだ?ってことなんだよ。

まぁ、ぶっちゃけて言っちゃうと、その「壁」があろうとなかろうと、民族に流れる血の「根本」が、変わるわけでは無いんだけどね。そう、「壁」なんてあってもなくても関係ない。そう、それは、もはや、「隔ての壁」じゃない。・・・ただの塀だ。


話ついでにもう一つ。

厄よけってどこでやる?・・・普通は神社だよ。でも、厄除大師は?あれはお寺だ。
そこで、テレビのレポーターが、佐野厄除大師のお坊さんに聞きにいった。

「厄除って、神社とお寺、どっちでやったらいいんですか?」って。

お坊さんはこう答えた。

「どっちでもいいんです」



ねっ、これはすごいことなんだよ。これが民族の慣習ってやつだよ。日本人が誇るべき、宗教観ってやつなんだよ。
うん、ビバ、ニッポンジンって感じなんだよ。


那智大社の奥にある門を出ると、そこにあるのが「青岸渡寺」。神社のすぐ隣にお寺がある。神社のすぐ隣にお寺がある。うん、また二回言った。すごく仲が良さそうに、神社とお寺が並んでる。


熊野の由来

2010-04-21 06:22:30 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
クマとは「奥まった処」「隠れたる処」の意味があり、そこは「上座」であり「聖」なる地と位置づけられる。
「クマ」と「カミ」は同じ意味があり、「クマノ」は「カミの野」で神々の住む場所。そんな意味になる。

神倭伊波礼毘古命(かみやまといわれびこ)は、九州からこの地に上陸し、神の使い「八咫烏』(やたがらす)の案内で大和の地(宇陀)に着き、神武天皇となる。その時に那智の瀧を大己貴命の御霊代として祀られたのが那智山信仰の起こり。約1860年前に、仁徳天皇がこの地に社殿を建立したと伝えられている。

わかりやすく言うと、神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸した時、那智の山に光が輝くのをみて、大瀧をさぐり当て、その瀧を神とし祀り、その御守護のもとに、八咫烏の導きによって無事大和へ入ることが出来た。という話。

これは古事記や日本書紀に出て来る話。伝説として扱われることが多い話だが、あながちそうでもないという説・・・つまり、九州で起こった大和朝廷が東に上って来る時の話を、神話調にまとめたのではないか?とも考えられているらしい。


日本の初代天皇「神武天皇」が、神として祀った瀧、何千年前からずっと、滝自体が神様であると信じられている場所。
それが、南紀勝浦、那智山の奥深くにある那智大社と那智の大滝。



まずは那智大社へ向かう。参道は五百段近い階段。桜を見ながらのんびりと登る。大きな鳥居が現れる。そしてまた階段。
参道の途中には、かつて上皇たちが熊野詣での際の宿として使った建物もあったりする。







息を切らしながら、最後の大鳥居をくぐる。息を切らすのが好きなわけではないが、息を切らした分、ありがたみが湧いて来る・・・朱塗りのこじんまりとした神社、那智大社に到着。

樹齢850年の大楠。平重盛が熊野詣での際に手植したと伝えられている。大人七人が手を回しても抱えきれないほどの太さの大木。
諸行無常の平家物語。ほんの一瞬しか現世を謳歌できずに滅んだ、平家一門の魂が込められているとかいないとか・・・。



幹の根元には人が入れる洞がある。500円払えば入れる。いい事があるようだ。500円分の願い事が思いつかなかったので、やめておいた。



この神社の御神体は「大瀧」。つまり、ある意味、この神社自体も参道のようなものなのかもしれない。そんなことを想いながら、門を出るのであった。

天空の城発見しました!

2010-04-16 19:43:03 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
速玉大社に向かう途中、名物さんま寿司を探してパーク七里御浜に寄った。若干閑古鳥の鳴き声がピヨピヨと聞こえるモール型観光センター。定休日なのか潰れちゃったのかは分からないが、大きい方のレストランは閉まっていた。
小さい食堂のカウンターに並んでいたパックのさんま寿司をゲット。酢で締めたさんまの押し寿司。あっという間に平らげた。さんま寿司、美味しい。美味美味。パックでも美味美味。



紀州といえば、愛媛と並ぶみかんの産地。でしょ?・・・デザートはみかんソフトクリームをペロリ。これも美味しい。
最近、みかんが大好きで、直売店に並ぶみかんを物色してみるが、今はみかんの季節じゃない。並ぶのはデコポンやイヨカンといった大粒のものばかり。安いは安い、美味しいは美味しいのだが、大量過ぎるので断念。一人でデコポン10個は食べられないよ。



新宮地方名物、もう一つある。「めはり寿司」。目を見張るほど大きいということから名が付いた、めはり寿司。
速玉大社を出たあとで、晩ご飯用にめはり寿司もゲットしておこうと想い、新宮市内にある「めはりや」を探す。細い路地を通って「めはりや」にたどり着くも本日はお休み。「支店は営業中」と書いてあったので、地図を見て行くも、支店も休業中。あったまきた。

めはり寿司は一旦あきらめ、新宮市街を少し進むと標識に・・・「浮き島の森」・・・。ちょっと気になる、

国の天然記念物。風が吹くと移動する島。島が浮いてる?・・・ワオ。もう頭の中はプチパニック。勝手に想像がどんどん膨らんでいく。もう天空の城ラピュタである。さもなくば、ハウルの動く城・・・森が海の上を動いてる。ワオワオ。わぁ・・・浮き島の森・・・どんなだろう?あれか?ワンピースの空島みたいな感じかな?はたまた、恩田陸のオデュッセイアに出て来る「ココロコ」みたいな感じかな?あぁぁワクワクが止まらないよぉ。標識に従ってバイクは進む。なんで、そんなスーパーワクワク不思議スポットが、世間を騒がしていないんだろう?不思議だな。待ってろよ、ラピュタ!
標識は意外にも細い路地を指し、それに沿ってバイクは進む。あれ?海の方角じゃないな。。。あれ、でかいイオンとかあるけど。。。あれ?あれ?
「浮き島の森」・・・あれ?あれ?着いちゃった。あれ?あれ?天空の城はどこ?

小さな沼地に荒れた森。入場料は100円。受付にいる元気のいいおじさんに聞いてみる。島、動くんですか?おじさんが元気よく答える。「今はもう動かないね!」。あれ?
おじさんが言うことには、昔は台風の時なんかに結構動いて、森の枝が民家の窓に当って壊したりしていたらしい。
100円払って森に入る。遊歩道を通って森を一周。もちろん、テンションはがた落ちのまま。。。5分で歩き終わる森を歩きながら、ティファールの湯沸かし器並みのハイスピードで、勝手に想像を膨らまし過ぎた自分を責めるのであった。



想像と現実のギャップを埋めることは決して出来はしないが、市街地に昔からある自然を残すという意味では、憩いの場という意味では・・・良い良い良い。

あぁ、また寄り道しちゃったよ。

しかし、あれだね。「浮き島の森」と聞いて、「天空の城」や「空島」と繋げちゃう想像力って・・・なんなんだろうね。・・・リアルに反省。そして、ビバ想像力。
みんなも絶対行った方がいいよ。浮き島の森。ホントホントホント。


修験者への道は遠すぎる・・・

2010-04-16 05:09:15 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
新宮市。新宮という名前が街中にあふれている。不思議な気分だ。なんだか・・・誰かに話しかけたくなる。いや、自分の名前を書きたくなる。

「じゃぁ、こちらにお名前を書いてください」
「はい、書きました」
「えっ?新宮さんとおっしゃるんですか?」
「はい、そうです」満面の笑顔。
「あらぁ、ビックリ!」的な。的な。的な。

国道42号、熊野川に架かる橋を越えると、もうそこは速玉大社の入り口。熊野三山巡りの始まりだ。



参道を歩いて行くと、境内にある樹齢千年のナギが出迎えてくれる。「全国熊野神社総本宮」と書いたのぼりが立っている。そう、ここは全国に三千ある熊野神社の総本社である。



しっとりとした空気の中に、朱塗りの社殿。・・・あぁ、神社という感じ。

熊野御幸という言葉をご存知か?そもそも熊野参詣とはなんぞや?・・・よし、説明しよう。もちろん、受け売りで。

その昔、熊野の山中に住む、狩人や木こりをして生活をする人々が、山にある巨木の精霊を祭ったのが熊野信仰の起こり。これは古代の自然崇拝。
平安時代の半ば頃になると、熊野信仰は山岳仏教と結びつく。「寺の中での修行なんて甘っちょろいぜ、俺はもっと苦行がしたい、そう思わないか諸君!」と言ったか言わないか、修行好きの僧侶たちが、奥深い熊野の山で修行するようになったのである。どのくらい辛い修行かと言うと・・・真冬の平日ポスカの十五倍くらい辛い修行である・・・多分。

やがて彼らは難行苦行の末、半分僧侶で半分俗人である修験者になっていく。修験者は強い呪力を持つとされたため、皇室が彼らの力を借りて国内の争乱を鎮めようとした。そのために、平安末の有力者で院政によって国政を動かしたお偉方、例えば後白川上皇の三十三回を筆頭に、後鳥羽上皇の二十九回など、歴史的にみてもそうそうたる面々が幾度も熊野詣でを行った。西暦907年から1303年までの396年間に上皇、女院、親王を合わせて二十三方、百四十一回に及ぶ皇室の参詣があり、この皇室の参詣を熊野御幸と呼ぶのである。
室町時代以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになる。その様子は、蟻の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われた。



想像してみよう。時の絶対権力者が、京都から「徒歩」で来るのである。想像してみよう。鳩山首相が、国会を放ったらかしにして、「俺、熊野に行ってくるわ」と言い、大勢の家来を連れて一ヶ月も国を留守にするのである。・・・鳩山首相がいなくても別に?って感じ?ううーん・・・じゃあ、麻生太郎!・・・関係ないか。うーん・・・じゃあ島田紳介!テレビいっぱい出てるし。みのもんた!東方神起!イ・ビョンホン!・・・うーん・・・いてくれないと困る人・・・うーん、あっ、オバマ!オバマ!オバマ!あと、ヒラリー!ヒラリー!ヒラリー!

オバマとヒラリーの熊野詣で、「疲れたからリムジンに乗っちゃう?」とかは無しなのである。CHANGE禁止なのである。
身を清めるのに数日、食べ物や言葉遣いにも細かい決まりがある。偉い人だからって特別扱いはされない。だって、楽をしたらご利益が減ってしまうのだから。
京都を出発してから山岳地帯を通り、熊野三山を巡り、同じ道を辿って帰京するまで一ヶ月近くの難行苦行。・・・うん、半端ない。スケジューリングの難しさ・・・半端ない。国政や周囲の人への影響も・・・半端ない。

その御幸が目指した三山の一つが、この速玉大社。大神はイザナギノミコト。

本殿の敷地の隅っこに新宮神社がある。そこにもお参り。「新宮が来ましたよ」と報告。



さぁ、次へ向かおう。二つ目は那智大社と那智の滝。昔の人は徒歩だけど、僕はバイクだ。那智勝浦新宮道路を使って、那智山へと上って行く。


新宮 in 新宮

2010-04-15 23:25:08 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
七里御浜沿いに国道42号をいく。新宮市に入る。熊野三山の一つ神倉神社から熊野速玉大社に神を迎えて以来、周囲を新宮と呼ぶようになった。

ご存知の方もいると想うが、僕の苗字は新宮。「随分と高貴な苗字だね」と、良く言われる(笑)。「実家は神社か何かなの?」とも、良く言われる。皇室に子供が出来ると、「新宮家」(しんみやけ)と呼ばれる。

14世紀の初め、時は鎌倉時代。後醍醐天皇が即位する。後醍醐天皇は、あらかじめ決められている自分の処遇に不満を抱き、鎌倉幕府を討とうと色々と画策する。何度失敗しても懲りずに画策し、ついに捕らえられ謀反人にされてしまう。刑罰は隠岐の島への流罪。なんとか隠岐の島から脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏や新田義貞らの助けを借り、鎌倉幕府を滅ばす。
その後、皇位に戻った後醍醐天皇、世紀の我が侭天皇の本領発揮。皇室の決まり事も無視、父親との約束も全部反古にして、「俺が一番だぜ!」宣言を表明。自分に味方した武士に恩賞を渋り、法令を決めてはすぐに変え、大増税をしての宮廷建設計画、非現実的な経済政策。貴族・大寺社から武士に至るまでの既得権侵害。まるでマリーアントワネットのような奔放振りだったとか・・・。結局、多方面から無能さを批判され、権威は地に堕ちていく。
後醍醐天皇は味方の公家や武将たちからも愛想を尽かされ、大変なことになる。味方だった足利軍に追われて逃げ回り、和睦の要請に応じて皇位継承者の証明「三種の神器」を相手方に渡してしまう。足利尊氏は新天皇を擁立し、室町幕府を開設。が、後醍醐天皇、まだ終わらない。幽閉先のお寺からまんまと脱け出し、「渡した神器は偽物である、はははぁ」と宣い、奈良県吉野に新しい朝廷を開いてしまったのである。これが京都朝廷と吉野朝廷が並立する南北朝時代の始まり。恐るべき「稀代の自分自分天皇」「俺が一番じゃなきゃ嫌だ天皇」・・・それが後醍醐天皇。

今の皇室は後醍醐天皇が立てた南朝の系譜だ。それはいいとして、かの徳川光圀は「大日本史」にこう書いている。「後醍醐天皇は不徳の君」。ダメダメ天皇ってことだね。ローマ皇帝暴君ネロのような扱いじゃないか・・・。


僕の苗字「新宮」は隠岐の島の出身だ。そう、隠岐の島に流されて暇を持て余した理不尽天皇の不徳の致す所・・・と、ちょっとした優しさ。
そう、いつか話した「はぐれ皇族純情派」。そういう感じの事情です。かなりの確率で。

そうか・・・愛すべきわがままの血は・・・そういうところからか・・・。

Do you understand? Don't say, so what?

僕たちの神様~街角から街角に神がいる

2010-04-15 08:20:22 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
最高神である天照大神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと~以下イザナギ)の子神にあたる。
伊弉諾尊は妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと~以下イザナミ)とともに、日本列島を構成する島々を生んだ。イザナミは火の神、迦具土神(かぐつちのかみ~以下カグツチ)を生んだ時の火傷のために亡くなった。イザナギはカグツチを殺す。

イザナギは、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉の国まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗し、ウジにたかられ、雷(いかづち)に囲まれたイザナミの姿。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。

辱めを受けたと怒り、イザナギを追いかけるイザナミ、逃げるイザナギ。
修羅場だ。これは修羅場だ。想像を絶する。かなり恐い。相当恐いが・・・逢いたくて逢いに行ったのに、腐敗してるくらい何だ。うじがわいているくらい何だ。雷に囲まれているくらいなんだ。イザナギ、どうして抱きしめてやらない。と、想わないでもない。

色々あって、イザナギは黄泉の国と地上の境の地上側出口を大岩で塞ぎ、難を逃れる。その時に岩を挟んで二人が交わした言葉が・・・また恐い。
イザナミが「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」と言うと、「それならば私は、一日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返す。ここで二人は離縁する。

こうして、生きている人間を守るイザナギと、死者の住む黄泉の国の神となったイザナミは、対立することになる。

その後、イザナギが黄泉の国のケガレを落とすために禊(ミソギ)を行うと様々な神が生まれ、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊等(すさのおのみこと)の三柱の有力な神が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と呼ぶ。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原、夜、海原の統治を委任した。
この時、イザナギはすぐれた子供が出来たことを喜び、天照大神にすべてを託して身を隠したとされる。

【参考~「知っておきたい日本の神様」角川ソフィア文庫(武光誠著)と、WIKIPEDIA】

古事記や日本書紀に記されている日本神話。イザナミが葬られた場所・・・それが日本最古の神社、「花の窟(はなのいわや)」。

今回の旅、ここに来たくて紀伊半島一周を思いついたと言っても過言ではない。太古の日本人の自然崇拝の原点。八百万の神への信仰の原点とも想える場所。神道が出来上がるよりも遥か昔。勿論仏教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもブードゥー教でもない。政治的要素を一切含まない、古代の人が自然を自然のままに受け入れた神様の原点。今も日本人の心の奥に深く根ざす、誇るべき純粋な信仰の原点。そんなものをこの目に焼き付けたくて、ここまで来た。うん、大袈裟だが、それが本心。



ひっそりとした小さな神社の入り口、参道に人はいない。ゆっくりと参道を歩く。
花の窟には社殿は無い。高さ45mの巨巌そのものを御神体としている。太古から巨巌そのものが神様として崇められてきた。



参道を抜けて小さな門をくぐると、木立の合間から御神体が姿を見せる。少し震える。
そのまま進み、巨巌の全貌を目の当たりにする。なんてことのない岩だ・・・ただの巨大な岩だ・・・なのに・・・直下に立つと身が竦むような気がする。



日本神話の信憑性なんてどうでもいい。神話は神話だ、神話でしかない。でも、なんでだろう・・・神話が生まれるずっと前から今日まで、人々が信仰の対象にし続けた理由・・・何かがここに眠っているような気がする。何もないこの場所に、何かが眠っているような気がしてしまう。



イザナミを祭る御神体の前に、生まれた途端にイザナギに殺された火の神カグツチを祭った小さな岩がある。大量の花を供え、熱心に祈る人がいた。信仰って美しいな・・・そう想った。ルールが無ければ、ルールにとらわれないでいいのならば、信仰は美しい。僕はそんな風に想う。

ここに来れて良かった。七里御浜で時間を費やせなかった代わりに、巨巌を見上げながら、しばし座り込み過ごす。あぁ・・・ここに来れて良かった。日本の神様は素敵だ。・・・違う、日本人が信じる神様の存在が素敵なんだ。

花窟神社。祭神はいざなみのみことと、かぐつちのかみ。年に二回、180mの大綱に季節の花を括り付け、花を以て、イザナミとカグツチの魂を祭る。


参道にある苔むした小さな岩に、綱がかけてある。そう、神様は、そこかしこにいる。僕たちの神様は、いたるところにいる。それがとても素敵なことなんだ。


みはま恋し、らいおんの詩

2010-04-15 02:38:45 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
「楯ケ崎」にやってきた。
高さ100m周囲600mの柱状節理の大岩壁~東紀州きっての景勝地



水の色が異様に綺麗だ。上から見下ろす楯ヶ崎は、礼文島で見た「澄海岬」に似ていた。青い海だ。海の底が見える程に透き通った青い海だ。

日本書紀に記された神武天皇東征軍の荒坂津への上陸伝説や千畳敷で楯ヶ崎を望んで伊勢大神と熊野大神が酒盛りをしたという伝説が残る。
平安時代の歌人・増基法師は「神のたたかひたる処」と詠い怒濤衝撃する形成が勇猛なる人の気概を高め、太古神明斗戦の地であることを伝えている。

熊野には逢神坂という峠がある。これは伊勢の神宮と熊野の権現が出会うという意味があるそうだ。伊勢参りと熊野詣で・・・心がにわかにざわめき出す。平安時代から江戸時代まで、車の無い時代・・・権力者、高貴な人々、庶民に至るまで、人々はこの道を、神様に逢うために歩いていたんだな・・・そんなことを感じながら、僕は走る。

「獅子岩」&「七里御浜」。
海に向かって吠えるライオン。高さ25m、国の天然記念物。奥にある大馬神社には狛犬がいない。それは、このライオンが狛犬にたとえられているからだガオ。



全長25キロに渡る七里御浜。当時、熊野詣でに向かうお遍路さんの多くが、荒々しい黒潮にさらわれて命を落としたらしい。熊野川の上流から新宮を経て、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められている。「みはま小石」と呼ばれる色とりどりの小石は、アクセサリーに利用されている。

書きながら想った事がある。・・・ここの小石をお土産にすれば良かった。・・・あぁ、失敗した。
お土産に最適です。みはま小石。次に訪れた時には必ずや持ち帰ります。



少しだけ海岸を歩いた。浜に座って、波の音を、陽が暮れるまで聴いているのもいいと想った。優しく、心地のいい場所だ。でも、走ろうと想った。行きたい場所がある。イザナミノミコトに逢いに行きたい。花の窟(ハナノイワヤ)は、目と鼻の先だ。

海辺に立つ巨木の森

2010-04-14 23:55:22 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
三日目の朝、荷物をバイクにくくり付けた後、地図を見ながら今日の行程を整理してみる。
熊野の名所を周りながら、紀伊半島の南端を目指してみることにする。見所満載だ。ただ走るだけなら、なんてことのない距離ではあるが、僕の場合はそうはいかない。どこまで進めるか、それは進んでみなければ分からない。本当に分からない。

古里キャンプ場に別れを告げて、国道42号~熊野街道を走る。尾鷲を過ぎたところで、42号から国道311へ。海岸線の道。右手に山、左手に海。天気はいい。時間も早い。爽快だ。

前にも書いたが、昭文社のツーリングマップル、これはライダーにとっては珠玉の一冊。バイク向きの道が太線で示されている。遠回りでも、その道を通っておけば間違いない。これは妄信ではない。経験による実感。だから、出来るだけ太線の道を通る。
そして名所や名店情報が、オレンジの字で散りばめられている。これもまた役に立つ。特に、下調べの甘い僕にとっては、ガイドブックの役割さえ果たしてしまう。走っていると見過ごしてしまうマイナーな名所が、しっかりとカバーされている。恐るべし、ツーリングマップル。

☆飛鳥神社~千年以上の歴史を持つ神社。海辺に出現する巨木の森。

こんな洒落た謳い文句に釣られて、飛鳥神社に寄ることにした。ツーリングマップルでチェックしていなければ、確実に通り過ぎてしまったことだろう。



いきなり、鳥居の向こう、参道のど真ん中に杉の巨木が立っている。ワオ。巨木に挨拶をしつつ、脇を抜ける。小さな小さな神社が巨木の隙間に申し訳なさそうに佇んでいる。そうか・・・森の中に神社があるわけじゃない。この森が神社なんだ。千年前の人たちは、この森を神様として祀っていたんだ。
数十メートルの参道を歩きながら感じる、生命力の強さ。人が造った石垣など、巨木の根の力の前ではひとたまりも無く壊されていく。



あと千年経って、まだ人間がこの星の上で生き続けていたら、さらに千年分太くなって、参道を完全に塞いでしまった巨木の脇に小さな参道を造って、神様へのお参りを続けているんだろうな。


いや、でも、ちょっと待てよ。。。なぜ、最初から巨木を避けて参道を造らなかったんだ?・・・木は最初からそこにあったはずなのに・・・。・・・千年の歴史のある神社・・・。樹齢数百年の巨木。。。
なるほど・・・参道に生えて来たんだ・・・この巨木。
いやはや・・・千年って・・・途方も無い年月だ。


マンボウの町の入り江にて

2010-04-14 16:46:24 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
今回の旅の特徴は、プランが曖昧だということ。
それはいつもと同じだろ?と想うことには想うのだが・・・ならば、「いつも以上に」・・・と付け加えておこう。
その日の予定も、次の日の予定も、その場の時間と天気に寄って決められていく。変えられていく。

パールロードを疾走し、志摩スペイン村の横を通り国道260号に合流する。大まかに言うならば、ここからはずっと海沿いの道だ。海まで僅か1メートルの場所を走る場所なんてのもあったりする。およそ国道とは想えない、普通乗用車がすれ違えない細い道もあったりする。

今日中に、出来るだけ紀伊半島を南下したいと想い直走るが、いかんせん寒い。薄暗くなるとともに、気温の下がり方が尋常ではなくなる。こういう時に何を想いながら走るかと言うと・・・「テント張れる場所・・・ないかな・・・」である。出来れば、冷えた身体を温める「温泉」なんかがそばにあると尚いい。である。

紀伊半島のキャンプ場、無い訳ではない。むしろ、たくさんある。が、、、しかし、、、高い。ひどく高い所は持ち込みテント一泊四千円也。・・・ビジネスホテルに泊まれるってね。温泉旅館に素泊まりで泊まれるってね。こちとら、バイクのミニテント。出せても一泊500円まで。設備なんて何もなくていい。・・・つまり、どこだっていいってことだ。
出来れば、安心して張れる場所がいい。出来れば、目覚めた時の景観が素敵な場所がいい。あぁ、温泉がそばにあると尚いい・・・別に無くてもいいけど。

予想外の寒さと、障害のため想定外の長距離を走ったせいで、二日目にして相当疲れている。この疲労はごく自然に蓄積されていく訳だから、無理は禁物だ。早めにビバークして、早めに寝て、早めに起きる、これがいい。
休憩しながら地図を眺め、iPhoneで検索をして・・・いい場所を見つけた。
紀伊長島の古里キャンプ場。値段はテント一張り二千円。営業期間は夏。・・・つまり今は営業期間外だな。つまり、今はタダだな・・・だって営業していないんだから。いい場所見っけ。そばに古里温泉もある。五百円。
一応言っておくが、場所は借りるが、施設はほぼ借りない。一晩の料理のための水は積んでるし、焚き火で浜を汚したりしない。ゴミはちゃんと持ち帰る。ははは、エコライダー。これ、基本。

紀伊長島古里・・・町の魚はマンボウ。マンボウ食べちゃう。
夏は海水浴客で賑わうんだろうな。今はひとっこひとりいない砂利浜。入り江になっているせいで波は静かだ。

初めて行った北海道キャンプツーリングの時と比べると、荷物の量は減った気がする。余計なものは持たなくなった。洗練されてきたってことだな。
今回のニューグッズの目玉はガスランタン。今まではコールマンの電池式。小さいくせに恐ろしいくらい明るい。明るいのはいいが、電池が5時間しか持たない。そしてその灯りが白い。白い灯りは優しくない。・・・灯りはオレンジ色がいい。ほのかにボワーーーがいい。
ガスランタンはUNIFLAME製のコンパクト。家では試したが、外では初めて。ワクワクしながらガスをセットして点火する。ボワーーー・・・あれ?暗いな。・・・あれ?暗いぞ。・・・あぁぁ、なるほど・・・このランタン、暗いんだ。
結局、電池式ランタンも点ける。だって・・・鶏肉の焼け具合が見えないんだもの。ははは。
でも、役に立たない訳ではない。なんとなくボワーーーっとしていて、気分はいい。ははは。



晩ご飯は、伊勢のスーパーで買った伊勢鶏とネギと白米。ロゴスの焚き火台「ピラミッドグリル」で豆炭を燃やして炭焼きにする。いいねぇ、キャンプ。いいねぇ、地場モノを使ったご飯。旅だねぇ。あぁ、旅だ。



明日の朝ご飯のために、伊勢うどんも買っておけば良かったと、ほんの少し後悔しながら、温泉で温まったカラダを寝袋に入れるのであった。


胸に残るチクリチクリ

2010-04-14 05:06:37 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
☆おじさんからの指令~その弐。パールロードを走れ。

前出の松坂牛の牛丼を教えてくれた、道の駅で出会ったおじさん。伊勢近辺の地図を見ながら、何度もこう言った。
「パールロードは走らないといけん」「若い頃は良く走ったもんだ」「パールロードは美しい」「絶対に走って来い」等々。
とにかくパールロード一押しなのだ。

結局、前回の京都伊勢ツーリングの時は、時間の都合で走れなかった。そういうのは胸に残る。少し後悔めいたものとして、記憶の隅や胸の奥の方やカラダのどこかしらがチクリチクリとする。
時間外で入れなかったヴァチカンのサンピエトロ寺院も、修復中だったパリのノートルダム寺院も、駅員に意地悪されて行けなかったフランスのモンサンミシェルも、ついついプランから外してしまったフィレンツェの最後の晩餐も、自分の無力さのせいで行けなかったモロッコのマラケシュも、4WDの車じゃなかったから行けなかったオーストラリア・ノーザンテリトリーのバングルバングルも、最小催行人員に達せずに乗れなかったエアーズロック近郊を上空から眺めるセスナ機も、芸術に溺れ過ぎて見逃したスペイン・フィゲラスのサルバドール・ダリの美術館も、五日間寝坊を繰り返して結局行けなかった深夜特急に出て来るポルトガル・サグレスの岬も・・・全部が・・・他にも数えきれないほどの場所が・・・チクリチクリと僕を刺す。

とにかく僕は、パールロードを走らなければならないのだ。地図を見る限り、良い道そうだけど・・・まぁ何と言うか・・・くらいの感覚。おやじに薦められていなければ、パールロードは走らずに県道32号で志摩に向かうか、県道12号の峠を越えて南伊勢に出る。ルート的に選択肢はいくつもある。がしかしだ、僕はパールロードを走らなければならない。なぜなら、おやじが走れと言ってくれたから。なぜなら、チクリチクリはごめんだからさ。モノの価値なんて自分の目で確かめなければ決して分からない。そう、いいんだよ・・・それがただの海沿いの道だったとしても。


伊勢神宮を出たのは午後三時。ツーリングとして考えると・・・もうすぐ一日が終わってしまう。だが、僕の今日の行程は、まだ半分も来ていない。
パールロードを走るためには、まず鳥羽へ出なければならない。伊勢自動車道と伊勢志摩スカイラインがあるが、二つとも有料道路なので使わない。二つの道路の真ん中を通る県道37号を行く。ここら辺の道は、交通量は少ないし信号も少ない。快適に走れる。天気もいい。鳥羽で海に出て、ここからはずっと海沿いの道。海産物屋が数多く立ち並ぶ。休憩がてらちょこちょこ寄り道をしながら行く。もちろん、海産物屋もひやかしながら行く。牡蠣は安いが、他のものは結構高いな・・・。









いよいよパールロードが近づいてくると、対向車線に大量のライダーを見かけるようになる。つまり、メッカだ。ライダーのメッカだ。やっぱりね、良い道なんだよ。心が躍る。

パールロード・・・山あいを走る整備された道。伊勢湾、熊野灘、太平洋を見下ろしながら延々と続く道。これは気持ちがいい。ははは・・・パールロードだ。真珠の養殖が盛んな土地だ。だからパールロードなんだ。

走れて良かったよ、パールロード。おやじに感謝だ。胸に残り続けるチクリチクリにも感謝だ。チクリチクリが残っていなければ、こんな風に旅をすることもなかったのかもしれないからね。
きっと僕は、これからもずっと、こんな風に旅を続けていくのだと想う。胸のチクリチクリに導かれながらね。

志摩の牡蠣・・・食べてない・・・チクリチクリ。・・・牡蠣が美味しいのは寒い時期だな。いつか寒い時期に食べに来よう(笑)。


偶然という名の「本物の奇跡」

2010-04-13 01:20:31 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
伊勢神宮参拝。
11月の終わりに来た時よりも、人が多い。~11月の参拝の時の話、「神様に逢えた瞬間」(2009.11.26)と言うタイトルでブログを書いている。
大袈裟に言うと、神様は僕が来るのを待っていたっていう話。偶然の捉え方の問題と言う人、それはそうだ。でもすべての出来事は偶然と必然で成り立っている。そう考えると、偶然の捉え方って・・・実は重要なんじゃないかとも想う。

伊勢神宮の参拝所にかかる一枚の布。高貴な布。これは、察する所、こちら側の世界とあちら側の世界の「隔て」であると想われる。それが布であるというところに意味がある。前回のお参りの時、この布が十数秒間向こう側にめくれて、社殿を拝むことが出来た。それを僕は神風と捉えた。神様が迎えてくれたと捉えた。ははは、そりゃぁ、偶然さ。でも、そんな偶然が嬉しいもんじゃないか。神様と会話が出来た僕は、うれし涙を流した。
前回書いたのは、そんな話だ。

今回のお参り。何度も書くが、人が多い。多少の順番待ちがある。出来る事なら、真ん中で・・・いつもの癖だ。前列の人の参拝が終わるたびに、ジリジリと前に歩み寄って行く。
参道を歩いている時から、こう想っていた。「今日は無風だ」。
「隔ての布」、今日はピタリと閉じている。今日は無風だ、微動だにしない。隔ての布がめくれなくても、神様とは会話出来る。別に、そんなことは気にしない。
でも、僕は予感している。ピリピリとした予感を感じる。
ジリジリとにじり寄り、二列目まで来る。僕の前の人が参拝を終えたが、そこは真ん前じゃない。左斜めににじり寄る。もう少しで真ん中が空く。600キロも走って、せっかく伊勢まで来たんだ、真ん真ん中がいい。
真ん中の人が参拝を終えた。入れ替わりに僕がそこに入り込む。ジリジリとゆっくりと。
「隔ての布」の下辺がにわかに揺れ出す。まだ僕は真ん中じゃない。真ん中へ進もうとしている。僕は敢えて、極度にゆっくりと進む。隔ての布、45度の角度まで、こちらに向かってそよいでいる。そしてそこで止まった。
今僕は真ん中だ。礼をし、柏手を打ち、手を合わせて拝む。決して目は閉じない。ただ神様を待つ。
「隔ての布」は、ゆっくりと角度を上げていく。ほんとにゆっくりと角度をあげていく。それが風の仕業だということを忘れるくらいに、ゆっくりと確実に角度を上げていく。隔ての布、目を開けている僕の目の位置を超えた。社殿を臨む。
僕の目の位置を超えた「隔ての布」は、その後、90度まで達してピタリと止まった。90度・・・つまり全開だ。
僕は、目を開けたまま荘厳な社殿の佇みに目を凝らす。一言だけ、神様と会話を交わす。そして黙り込む。全開の時間は30秒以上続いたように想われる。
後ろに並んでいるおばちゃんの「良い風が吹いて来たわねぇ・・・」と言う声を聞いて、僕は目を閉じて、柏手を二回打ち参拝を終える。
参拝を終えた僕が最前列を右横にずれ、参拝待ちの人の群れを出終わる時、今僕が立っていた場所を振り返ると・・・「隔ての布」は、僕が参拝を待っている時と同じ・・・完全に閉じていた。


別に「奇跡」と呼んでも構わないでしょ?僕だけがそれを奇跡と呼ぶ分には、誰の差し支えにもならないはずだ。

全開の参拝の時と同様・・・帰り道の参道・・・僕は放心状態である。大はしゃぎしたい気持ちと・・・信じられないといった気持ちが入り混じった不思議な気分だ。
ただ・・・僕は確かにこう想っていた。・・・誰も信じてくれないって・・・。この話を真面目な顔で話したら、僕はきっと一生「ウソップ」呼ばわりされるに違いない。

この場所に来て、僕が何かをお祈りをすることはないと想う。僕にとってこの場所は、神様と会話をする場所だ。
そしてそれは、とても軽い会話だ。

「また来るよ、神様」


永久の意味

2010-04-09 23:51:45 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
プラプラと買い食いなんかをして伊勢での時間を過ごしたのは、急ぎ足の伊勢参りを少しでものんびりとした雰囲気にしたかったから・・・なんてね。

鳥居も宇治橋も、相変わらず厳か過ぎるほどに、そこに佇む。
伊勢の桜は、まだツボミ。一斉に咲き出した時にはどんな姿になるのか・・・五十鈴川沿いに立つ桜並木。さぞ・・・。

伊勢神宮に行くことがあったら、その境内に佇む巨木たちに目を向けて欲しい。千三百年の歴史を見守ってきた木の鼓動があふれている。天空を突き抜けるかのように、真っ直ぐに伸びる杉。その高さは50メートルにも及ぶ。そんな木がそこかしこに居る。


伊勢神宮には、式年遷宮という7世紀から行われている行事がある。20年に一度、社殿を造り直し、橋を架け替えるのだ。全部、まっさらな新品になる。次の遷宮は平成25年。橋は21年に架け替えられたばかり。

例えば、ヨーロッパには古い建造物が多い。何百年前のものなんてざらにある。がしかしである。今、その建物と同じものを造るのは、相当難しいらしい。それは、技術的なものもあるのだろう。材料的なものもあるのだろう。出来そうな気もするが、出来なそうな気もする。歴史というのは、きっとそういうものだ。

神宮式年遷宮・・・二十年に一度・・・千三百年の間続いている。技術は常に伝承されている。千三百年前と同じものが、確実に今造れるということだ。これには驚く。
千三百年前にそう決めた人が、何をもってそう決めたのかは知る由もないが、末恐ろしい壮大な計画だ。
千年以上壊れないものを造る技術はすごいと思うが(法隆寺とか)、永久に変わる事の無い建造物を造る方法・・・それがここにある。本当の意味での永久が、ここにはある。



おかげ横町~松坂牛と志摩の牡蠣

2010-04-09 00:04:55 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
浜風公園キャンプ場。テントを畳んでいると、散歩中のおばちゃんに声をかけられた。「寒かったでしょう?こんな時期にキャンプなんて・・・」。

はい、寒かったです。雪、降ってましたもん。


津から伊勢神宮内宮まで一時間。日射しはあるが気温は低い。でも、交通量は少なくて気持ちがいい。これぞツーリング。

前回の近畿ツーリングの時は、京都のテンペルとタットルの村から、日帰りで伊勢参りをした。その道すがら寄った道の駅で、ちょっと変わったおじちゃんと話をした。
何処へ行くんだ?と聞いてきたので、「伊勢参りだ」と答えると、二つばかりお薦めスポットを教えてくれた。
せっかく教えてもらったのだが、その時は時間が無く、その二つ共寄ることは出来なかったのだ。

☆おじさんからの指令~その壱。おかげ横町にある松坂牛の牛丼を食べなさい。

伊勢神宮の鳥居のそばにバイクを停めると、左側にお土産屋や食べ物屋がずらーりと並び立つ商店街の入り口がある。
前回来た時は、その道が「おかげ横町」だと思っていた。が、違ったらしい。おかげ横町は、その商店街のかなり奥まで歩いた先の左側の路地。実のところ、前回も探してはみたのだけれど、その「牛丼屋」、見つけられなかったのだ。

春休みのせいなのか、平日なのに、すごい人、すごい賑わい。目当ての牛丼屋(牛丼屋ではない、ホントは肉屋)、おかげ横町の奥の奥にある。見つけられたのはいいが、目に入って来たのは20人ばかりのすごい行列。・・・これは無理だな・・・と思いつつも、中を覗いてみると、並んでいるお客の目当てはコロッケ。松坂牛のコロッケ(多分130円)。店内の混雑はそれほどでもない。
よし、おやじとの約束だ、食うか!と心に決めた。松坂牛の牛丼、千円。

伊勢うどんといい、この牛丼といい、伊勢の味のなんと濃ゆいことか・・・オレは好きだ。関西の出汁は薄いと言うが、伊勢は激濃厚だ(笑)。あれ?伊勢は関西じゃないのか?東海か?

伊勢うどんも食べたかったが、お腹いっぱいになったので断念。商店街をプラプラ歩きながらお参りに向かう。
手頃な値段で色々とあるよ。伊勢えび入りコロッケ、松坂牛串焼き、てこね寿司、牡蠣フライ・・・ん?牡蠣フライ?・・・あぁ、牡蠣、有名なんだよな。志摩の牡蠣だ。。。
大粒牡蠣2個で200円。お腹いっぱいだったけど、一応食べておいた。ははは。美味しいねぇ、牡蠣。

さぁ、お参りに行こうっと。

黄金のチャップス

2010-04-08 03:55:29 | 2010春紀伊半島ツーリング~旅日記
今回の旅のニューアイテム。

☆前出のガスランタン。
☆iPhone。
★そして、黄金のチャップス。

ジーンズの上に装着する革のパンツ。履くのではなく、装着する。ここがポイント。

目的地に着いて、歩く時には外せる。脱ぐのではなく外す。ここがポイント。

ジーンズの上に革のパンツ。つまり、暖かい。

朝、すべての準備を整えて、いよいよ出発となる。おもむろにチャップスを装着する。腰のベルトを締めて、片足ずつ革を巻き付け、ジッパーを下ろす。なんか気合いが入る。走るって気がする。それは、ギターのストラップを肩にかける瞬間に似ている。最強の武器を手にする瞬間というやつだ。

ハートを強くする存在。それが、僕にとってのチャップス。

色は完全に黒いのに「黄金のチャップス」と僕が呼ぶのは・・・そんな理由があるからなんだ。


京都にて・・・チャップスを装着したまま繁華街を歩いていると、外人たちが僕のチャップスの写真を撮っていた?チャップス姿の僕の写真を撮っていた?「Hey,Look at him. Rider, Rider」と言っていた。

そう、僕は「黄金のチャップス」を纏ったライダーなんだよ。

どうぞよろしく。




☆trash box jam the bandライブ情報
4.10(土)西川口ハーツ。
OPEN18:00 / START18:30
ticket ¥1500
出演は21時頃の予定。

☆sing (from trash box jam)ライブ情報
5.2(日)新宿Naked Loft
OPEN18:00 / START19:00
前売¥2,000(+1drinkから)当日¥2,300(+1drinkから)

★FMラジオ番組「TRASH BOX JAM~SINGのライオンの詩」
FM78.3MHz[REDSWAVE] 毎週火曜日夜8時~9時。絶賛放送中。