最高神である天照大神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと~以下イザナギ)の子神にあたる。
伊弉諾尊は妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと~以下イザナミ)とともに、日本列島を構成する島々を生んだ。イザナミは火の神、迦具土神(かぐつちのかみ~以下カグツチ)を生んだ時の火傷のために亡くなった。イザナギはカグツチを殺す。
イザナギは、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉の国まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗し、ウジにたかられ、雷(いかづち)に囲まれたイザナミの姿。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。
辱めを受けたと怒り、イザナギを追いかけるイザナミ、逃げるイザナギ。
修羅場だ。これは修羅場だ。想像を絶する。かなり恐い。相当恐いが・・・逢いたくて逢いに行ったのに、腐敗してるくらい何だ。うじがわいているくらい何だ。雷に囲まれているくらいなんだ。イザナギ、どうして抱きしめてやらない。と、想わないでもない。
色々あって、イザナギは黄泉の国と地上の境の地上側出口を大岩で塞ぎ、難を逃れる。その時に岩を挟んで二人が交わした言葉が・・・また恐い。
イザナミが「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」と言うと、「それならば私は、一日1500の産屋を建てよう」とイザナギは言い返す。ここで二人は離縁する。
こうして、生きている人間を守るイザナギと、死者の住む黄泉の国の神となったイザナミは、対立することになる。
その後、イザナギが黄泉の国のケガレを落とすために禊(ミソギ)を行うと様々な神が生まれ、最後に天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊等(すさのおのみこと)の三柱の有力な神が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と呼ぶ。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原、夜、海原の統治を委任した。
この時、イザナギはすぐれた子供が出来たことを喜び、天照大神にすべてを託して身を隠したとされる。
【参考~「知っておきたい日本の神様」角川ソフィア文庫(武光誠著)と、WIKIPEDIA】
古事記や日本書紀に記されている日本神話。イザナミが葬られた場所・・・それが日本最古の神社、「花の窟(はなのいわや)」。
今回の旅、ここに来たくて紀伊半島一周を思いついたと言っても過言ではない。太古の日本人の自然崇拝の原点。八百万の神への信仰の原点とも想える場所。神道が出来上がるよりも遥か昔。勿論仏教でもなく、キリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもブードゥー教でもない。政治的要素を一切含まない、古代の人が自然を自然のままに受け入れた神様の原点。今も日本人の心の奥に深く根ざす、誇るべき純粋な信仰の原点。そんなものをこの目に焼き付けたくて、ここまで来た。うん、大袈裟だが、それが本心。
ひっそりとした小さな神社の入り口、参道に人はいない。ゆっくりと参道を歩く。
花の窟には社殿は無い。高さ45mの巨巌そのものを御神体としている。太古から巨巌そのものが神様として崇められてきた。
参道を抜けて小さな門をくぐると、木立の合間から御神体が姿を見せる。少し震える。
そのまま進み、巨巌の全貌を目の当たりにする。なんてことのない岩だ・・・ただの巨大な岩だ・・・なのに・・・直下に立つと身が竦むような気がする。
日本神話の信憑性なんてどうでもいい。神話は神話だ、神話でしかない。でも、なんでだろう・・・神話が生まれるずっと前から今日まで、人々が信仰の対象にし続けた理由・・・何かがここに眠っているような気がする。何もないこの場所に、何かが眠っているような気がしてしまう。
イザナミを祭る御神体の前に、生まれた途端にイザナギに殺された火の神カグツチを祭った小さな岩がある。大量の花を供え、熱心に祈る人がいた。信仰って美しいな・・・そう想った。ルールが無ければ、ルールにとらわれないでいいのならば、信仰は美しい。僕はそんな風に想う。
ここに来れて良かった。七里御浜で時間を費やせなかった代わりに、巨巌を見上げながら、しばし座り込み過ごす。あぁ・・・ここに来れて良かった。日本の神様は素敵だ。・・・違う、日本人が信じる神様の存在が素敵なんだ。
花窟神社。祭神はいざなみのみことと、かぐつちのかみ。年に二回、180mの大綱に季節の花を括り付け、花を以て、イザナミとカグツチの魂を祭る。
参道にある苔むした小さな岩に、綱がかけてある。そう、神様は、そこかしこにいる。僕たちの神様は、いたるところにいる。それがとても素敵なことなんだ。