つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

いじめ

2010年11月25日 | 日記
札幌の中学生が自殺をしてしまった。
原因は「いじめ」であったようだ。残念です。
ニュースで中学校名は報じられていないが、札幌市内でも偏差値の高い学校という話だ。
気に入らないのは、テレビにあらわれた学校長に真剣さを感じられなかったことだ。

先週だったか末っ子が学校から持たされた「いじめに関するアンケート調査」の用紙を出し、「これ記入するから隣に座っていて」と言った。
この用紙は長男、長女のころはなかった。末っ子が小学校に入るか入らないか位から導入されている。「いじめ」は状況があったかどうかではなく、「いじめられた」と思ったかどうかで判断されるようになった。相手のことを考えずに投げつけられる行為や言葉に傷つく子どもが増えたための、苦肉の対応である。

では「いじめられている」に○をつけると学校はどういう対応をするか。
まず保護者に連絡をとり、どういう状況なのかが話し合われる。相手がわかれば、相手の保護者が呼ばれ話し合いがもたれる。
末っ子のことで言えば親の目から見て、「いやだ」ときっぱりと言えない彼は幼稚園のころから「いじめられている」とみている。学校から保護者と一緒に書くようにと渡されるこのアンケートに、低学年のころは「いじめられている」に○をつけていた。先生から懇談を持ちたいと連絡をいただき、その都度話し合いを持っている。
その当時、息子には「●●君、意地悪されているよ」と、PTAの仕事で学校にいることの多かった私に声をかけてくれるクラスメイトがいた。だから、いじめられているとは思っていたが、そういうお子さんがいてくれる限り、子どもの力に任せようと考えていると答えてきた。そうやっているうち学年が上がるにつれ、彼は「いじめられているし、いじめたこともある」に○をつけるようになった。息子の言い分によれば「僕くらいは誰でもやられているから、僕も我慢できるし、きっと僕も誰かに意地悪していると思う」だった。最終学年になって「いじめられていないし、いじめてもいない」に○をつけた。彼をとりまく状況がよくなったとは決して思わないが、そう言える気持ちのゆとりが出てきたのだと思っている。
私から見て、彼に直接的な「いじめ」があるとは感じないが、遠回りな陰湿なものは感じている。だが、彼は「いじめられていない」という。だから、今、彼に対するいじめは存在しない。本当にそうだといい。ある日、彼の心が折れてしまうことはないのだろうか。親の心配はつきないものだ。そして、突然折れた途端に、いじめがあったことになるのだろうか。

今、テレビで「死んではいけない」とまことしやかに話す前出の学校長。
死んでしまいたいと思うような状況を見逃したことをもっと真摯に受け止めてほしい。
わかっている。学校には何にもできない。先生方に気がつくだけのゆとりも力量も不足している。それでも、テレビに出てくるときにもっと他にあるだろう!

若いあなたたち、死んではいけない。

今の苦しみを乗り越えたときに、また、同じ苦しみが来ることもある。
でも、人生苦しいことばかりじゃない。生きててよかったなや、生まれてよかったなと思える出来事も結構あるものだ。あきらめてはいけない。
時間はかかっても、笑って過ごす日が必ずやってくるものだ。必ず…。

死んではいけない。お願いです。死なないで…。
コメント
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