11月24日だったか、東京・恵比寿西の鎗ケ崎交差点付近で、高齢男性が運転する車がガードレールに突っ込む事故が発生した。テレビニュースで流れた映像を見るとすぐにピンと来た。JR恵比寿駅から中目黒方面に抜ける駒沢通りと、渋谷の神泉方面に向かう旧山手通りが分かれるY叉路。事故現場から100mほど先にはアメカジストアの総本山、ハリランこと、ハリウッド・ランチマーケットがある。地方の方でも訪れたことがあれば、わかると思う。
もっと詳しく言えば、すぐ傍に歩道橋があったが、数年前に撤去された。旧山手通りは高台にあって一帯には緑が多く、外国大使館や教会が立ち並ぶ瀟洒なエリアだ。東急東横線代官山駅前には、かつては表参道と同じく関東大震災の復興住宅、「同潤会アパート」があった。それも老朽化により1996年頃から解体され、2000年には住宅や店舗、広場や公園、集会所などからなる「代官山アドレス」に生まれ変わった。
かたや事故現場の交差点から旧山手通りに入った左手には、1970年の一期工事から築50年以上を経過した「ヒルサイドテラス」がある。低層でコンクリートの建物は時の流れを感じさせないモダンな作りだが、言ってみればこの完成が代官山の開発を象徴する。そしてもう一つ、忘れてはならないのが、DCブランドの一時代を築いた「ビギグループ」が本社および傘下ブランドのヘッドオフィスなどを構えていたことだ。
かつてはヒルサイドテラスのD棟にビギの総務部や流通部門の「B TRADING」本社など、C棟にはビギのプレスルーム、旅行代理店の「JETSET」が入居。そこから通りを少し先に行った東京バプティスト教会裏手にはビギの本社、そして渋谷カトリック教会の斜向かいにはグループ再編前の「PINK HOUSE」本社。その先の左手にも「MEN’S BIGI」や「BIGI ANNEX」が軒を並べていた。1980年代、旧山手通りは別名「ビギ通り」とも呼ばれていた。
それだけではない。通りから目黒川方面に下ると、ブランドのカタログから印刷までを手がける「PIECE WORK」やデザイン部門の「BIGI GRAPHIC DESIGN SECT.」が立地。川沿いにはビギの生産部門である「B・M FACTORY」本社があり、南部橋の袂には販売部門の「B・M・D」「B・FIRST」「M・SECOND」「MEN’S THIRD」「P・FOURTH」「D・FIFTH」などのオフィスを集結させたビルがあった。
オフィスのほとんどがコンクリート打ちっぱなしで、設計は世界的な建築家、安藤忠雄氏によるものだった。全盛期の1980年代半ばから40年近くが過ぎ、各社のビルはグループの解体やブランドの独立、身売りなどにより撤退や閉鎖に追い込まれてしまった。
だが、今も目黒川沿いに当時の佇まいをそのまま残すのが「MELROSE(メルローズ)」の本社ビルだ。緑の木々に囲まれたコンクリート打ちっぱなしの外観(1985年の竣工)は、ガラス張りで円弧状のテラスをもつ。その間を抜けるように見える壁面には、フーツラ・ボールド・コンデンスドの赤字体でブランドロゴが掲げられている。それでも、お花見のシーズンに川沿いを歩く若いカップルですら、その名を知るものは今や少数派ではないか。
MELROSEの設立は1973年6月1日。今から50年前になる。「ブランドは10年も続けばいい」と言われる中で、紆余曲折はあったにしてもこの長さは驚異的だ。同社ではブランド誕生50周年を記念し、今年6月1日から来年5月末までの1年間に50のコンテンツを実施し、社内にとどまらず社外も巻き込む企画を打ち出している。新たなコンテンツの発信は今後も継続し、本社がある青葉台のロケーションを生かした企画も検討中という。
同社は企業理念に挑戦と創造を実行する「ミッション」、物作り・商品・サービス・感動を追求する「バリュー」、革新性やグローバルな観点で事業を進める「プライド」の3本柱を掲げる。記念事業では運営8ブランドと来年50周年を迎える「ハローキティ」の協業商品を、全国の店舗(一部除く)と公式オンラインストアで11月の初めから販売をスタートしている。
8ブランドでハローキティと協業するのは、「ピンクハウス」「ティアラ」「リエス」「ソフィット」「インゲボルグ」「オラホロン」「コンバース・トウキョウ」。アイテムはハローキティをモチーフにしたグラフィックプリント、ブランドロゴの王冠とハローキティを組み合わせたデザイン、ツーウェイで着られるゆったりニットなど、どれもキティファンを意識したものだ。こうした取り組みで、ブランド間の交流を進めながら、メルローズを盛り上げていくという。
一ブランドに賭けるリスクの大きさから派生
そもそも、メルローズとはいったいどんなブランドなのか。ビギグループがかつて制作した企業案内にはこう書かれている。
「服-それはあくまでも着る人のためにある。」「1973年6月、(株)メルローズを設立して以来、私たちのものづくりの原点は、このごく当たり前の発想にある。私たちは服自身に強い個性を語らせることを好まず、むしろ着る人が自由にコーディネートして自分自身の個性を引き出すための服づくりを考え、実行してきた」
「その時どきの時代の空気をアレンジしたデザインの、微妙な変化はあるものの、核となるテイストに揺るぎはない。流行を取り入れながら決して流されないブランド、メルローズ。それはやがて、ひとつの『トラディショナル』として残っていくのかもしれない」
前半の部分は、どこかのグローバルSPAも同じようなことを語っていた。そう考えると、ブランドとして長く存続するには、普遍的なデザインを生み出す不変なコンセプトが肝心と言うこともできる。もっとも、ビギグループにとって創業ブランドの「ビギ」(1970年誕生)は、それまでの日本になかった都会的でエッジのきいたテイストだっただけに、メルローズをその対局に位置付けることで、ビギに抵抗のある層も掘り起こす狙いもあっただろう。これはマーケットを攻略する上でのビギグループの巧みな戦略と見てとれる。
メルローズが誕生した経緯ついては、ビギグループの創業者、大楠祐二代表は関係者などに以下のようなニュアンスを語っていた。
「デザイナーの知名度にだけ乗っかっていたら大火傷する。これほどリスクがあるビジネスはない」「ビギを創業した時から常にその思いはあった。だから、ビギがヒットした後にビギのニット部門を独立させ、メルローズを作っていたのだ」
1975年、ビギのデザイナー菊池武夫氏がグループから独立した。菊池氏は前年の74年に山本寛斎氏やコシノジュンコ氏ら6人でTD6を結成し、日本で初めてデザイナー合同のショーを開催した。その時、パリコレクションに参加した寛斎氏に刺激を受け、国内のマーケットだけで勝負する大楠代表の方針に反旗を翻したわけだ。
一方、大楠代表は菊池氏の元妻である稲葉賀恵(当時は佳枝)氏をチーフデザイナーに据えて、体制の立て直しを図った。ただ、今度はいつ稲葉氏に去られるかわからない。大楠代表には常にそうした危機感があった。当時、(株)メルローズの傘下には、「MELROSE」「LA-BREA」「SET UP」「MEN’S MELROSE」「5TH.CLUB」の5ブランドがあったが、どれにもデザイナー個人の名前はついていない。
メルローズ自体が米国・ロサンゼルスの通りの名前からとったものだ。理由は大楠代表が語ったコメントそのもので、企業案内に書かれたテイストがそれを如実に物語る。もちろん、その後もメルローズを去って独立したデザイナーはいる。それでもブランドがここまで存続できているのは、アシスタントの誰もが主任デザイナーに就任できるようにしていたからだ。
また、大楠代表は創業時には自ら売場の声やお客の反応を重視したマーチャンダイジングを行った。その姿勢はその後も変わらなかった。メルローズのチーフ会議はMDのバランス調整の場で、業界には内容が伝わってきていた。デザイナー側の「作りたい服」「ショーで見せたい服」という意見、営業側の「売れる服を作らせたい」という意見で、折り合いをつけるもの。大楠代表は売上げ実績のデータを元に、「作り・見せたい商品を3割」「売れる商品を7割」程度のバランスに落とし込ませていたという。
こうしたブランド創業時からのDNAがメルローズの根底には息づいており、それが50年という歴史に裏打ちされているのではないかと感じる。50周年を契機に企業理念のミッション、バリュー、プライドのもと、次なる50年が継続できるか。そのカギがものづくりであるのは言うまでもない。コンテンツやコラボアイテムを通じたマーケティング、それを具体化する記念事業の一つひとつがそのヒントになる。不変としてきたコンセプトをいかに時代に沿って解釈できるかもカギになると思う。
もっと詳しく言えば、すぐ傍に歩道橋があったが、数年前に撤去された。旧山手通りは高台にあって一帯には緑が多く、外国大使館や教会が立ち並ぶ瀟洒なエリアだ。東急東横線代官山駅前には、かつては表参道と同じく関東大震災の復興住宅、「同潤会アパート」があった。それも老朽化により1996年頃から解体され、2000年には住宅や店舗、広場や公園、集会所などからなる「代官山アドレス」に生まれ変わった。
かたや事故現場の交差点から旧山手通りに入った左手には、1970年の一期工事から築50年以上を経過した「ヒルサイドテラス」がある。低層でコンクリートの建物は時の流れを感じさせないモダンな作りだが、言ってみればこの完成が代官山の開発を象徴する。そしてもう一つ、忘れてはならないのが、DCブランドの一時代を築いた「ビギグループ」が本社および傘下ブランドのヘッドオフィスなどを構えていたことだ。
かつてはヒルサイドテラスのD棟にビギの総務部や流通部門の「B TRADING」本社など、C棟にはビギのプレスルーム、旅行代理店の「JETSET」が入居。そこから通りを少し先に行った東京バプティスト教会裏手にはビギの本社、そして渋谷カトリック教会の斜向かいにはグループ再編前の「PINK HOUSE」本社。その先の左手にも「MEN’S BIGI」や「BIGI ANNEX」が軒を並べていた。1980年代、旧山手通りは別名「ビギ通り」とも呼ばれていた。
それだけではない。通りから目黒川方面に下ると、ブランドのカタログから印刷までを手がける「PIECE WORK」やデザイン部門の「BIGI GRAPHIC DESIGN SECT.」が立地。川沿いにはビギの生産部門である「B・M FACTORY」本社があり、南部橋の袂には販売部門の「B・M・D」「B・FIRST」「M・SECOND」「MEN’S THIRD」「P・FOURTH」「D・FIFTH」などのオフィスを集結させたビルがあった。
オフィスのほとんどがコンクリート打ちっぱなしで、設計は世界的な建築家、安藤忠雄氏によるものだった。全盛期の1980年代半ばから40年近くが過ぎ、各社のビルはグループの解体やブランドの独立、身売りなどにより撤退や閉鎖に追い込まれてしまった。
だが、今も目黒川沿いに当時の佇まいをそのまま残すのが「MELROSE(メルローズ)」の本社ビルだ。緑の木々に囲まれたコンクリート打ちっぱなしの外観(1985年の竣工)は、ガラス張りで円弧状のテラスをもつ。その間を抜けるように見える壁面には、フーツラ・ボールド・コンデンスドの赤字体でブランドロゴが掲げられている。それでも、お花見のシーズンに川沿いを歩く若いカップルですら、その名を知るものは今や少数派ではないか。
MELROSEの設立は1973年6月1日。今から50年前になる。「ブランドは10年も続けばいい」と言われる中で、紆余曲折はあったにしてもこの長さは驚異的だ。同社ではブランド誕生50周年を記念し、今年6月1日から来年5月末までの1年間に50のコンテンツを実施し、社内にとどまらず社外も巻き込む企画を打ち出している。新たなコンテンツの発信は今後も継続し、本社がある青葉台のロケーションを生かした企画も検討中という。
同社は企業理念に挑戦と創造を実行する「ミッション」、物作り・商品・サービス・感動を追求する「バリュー」、革新性やグローバルな観点で事業を進める「プライド」の3本柱を掲げる。記念事業では運営8ブランドと来年50周年を迎える「ハローキティ」の協業商品を、全国の店舗(一部除く)と公式オンラインストアで11月の初めから販売をスタートしている。
8ブランドでハローキティと協業するのは、「ピンクハウス」「ティアラ」「リエス」「ソフィット」「インゲボルグ」「オラホロン」「コンバース・トウキョウ」。アイテムはハローキティをモチーフにしたグラフィックプリント、ブランドロゴの王冠とハローキティを組み合わせたデザイン、ツーウェイで着られるゆったりニットなど、どれもキティファンを意識したものだ。こうした取り組みで、ブランド間の交流を進めながら、メルローズを盛り上げていくという。
一ブランドに賭けるリスクの大きさから派生
そもそも、メルローズとはいったいどんなブランドなのか。ビギグループがかつて制作した企業案内にはこう書かれている。
「服-それはあくまでも着る人のためにある。」「1973年6月、(株)メルローズを設立して以来、私たちのものづくりの原点は、このごく当たり前の発想にある。私たちは服自身に強い個性を語らせることを好まず、むしろ着る人が自由にコーディネートして自分自身の個性を引き出すための服づくりを考え、実行してきた」
「その時どきの時代の空気をアレンジしたデザインの、微妙な変化はあるものの、核となるテイストに揺るぎはない。流行を取り入れながら決して流されないブランド、メルローズ。それはやがて、ひとつの『トラディショナル』として残っていくのかもしれない」
前半の部分は、どこかのグローバルSPAも同じようなことを語っていた。そう考えると、ブランドとして長く存続するには、普遍的なデザインを生み出す不変なコンセプトが肝心と言うこともできる。もっとも、ビギグループにとって創業ブランドの「ビギ」(1970年誕生)は、それまでの日本になかった都会的でエッジのきいたテイストだっただけに、メルローズをその対局に位置付けることで、ビギに抵抗のある層も掘り起こす狙いもあっただろう。これはマーケットを攻略する上でのビギグループの巧みな戦略と見てとれる。
メルローズが誕生した経緯ついては、ビギグループの創業者、大楠祐二代表は関係者などに以下のようなニュアンスを語っていた。
「デザイナーの知名度にだけ乗っかっていたら大火傷する。これほどリスクがあるビジネスはない」「ビギを創業した時から常にその思いはあった。だから、ビギがヒットした後にビギのニット部門を独立させ、メルローズを作っていたのだ」
1975年、ビギのデザイナー菊池武夫氏がグループから独立した。菊池氏は前年の74年に山本寛斎氏やコシノジュンコ氏ら6人でTD6を結成し、日本で初めてデザイナー合同のショーを開催した。その時、パリコレクションに参加した寛斎氏に刺激を受け、国内のマーケットだけで勝負する大楠代表の方針に反旗を翻したわけだ。
一方、大楠代表は菊池氏の元妻である稲葉賀恵(当時は佳枝)氏をチーフデザイナーに据えて、体制の立て直しを図った。ただ、今度はいつ稲葉氏に去られるかわからない。大楠代表には常にそうした危機感があった。当時、(株)メルローズの傘下には、「MELROSE」「LA-BREA」「SET UP」「MEN’S MELROSE」「5TH.CLUB」の5ブランドがあったが、どれにもデザイナー個人の名前はついていない。
メルローズ自体が米国・ロサンゼルスの通りの名前からとったものだ。理由は大楠代表が語ったコメントそのもので、企業案内に書かれたテイストがそれを如実に物語る。もちろん、その後もメルローズを去って独立したデザイナーはいる。それでもブランドがここまで存続できているのは、アシスタントの誰もが主任デザイナーに就任できるようにしていたからだ。
また、大楠代表は創業時には自ら売場の声やお客の反応を重視したマーチャンダイジングを行った。その姿勢はその後も変わらなかった。メルローズのチーフ会議はMDのバランス調整の場で、業界には内容が伝わってきていた。デザイナー側の「作りたい服」「ショーで見せたい服」という意見、営業側の「売れる服を作らせたい」という意見で、折り合いをつけるもの。大楠代表は売上げ実績のデータを元に、「作り・見せたい商品を3割」「売れる商品を7割」程度のバランスに落とし込ませていたという。
こうしたブランド創業時からのDNAがメルローズの根底には息づいており、それが50年という歴史に裏打ちされているのではないかと感じる。50周年を契機に企業理念のミッション、バリュー、プライドのもと、次なる50年が継続できるか。そのカギがものづくりであるのは言うまでもない。コンテンツやコラボアイテムを通じたマーケティング、それを具体化する記念事業の一つひとつがそのヒントになる。不変としてきたコンセプトをいかに時代に沿って解釈できるかもカギになると思う。