一ヶ月ほど前、興味深い記事を目にした。 「女性服はなぜポケットのある服が少ないの?」のタイトルで、東京・池袋のみらい館大明ブックカフェでポケットのある服を販売するフリーマーケットとお茶会が開催されたという内容だ。
イベントを主催したのは、今年3月にスタートした「レディース服に『ポケットあり』の選択肢を」のキャンペーンを発起したお方。フリマには、ポケットのある服を2点以上持ち寄った出店者と、ポケットのある服を探す人が集った。また、会場ではネットで寄せられた声に加え、来場者の意見なども掲示されたという。
ネットで寄せられたのは、「スカートのポケットが小さくてスマートフォンが落ちる」「オフィス内で名刺入れは常に携帯しておきたい」「会計時にイヤホンを一時的にポケットに入れたい」等など。フリマ来場者からは、「ポケットが小さくて定期を落とした」「自転車に乗るとポケットからスマホが落ちそうになる」「浅いポケットだと大判ハンカチやタオルが入らない」「(ポケットがあれば)ちょっとそこまで、手ぶらで行ける」「貴重品を持ってトイレに入ったら置き場がなかった」といった意見が寄せられた。なるほど、ジャケットやパンツにいくつものポケットが付いている男性にはわからない切実な問題のようだ。
一般論としては女性の服にはポケットが少なかったり、あっても物を入れるようなサイズでないのは確かで、それを不便だと感じている女性は少なくない。ただ、そんな女性の思いを形にしたメーカーがあった。ネットを主販路にする「アルヨ」だ。当初は日本人にフィットするコルセットを作ろうとしていたが、資金集めの一環でレディスウエアのネット販売にも着手。独自商品を提供するためにSNSなどでニーズを探ったところ、「男性のジーンズには長財布が入るが、女性のポケットは小さく、フェイクだ」との投稿が目に留まった。
そこで、アルヨはいろんなものが入るスカートを企画し、「酒瓶」も入る動画を発信したところ、これが大きな反響を呼んだ。スカートは200着が完売し、同様な仕様のパンツも瞬時で500着が売り切れた。大事なものは鞄に入れることができても、飛行機事故に遭うと手ぶらで脱出を余儀なくされる。大事なものは持ち出せない。大きなポケットはこうした問題を解決できる。ファッション性の追求なら他にもブランドがある。アルヨはビッグマーケットではないが、女性の切実な悩みに答える狭間と驚きをビジネススタンスにする。
レディース服に『ポケットあり』の選択肢をのキャンペーン発起人も同じ理由を語っている。飛行機事故の緊急時には乗務員が緊急脱出のマニュアルに従って「手荷物を座席や収納棚に残したまま」で、非常口からスライドを滑るように指示する。航空会社が取り決めたルールの詳細はわからないが、多分財布やパスポートを初めからポケットに入れていた場合は、そのまま脱出はできると思われる。それらをバッグに入れている女性にとっては、それだけ切実な問題なのだろう。「ポケットがあれば」との命題に行き着くのも納得できる。
キャンペーンの発起人は、サイト掲載商品でポケットの有無を調べたり、店頭でポケットのある服を探したが、思うようなものが見つからなかったとか。UV紫外線カットや保温機能と同じように、ポケットの有り無しでも検索できるのが理想だ。さらに願うのはポケットのある服へのアクセスの改善だという。キャンペーンでは11月の時点で約4000もの署名が集まり、同時アンケートでもポケット無しで服の購入をやめたことがあるという回答が8割もあった。12月には大手のECモールなどに署名や集めた声を届ける予定という。
ただ、女性服になぜポケットがないのかの理由はよくわからない。筆者なりに考えてみると、女性はハンドバッグを持つため、必要なものはそれに全部入れることができるからだろうか。また、レディスの服にポケットをつけるとその部分が膨れるため、デザイン的に女性らしい体型のラインが崩れてしまう等が考えられる。デザイナーズブランドの全盛期には、そうした固定概念に反抗する意味で、あえてポケットを多用した服も見かけた。デザイン的に奇抜だっただけでなく、ポケットがあれば収納の面で便利だったと思う。
軍服は動きやすさ、快適性が求められるため、男女とも適正サイズでなければならない。当然、体型が異なる男女ではパターンは違ってくるが、装備品は男女とも同じサイズで同数を収納すれば、ポケットの仕様も同じになる。現場作業用のユニフォームも業務内容に男女差がなくなりつつある状況を考えると、ポケットは男女とも同数ついていると思われる。だが、学生服では確かに男子の学ランと女子のセーラー服は、ポケットは全く異なる。学ランが胸、両脇、内ポケット、ズボンにも左右、両後ろがあるのに対し、セーラー服は確か上着の胸元しかなかったと記憶する(スカートにポケットをつけた仕様もあったか)。
最近はLGBTQやトランスジェンダーの問題から、学生服もトップとボトムが自由に組み合わせできるなど、性差を取り払う工夫が凝らされている。性格も気持ちも男性なら、多分ポケットにいろんなものを入れたいだろうから、男子の制服が着たいだろう。逆の場合はどうか。ポケットがあれば便利だと考える女性はいるが、心が女性の場合は逆にバッグがわりのカバンにものを入れたくなるかもしれない。その辺はよくわからないが。性差だけでなく、制服の範囲内なら着たいものを自由に選んでもいいのではないか。ポケットも然りだ。
男性はポケットの有用性を意識しなくなった?
ポケットについてのニュースに触れて、思い出したことがある。ヨウジヤマモトなどを手がけるデザイナーの山本耀司氏がポケットについて語っていたことだ。
女のひとがポケットに手を入れるようになったのはいつ頃からだろう。マレーネ・ディートリッヒあたりからか。いずれにしても、男物を着るようになってからのはずで、その男っぽいポーズが、今ではすでに時代に受け入れられて、単なる一つのモードになってしまったのは確かである。それでも、わたしは、ポケットをつけたくなる。
こんな下りだったかと思う。仕立て屋の息子である耀司氏が言うくらいだから、やはりレディスの服には過去からポケットをつけていなかったのである。
男であれば、ジェームス・ディーン。あるいは、ロバート・ミッチャム。つまりは、不良かヤクザにつきものの、拒絶、軽蔑、反抗、ひがみ、といったところである。東京、パリ、ニューヨーク。国を問わず、夜、ヤバい界隈をふらついていると、向こうからヤバいのがやってきたりする。そんなとき、ポケットの中の手は、すでに戦闘態勢に入っている。次の瞬間、男は鹿と鍵を握りしめる。
大都会の路地裏やストリートで生きる男にとって、ポケットに手を突っ込むのは「いつでもやるぞ」との意思表示とも言えるということか。デザイナーからすれば、ポケットは視覚に訴える武装の道具と解釈されるようだ。
子どもの時分、ポケットはわたしにとって宝物入れだった。何でもかんでも詰め込んだ。そして、今でもわたしにはポケットがカバン代わりである。財布以上の荷物をもって歩くことを軽蔑している。右側にお金、左側にハンカチ、ライター、キーホルダー、上着にパスポートの入る内ポケットさえあれば、旅行鞄もいらない。
男のポケットは潔く実用的である。ポケットが13個ほどついたヘビーデューティ・ウエアなるものを、わたしはずっと愛用している。これぞまさに実用の最たるものである。服に居住する。そして、旅に出る。
なるほど、ポケットに入れるほどの物しか持たない。それが創造力を掻き立てるということだろう。映画「男はつらいよ フーテンの寅」の主人公、車寅次郎はチェックのスーツに鯉口シャツと腹巻き、トランク一つで食っていける。そして、小銭は持たないと言われるが、腹巻きは札だけ入った財布を入れるポケット代わりでもある。それもフーテンという生き方を表したものだが、女性のキャラクターならそんなスタイルは無理だっただろう。
普通の服であっても、財布が快く入らなかったり、悪い位置についていて手に余計な動きをさせたりするポケットではいけない。手を入れて服のシルエットが変わるものは失格である。
ポケットの位置、形、数、口の大きさ、角度、袋の深さは、服の役割によって異なってくるが、概して布の比重が胃のあたりにかかって、落ちが決まっている服は、どこにポケットをもっていっても収まりがよい。実際、仮縫い中、鋏を入れると、笑ったように口が開くことがよくある。
たかがポケット、されどポケットである。デザイナーにとってはポケット一つに意味があり、様々なポケットがあるのは服それぞれで用途が違うから。ただ、あくまでポケットは人の手でものを入れるものだから、余分な動作を必要としないものでなくてはならないのだ。実に深い。
彼女が着るどんなドレッシーなイヴニング・ドレスにも、わたしはポケットをつけてあげたい。ポケットがなかったら、彼女はバッグをもたなければならないからだ。そして、バッグは盗まれてはならない。そういう何とも滑稽な神経を負わなければならないのは、何と不自由なことか。
法外な値段のダイヤのネックレスを買ったものの、パーティー会場で強奪されては困るから、当日は贋物をつけていく⎯⎯人間がモノを所有するということの痛ましき縮図でもある。
高級品がほしいと思ったときには高くふっかけられ、高級品を売りたいと思ったときには安く買い叩かれる。あまりに短絡的であるにしても、畢竟、所有という欲望は、最後には安く奪い取られるという行為に帰結するより他ないのだ。
だから、ポケットに入れておいで、君の大事なものすべて⎯⎯
最後は詩的な下りとなった。さすがヨウジさんだ。ポケットはあくまでもの入れるもの。ものを失くさないようにしまっておくもの。その考えはデザイナーであっても変わらない。だから、機能性が求められる。それは男性でも、女性でも同じはずだという考えなのだ。男女で体型は違えども、体幹に腕や脚は同じようについている。だから、ポケットにモノを入れる肘を折って手首を曲げる動作は同じになる。デザイン的に傾斜をつけたようなポケットは邪道と言いたいのかもしれない。
女性はバッグを持つから、ポケットなど必要ない。ポケットをつけない方が仕様が簡素化され、生産コストが抑えられる。長引くデフレ禍のもと、服の価格が下がった一方、レディスの服ではコスト削減の見地からポケットがカットされた面もなくはない。だが、女性でも男性と同じ行動、仕事、生き方をすれば、同じようにポケットが必要だと感じる。
レディスの服にはポケットは必要ないと考えるのは、ポケットがあって当たり前でその有用性をいつの間にか考えもしなくなった男性の発想かもしれない。ポケットを持ちながら、女性らしいラインも疎かにしない。そんな服がどんどん登場してくることに期待したい。
イベントを主催したのは、今年3月にスタートした「レディース服に『ポケットあり』の選択肢を」のキャンペーンを発起したお方。フリマには、ポケットのある服を2点以上持ち寄った出店者と、ポケットのある服を探す人が集った。また、会場ではネットで寄せられた声に加え、来場者の意見なども掲示されたという。
ネットで寄せられたのは、「スカートのポケットが小さくてスマートフォンが落ちる」「オフィス内で名刺入れは常に携帯しておきたい」「会計時にイヤホンを一時的にポケットに入れたい」等など。フリマ来場者からは、「ポケットが小さくて定期を落とした」「自転車に乗るとポケットからスマホが落ちそうになる」「浅いポケットだと大判ハンカチやタオルが入らない」「(ポケットがあれば)ちょっとそこまで、手ぶらで行ける」「貴重品を持ってトイレに入ったら置き場がなかった」といった意見が寄せられた。なるほど、ジャケットやパンツにいくつものポケットが付いている男性にはわからない切実な問題のようだ。
一般論としては女性の服にはポケットが少なかったり、あっても物を入れるようなサイズでないのは確かで、それを不便だと感じている女性は少なくない。ただ、そんな女性の思いを形にしたメーカーがあった。ネットを主販路にする「アルヨ」だ。当初は日本人にフィットするコルセットを作ろうとしていたが、資金集めの一環でレディスウエアのネット販売にも着手。独自商品を提供するためにSNSなどでニーズを探ったところ、「男性のジーンズには長財布が入るが、女性のポケットは小さく、フェイクだ」との投稿が目に留まった。
そこで、アルヨはいろんなものが入るスカートを企画し、「酒瓶」も入る動画を発信したところ、これが大きな反響を呼んだ。スカートは200着が完売し、同様な仕様のパンツも瞬時で500着が売り切れた。大事なものは鞄に入れることができても、飛行機事故に遭うと手ぶらで脱出を余儀なくされる。大事なものは持ち出せない。大きなポケットはこうした問題を解決できる。ファッション性の追求なら他にもブランドがある。アルヨはビッグマーケットではないが、女性の切実な悩みに答える狭間と驚きをビジネススタンスにする。
レディース服に『ポケットあり』の選択肢をのキャンペーン発起人も同じ理由を語っている。飛行機事故の緊急時には乗務員が緊急脱出のマニュアルに従って「手荷物を座席や収納棚に残したまま」で、非常口からスライドを滑るように指示する。航空会社が取り決めたルールの詳細はわからないが、多分財布やパスポートを初めからポケットに入れていた場合は、そのまま脱出はできると思われる。それらをバッグに入れている女性にとっては、それだけ切実な問題なのだろう。「ポケットがあれば」との命題に行き着くのも納得できる。
キャンペーンの発起人は、サイト掲載商品でポケットの有無を調べたり、店頭でポケットのある服を探したが、思うようなものが見つからなかったとか。UV紫外線カットや保温機能と同じように、ポケットの有り無しでも検索できるのが理想だ。さらに願うのはポケットのある服へのアクセスの改善だという。キャンペーンでは11月の時点で約4000もの署名が集まり、同時アンケートでもポケット無しで服の購入をやめたことがあるという回答が8割もあった。12月には大手のECモールなどに署名や集めた声を届ける予定という。
ただ、女性服になぜポケットがないのかの理由はよくわからない。筆者なりに考えてみると、女性はハンドバッグを持つため、必要なものはそれに全部入れることができるからだろうか。また、レディスの服にポケットをつけるとその部分が膨れるため、デザイン的に女性らしい体型のラインが崩れてしまう等が考えられる。デザイナーズブランドの全盛期には、そうした固定概念に反抗する意味で、あえてポケットを多用した服も見かけた。デザイン的に奇抜だっただけでなく、ポケットがあれば収納の面で便利だったと思う。
軍服は動きやすさ、快適性が求められるため、男女とも適正サイズでなければならない。当然、体型が異なる男女ではパターンは違ってくるが、装備品は男女とも同じサイズで同数を収納すれば、ポケットの仕様も同じになる。現場作業用のユニフォームも業務内容に男女差がなくなりつつある状況を考えると、ポケットは男女とも同数ついていると思われる。だが、学生服では確かに男子の学ランと女子のセーラー服は、ポケットは全く異なる。学ランが胸、両脇、内ポケット、ズボンにも左右、両後ろがあるのに対し、セーラー服は確か上着の胸元しかなかったと記憶する(スカートにポケットをつけた仕様もあったか)。
最近はLGBTQやトランスジェンダーの問題から、学生服もトップとボトムが自由に組み合わせできるなど、性差を取り払う工夫が凝らされている。性格も気持ちも男性なら、多分ポケットにいろんなものを入れたいだろうから、男子の制服が着たいだろう。逆の場合はどうか。ポケットがあれば便利だと考える女性はいるが、心が女性の場合は逆にバッグがわりのカバンにものを入れたくなるかもしれない。その辺はよくわからないが。性差だけでなく、制服の範囲内なら着たいものを自由に選んでもいいのではないか。ポケットも然りだ。
男性はポケットの有用性を意識しなくなった?
ポケットについてのニュースに触れて、思い出したことがある。ヨウジヤマモトなどを手がけるデザイナーの山本耀司氏がポケットについて語っていたことだ。
女のひとがポケットに手を入れるようになったのはいつ頃からだろう。マレーネ・ディートリッヒあたりからか。いずれにしても、男物を着るようになってからのはずで、その男っぽいポーズが、今ではすでに時代に受け入れられて、単なる一つのモードになってしまったのは確かである。それでも、わたしは、ポケットをつけたくなる。
こんな下りだったかと思う。仕立て屋の息子である耀司氏が言うくらいだから、やはりレディスの服には過去からポケットをつけていなかったのである。
男であれば、ジェームス・ディーン。あるいは、ロバート・ミッチャム。つまりは、不良かヤクザにつきものの、拒絶、軽蔑、反抗、ひがみ、といったところである。東京、パリ、ニューヨーク。国を問わず、夜、ヤバい界隈をふらついていると、向こうからヤバいのがやってきたりする。そんなとき、ポケットの中の手は、すでに戦闘態勢に入っている。次の瞬間、男は鹿と鍵を握りしめる。
大都会の路地裏やストリートで生きる男にとって、ポケットに手を突っ込むのは「いつでもやるぞ」との意思表示とも言えるということか。デザイナーからすれば、ポケットは視覚に訴える武装の道具と解釈されるようだ。
子どもの時分、ポケットはわたしにとって宝物入れだった。何でもかんでも詰め込んだ。そして、今でもわたしにはポケットがカバン代わりである。財布以上の荷物をもって歩くことを軽蔑している。右側にお金、左側にハンカチ、ライター、キーホルダー、上着にパスポートの入る内ポケットさえあれば、旅行鞄もいらない。
男のポケットは潔く実用的である。ポケットが13個ほどついたヘビーデューティ・ウエアなるものを、わたしはずっと愛用している。これぞまさに実用の最たるものである。服に居住する。そして、旅に出る。
なるほど、ポケットに入れるほどの物しか持たない。それが創造力を掻き立てるということだろう。映画「男はつらいよ フーテンの寅」の主人公、車寅次郎はチェックのスーツに鯉口シャツと腹巻き、トランク一つで食っていける。そして、小銭は持たないと言われるが、腹巻きは札だけ入った財布を入れるポケット代わりでもある。それもフーテンという生き方を表したものだが、女性のキャラクターならそんなスタイルは無理だっただろう。
普通の服であっても、財布が快く入らなかったり、悪い位置についていて手に余計な動きをさせたりするポケットではいけない。手を入れて服のシルエットが変わるものは失格である。
ポケットの位置、形、数、口の大きさ、角度、袋の深さは、服の役割によって異なってくるが、概して布の比重が胃のあたりにかかって、落ちが決まっている服は、どこにポケットをもっていっても収まりがよい。実際、仮縫い中、鋏を入れると、笑ったように口が開くことがよくある。
たかがポケット、されどポケットである。デザイナーにとってはポケット一つに意味があり、様々なポケットがあるのは服それぞれで用途が違うから。ただ、あくまでポケットは人の手でものを入れるものだから、余分な動作を必要としないものでなくてはならないのだ。実に深い。
彼女が着るどんなドレッシーなイヴニング・ドレスにも、わたしはポケットをつけてあげたい。ポケットがなかったら、彼女はバッグをもたなければならないからだ。そして、バッグは盗まれてはならない。そういう何とも滑稽な神経を負わなければならないのは、何と不自由なことか。
法外な値段のダイヤのネックレスを買ったものの、パーティー会場で強奪されては困るから、当日は贋物をつけていく⎯⎯人間がモノを所有するということの痛ましき縮図でもある。
高級品がほしいと思ったときには高くふっかけられ、高級品を売りたいと思ったときには安く買い叩かれる。あまりに短絡的であるにしても、畢竟、所有という欲望は、最後には安く奪い取られるという行為に帰結するより他ないのだ。
だから、ポケットに入れておいで、君の大事なものすべて⎯⎯
最後は詩的な下りとなった。さすがヨウジさんだ。ポケットはあくまでもの入れるもの。ものを失くさないようにしまっておくもの。その考えはデザイナーであっても変わらない。だから、機能性が求められる。それは男性でも、女性でも同じはずだという考えなのだ。男女で体型は違えども、体幹に腕や脚は同じようについている。だから、ポケットにモノを入れる肘を折って手首を曲げる動作は同じになる。デザイン的に傾斜をつけたようなポケットは邪道と言いたいのかもしれない。
女性はバッグを持つから、ポケットなど必要ない。ポケットをつけない方が仕様が簡素化され、生産コストが抑えられる。長引くデフレ禍のもと、服の価格が下がった一方、レディスの服ではコスト削減の見地からポケットがカットされた面もなくはない。だが、女性でも男性と同じ行動、仕事、生き方をすれば、同じようにポケットが必要だと感じる。
レディスの服にはポケットは必要ないと考えるのは、ポケットがあって当たり前でその有用性をいつの間にか考えもしなくなった男性の発想かもしれない。ポケットを持ちながら、女性らしいラインも疎かにしない。そんな服がどんどん登場してくることに期待したい。