
地方百貨店が次々と閉店や廃業していく一方、都市型百貨店も老朽化した店舗の解体後に再出店しないところが出始めている。百貨店という業態、その経営スタイルを根本から見直す時代に突入したということだろう。ただ、米国ではさらにエスカレートしている。有名百貨店の旗艦店であっても閉店は避けられず、親会社の戦略によっては統廃合や店舗のリストラが断行されている。現在の消費マーケットに百貨店という業態が必要とされなくなっているのか。少なくとも従来のスタイルでは生き残りが難しいというのは確かだ。米国のドラスティックな事例はやがて日本にも押し寄せるに違いない。

今年2月の半ば、米国の百貨店ブルーミングデールズは、サンフランシスコにある旗艦店をこの春に閉店すると発表した。米国ではショッピングセンターに百貨店が核店舗として出店することは珍しくない。ブルーミングデールズのサンフランシスコ旗艦店も、市の中心部にあるショッピングセンター、ウェストフィールド・サンフランシスコ・センターに出店している。階層は5フロア、売場面積は約3万m2とそれほど大きくはなかったが、ニューヨーク・3番街とレキシントンアベニューの間、59、60丁目間に挟まれたマンハッタン旗艦店に次ぐ規模。サンフランシスコ旗艦店はまさにマンハッタンのそれを模範にした店舗だった。
ブルーミングデールズのマンハッタン旗艦店は、1970年代から80年代半ばにかけて新しいライフスタイルを提供する美術館というコンセプトのもと、見せ物のような商品を主体に揃えることで、新しもの好きのニューヨーカーを惹きつけていた。確かに筆者が初めてニューヨークを訪れた1980年当時も、ブルーミングデールズの売場に並ぶのはオブジェのようなものが多く、「こんな商品、誰が買うの」という印象は否めなかった。ニューヨークを代表するもう一つの百貨店、メーシーズが保守的で中間層をターゲットとする大衆店だったのとは対照的だ。そのため、ブルーミングデールズはお客を飽きさせないように短サイクルでマーチャンダイジングを変化させることを徹底していた。

1990年代に入ると、ブルーミングデールズは魅力ある、他店にない商品こそ、店づくりの基本という考えにシフトした。95年ニューヨークに在住していた時は定期的に訪れて商品も購入したが、デザイナーやメーカーと組んで実用的でありながらスタイリッシュな商品を揃える手法が光っていた。売場のVMDも編集にそって、商品の見せ方を工夫。効率よく買い物できるように、わかりやすく買いやすいフロアづくりが進められた。また、セルフサービスでの買い物を促すために個々の売場も見直され、入店客のコートやバッグを預かるカウンターやトイレがあるフロアのレストコーナーではソファが配置された。顧客により満足いく買い物をしてもらうために各分野の専門家と組んで、すべての売場で商品についての情報サービスを強化するプログラムも構築された。
国土が広大な米国は車社会で、ルーラル立地にショッピングモールが展開され、百貨店はその核店舗として大量集客を図るビジネスモデルだった。ニューヨークやロサンゼルスといった大都市には旗艦店を展開しても、それはブランドロイヤルティを維持するためで、稼ぎの中心はルーラル立地の店舗に他ならなかった。ところが、2000年代に入るとデジタル技術が産業の主役になり、消費行動が変わった。Eコマースの台頭である。代表格のAmazonは、自社に限らず他の小売業やメーカーが商品を販売できるマーケットプレイスを擁した。そこでは百貨店とは比べ物にならない種類、品数の商品が揃うため、わざわざ車に乗って店舗まで買い物に出かける必要はない。郊外に展開する百貨店は次第に駆逐され始めていった。
さらに米国の景気は2000年後半から減速し、01年に後退局面に入った。主な要因は企業収益の悪化や設備投資の鈍化、ITバブルの崩壊だが、01年9月には同時多発テロが発生し、消費マインドまで冷え込ませた。08年には住宅市場の悪化によるサブプライムローン危機がきっかけで、投資銀行のリーマン・ブラザーズHDが経営破綻する。いわゆるリーマンショックが発生し、低迷していた個人消費に輪をかけて雇用情勢が悪化し、米国経済の減速は世界中に波及した。10年代に入ると、米国はリーマンショック後の世界的な景気後退から幾分は回復基調に転じたものの、数%の富裕層と大多数の低所得者層という格差はより先鋭化し、百貨店がターゲットとしてきた中間層は完全に没落してしまった。

メーシーズをはじめ傘下のブルーミングデールズなどは、生き残りをかけてラグジュアリーブランドや宝飾品を充実させたり、服飾に注力して購買意欲を喚起しようとした。しかし、大多数を占める低所得者層はディスカウントストアやアウトレットで十分で、百貨店での買い物に回帰することはなかった。多店舗化した百貨店は規模を維持することが難しくなり、店舗のリストラに追われるようになる。サンフランシスコに限って見ると、百貨店不況だけの問題ではなさそうだ。この街には2000年代初頭からクリエーターが集まり、独創的な作品を発表。ファッション業界からも注目されるようになった。一方で、ゲイが集まる街という側面をもち、LGBTへの理解を求めるムーブメントが全米に広がっていった。
もっとも、街で生まれるディープなカルチャーは、消費にも影響する。アンダーグラウンドではドラッグや犯罪と表裏一体だ。サンフランシスコは近年、治安が悪化してショッピングセンターは集客が減少し、ブランドの撤退が相次いでいる。2023年には高級百貨店のノードストロムが同市から撤退。アディダスやザ・ノース・フェイスなども後に続いた。明確な根拠があるわけではないが、街の変化は住民の購買力も左右しかねない。治安の悪化は百貨店の売上げを押し下げたのではないかとの見方が支配的だ。消費行動の変化、格差社会、そして治安悪化。米国が抱える構造的な問題は、百貨店の経営にストレートに響いているのは間違いない。存続するにしても、富裕層が多く訪れる大都市の旗艦店に限られるだろう。
専門店化やFC、投資で生き残る
では、日本はどうか。日本百貨店協会によると、2024年の全国百貨店売上高は前年比6.8%増の5兆7722億円だった。コロナ禍以前の19年が5兆7547億円だったから、5年ぶりに上回ったことになる。だが、売上げの回復を下支えしているのはインバウンド消費に他ならない。24年の訪日客による免税売上高は、19年比87.7%増の6487億円と急伸。これは全国百貨店売上高の11%を占めるほどだ。伊勢丹新宿店や日本橋高島屋が創業以来の最高益を挙げるのは、日本の富裕層やインバウンド需要が貢献している面が大きい。主に宝石・貴金属、高級時計、ラグジュアリーブランド、化粧品が売れているわけで、とても庶民の買い物ではない。その証拠に地方百貨店は廃業や閉店が続く。
言い換えれば、百貨店はもう大衆向けの存在ではいられなくなったということ。米国以上に百貨店経営は厳しくなっているのかもしれない。そうした状況を如実に表すのが2023年1月末に55年の幕を閉じた東急百貨店本店だ。本店の跡地では、Shibuya Upper West Projectと銘打った再開発プロジェクトが進行中で、2027年には地上36階建ての複合施設が建設される。施設は商業や外資系ホテル、住宅などで構成される計画だが、東急百貨店は再出店しない見通しという。それは都心の旗艦店に高級ブランドから食品までをフルで揃えるスタイルからの決別を意味する。ただ、酒類や化粧品、服飾雑貨など一定数の顧客を抱え、今後も売上げが見込める商品については、渋谷の街中で専門店として運営を継続している。

すでに東急百貨店本店の各売場でコーナー展開されていたものが、渋谷の商業施設に移転している。惣菜や菓子などを揃えたShinQsは渋谷ヒカリエに、菓子や弁当を扱っていた東急フードエッジ、雑貨や靴の+Qグッズ、化粧品の+Qビューティーは渋谷スクランブルスクエアに、菓子や惣菜などの渋谷東急フードショーは渋谷マークシティに、それぞれテナントで出店し営業を続けている。同本店が自ら運営するワイン専門店のTHE WINEは、旧本店裏手のオーチャードロード沿いに路面展開されている。こちらは後背の高級住宅街、松濤を意識したもの。百貨店の中で勢いを失ったアパレルはカットし、顧客がついて売上げが底堅い食品や化粧品、服飾雑貨は百貨店から退店するが系列の商業施設などで受け入れるという形だ。
大家としてテナントを集めるモデルから脱皮し、バイイングや編集に長けた売場を専門店として独立させて運営する。電鉄グループの有力コンテンツ=「物」として、人流という資源と接点を作っていく。東急グループにとっては渋谷という街が「器」という位置付けなのかもしれない。あとは売り手という「人」をいかに育成していけるかだ。同じ東京の電鉄系では、2022年に新宿店本館を閉店した小田急百貨店跡地に小田急電鉄が地上48階建ての高層ビルを建設する計画を進めるが、百貨店としての出店は未定だ。京王電鉄もJR東日本と共同で新宿駅の西南口地区の再開発を進めており、京王百貨店新宿店とルミネ新宿1が入るビルを建て替える計画がある。だが、百貨店が継続されるかは明らかではない。
一方、同じ電鉄系百貨店でも関西の近鉄百貨店は、フランチャイズチェーン(FC)への加盟で生き残ろうとしている。業種はスーパーやコンビニエンスストアからベーカリー、カフェ、グロサリー、眼鏡、生活雑貨、ドラッグストアまでと多岐にわたる。顔ぶれも奈良市に本拠を置くレストラン、ベビーフェイスの「ベビーフェイススカイテラス」。ピッツァ、エスプレッソ、グロッサリーの3通りが味わえるイタリアンレストラン「トウキョウメルカート」。東京神田に本店を構える松阪牛専門焼肉店「洋食屋伊勢十」。洋菓子の不二家が新規開発した業態「ペコリシャス」と多彩だ。HCのカインズともFC契約を結んでいる。

滋賀県に唯一残る近鉄百貨店草津店は、1階で高級スーパーの成城石井を運営する。こちらも2018年にFC契約を結んだもの。成城石井は物価高で消費者が価格にシビアになる中でも、売上げを伸ばす優良企業。スーパーの格付けでは、クィーンズ伊勢丹やビオセボンと並んで富裕層向けに位置する。客単価が高いことが売上げにも影響していると思われがちだが、必ずしもそうとは言い切れない。日本の消費者は年収の高低だけでは捉えられない。「ここでしか買えないから」という商品は、収入の多寡に関係なくお客を惹きつける。成城石井の看板商品であるチーズケーキなどがそうだ。それは年収がそれほど高くなくても、推し活には積極投資する行動に似ている。選択肢は価格よりも価値だからだ。
滋賀県という地方、近鉄というブランドも関係ない。首都圏からの転勤族を含め、成城石井を知っているお客なら、ここでしか買えないからという消費行動をとる。それが一定数の市場を形成すれば、経営は成り立つ。しかも、フランチャイズでノウハウが確立されているので、加盟店側は売場作りから売価変更まで本部の指導通りに行えば済む。だから、「(FCを)ぜひ、うちでやらせてください」との熱意が優った面もあるだろう。そして、運営する以上は自社の有能な社員を割り当て、売上げ伸長に弛まない努力を続ける。それで見事に結果を出したわけだ。FC運営で培ったノウハウは、独自で開発する小売りや外食の店づくりや人材育成にも活かせるのだから、なおさらである。

Jフロントリテイリングは、2024年に日本政策投資銀行などと設立した事業継承ファンドを通じて九州宮崎の老舗菓子舗「昭栄堂」の株式の過半数を取得した。同店が製造販売する九州産のバターと小麦粉を使った「九州純バタークッキー」は、卸売りを中心に年間約90万個を売る大ヒット商品。Jフロントは九州純バタークッキーを傘下の大丸松坂屋やパルコで販売したり、昭栄堂のノウハウを生かして新商品の開発にも挑むという。大丸東京店で行列が続くN.Y.キャラメルサンドに続く商品を自社でも持ちたいという狙いだろうか。東急百貨店のように専門店を運営するわけではないが、看板商品をもつ老舗への投資を通じて売上げと販路を拡大する。それが百貨店グループの次の一手と踏んだようだ。
売上げの底堅い商品はそれほど多くないように思える。だが、全国、世界に目を向ければ、埋もれている商品はまだまだある。それらを開拓することはできるはずだ。販売力があるスタッフを抱えていれば、まだまだ売っていける。富裕層やインバウンドで売れている商品を見ると、至って高感度で専門性の高いものも少なくない。それらは旗艦店の一部に組み込むより、独立させて個性を前面に出した方がお客の目に留まりやすい。洋の東西を問わず、百貨店はもう巨艦大砲主義では通用しない。一店に百貨を揃えるのではなく、一貨をできるだけ多く育てて売っていく。それが生き残りのカギになるのかもしれない。