自宅から1kmほどの距離にある鷲神社。14世期に栃木県周辺に大きな勢力を誇った小山市の外城跡である。
もうすぐ101歳になる叔母が入院し、遠出ができない。しかし悶々としていても仕方がないので渓流釣りトレを兼ね、我が町小山の史跡を改めて歩くことにした。小山市の歴史は南北朝時代の足利氏の時代に終わりを告げ、短い間だが親戚筋のお隣の茨城県結城家が統治していた。その結城家も越前に転封になり1601年に途絶え、小山市は天領となった。それからの小山市は小さな宿場町として生きてきたようである。その小さな宿場町も鉄道時代に入り、三線(東北線、水戸線、両毛線)の拠点となって今は栃木県第二の都市となっている。
さてこの小さな宿場町になる前の小山市。14世期の頃の栃木県を治めていた小山義政は主城の祇園城。外城の鷲城、長幅城、神鳥谷平城、中久喜城と多くの城を構え勢力を伸ばしていたそれをよく思わなかった足利尊氏の差し金で関東の各地の武士たちによって攻め落とされた。
神社への道は杉木立。樹齢200年ほどの杉木立で、所々には雷に打たれ焼け焦げた幹が見られたが、枯れて危うくなり、伐採されたようだ。子供の頃は家から2kmほどあり子供のテリトリーとしては遠かったのであまりきたことはなかったが、空洞になった大杉の中ではよく遊んだものだ。
参道入り口にあった石仏、石碑。この神社の背後は思川という河川で、環境設備や運動公園が作られたため、石仏も移動してきたらしい。
この辺りには城址だけでなく7世紀の古墳などがいくつかあり昔から生活の基盤にむいていた土地だったのだろう。
外城二号墳内部
鷲城に至る道には馬頭観音碑二つほど。
土塁や虎の穴があり、深く掘られた掘割が多く見られる。
鷲城本丸跡に建てられた鷲神社。この跡紹介する神鳥谷のいう字もこの鷲神社の鷲も、動物を神と崇めた、おそらくアイヌ語から来ているものと想像されているが、倭人が住む前にはこの辺りにはアイヌ人が住んでいたのでは、と推察されるのだが、どうなのだろうか。
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