興南高校野球部監督で同校校長、興南学園の理事長を務める我喜屋優氏が復帰45年を機に語ったインタビュー記事が県内外で波紋を広げている。我喜屋氏は5月22日付の産経新聞で、「辺野古移設問題は、気持ちはいろいろありましょうが、決まったことには従わなければいけません」「地元の新聞記事は目を背けたくなる」などと述べていた。発言の真意や沖縄政治への考えなどを聞いた。(聞き手・吉田健一)
名護市辺野古への新基地建設などについて語る我喜屋優氏=6月28日、興南高校
―名護市辺野古への新基地建設について、「決まったことには従わなければいけない」と語っているが、真意は。新基地建設についてどう考えているか。
「スポーツでの一般論を語っただけだ。何をするにもルールやマナーがあり、配慮しなければならない。配慮がないと単なる闘い、戦争になる。それが大嫌いだと話したら、『最高裁判決に従え』となった。新基地建設は国と国の問題だ。辺野古問題を含む基地問題は大変だと思うし、抗議行動する(市民の)気持ちも分かる。ただ、誹謗(ひぼう)中傷からは何も生まれない。どんな相手でも敬意を示せば動かないものも動く。(機動隊員らにも)子どもや奥さんもいる。誹謗中傷は絶対に駄目だ」
―新基地建設を巡って国と県の対立が深まっている状況をどう見ているか。
「対立する状況は客観的にも主体的にもいい気持ちではない。どうにかして解決してほしいが、私の力では解決できない。私はスポーツの人間だ。ただ、与野党に関係なく政治家が本当にあるべき姿を話し合うべきだ。必ずどこかに妥協点がある。辺野古の海は思い入れがある。また(出身地の)玉城も開発により魚が減った。経済発展の裏には、自然が壊され、悲しいこともある。辺野古に限らず、沖縄は自然が相当壊されてきた」
―新基地建設については。
「私は全体的なことは言うが、ピンポイントでは言わない。ただ、かたくなに抵抗しても無駄だとしたら、政治家が『金と土地』を用意するから離れた所、たとえは悪いが避難場所、新しい分譲地を用意するからそこで暮らさないかとか金も用意する配慮も必要だ。(新基地が)できた場合は、早く(沖縄側に)返してくれと要求すべきだ。離島対策や教育の場として提供できるよう、例えば15年後には返してくれと。そういった交渉力がある政治家がいればいいと思う」
―かつて稲嶺恵一元知事の公約に基づき政府は「軍民共用、15年の使用期限」案を閣議決定したが、後に廃止された。そして、普天間飛行場は返還合意から20年がたっても使用されている。
「交渉力のある人が『約束したぞ』と世界に発信すべきだった。私はスポーツと教育の枠から提言している。沖縄経済が発展して自立型になってほしい。ただ、経済が発展し過ぎると『守礼の邦』沖縄がなくなる。それを今取り戻している。今、子どもたちは自分で物事を考えようとしない。思考力が低下している」
―沖縄の地元紙は見るに堪えないとの発言の真意は。そして、沖縄のメディアに求めたいことは。
「(辺野古や高江で機動隊と市民が)取っ組み合いするような記事を見た時に子どもたちがどう思うかということだ。その意味で違和感を覚える時はある。『ルールやマナーを守り、人格と人格の交渉が必要』と、新聞が指導してほしい。また、新聞が色を出すのはいいと思う。ただ、相手(機動隊員ら)の家族を不幸にしてはいけない」
―来年冬の知事選を控え、我喜屋氏の待望論も聞こえる。知事選に出馬する可能性は。
「(私の仕事は)教育、スポーツを通して沖縄を幸せにすることだ。かつては同情された内地に対して反骨精神を持って、日本を超え、沖縄を見本にすることに100%のエネルギーを使わせてほしい。期待されるのは悪くないが、教育、スポーツを通しての我喜屋を県民のために使ってほしい。政治となると敵味方あり、また誹謗中傷もある」
☆
記事を読む限り我喜屋氏の発言は、良識ある県民なら誰も異論を挟む余地の無いバランスの取れた意見だ。
我喜屋氏の実績は高校野球の選手時代、都市対抗の選手時代、都市対抗の指導者時代、母校の監督時代、そして母校の校長・理事長としての経験などいろんな場面で能力を発揮。
現在講演会などで引っ張りだこの沖縄の著名人である。
ただ、沖縄2紙にとって不都合なのは沖縄2紙の報道には異論を持ち、辺野古移設の阻止の「市民ら」には反対意見を持っていることだ。
そこで異論を許さぬ琉球新報が「我喜屋人気」に危ぐするのは、来年の県知事選に翁長知事の対抗馬として我喜屋氏を推す声が聞こえることだ。
琉球新報は正直に自分の懸念をぶっつけた。それがこれだ。
>来年冬の知事選を控え、我喜屋氏の待望論も聞こえる。知事選に出馬する可能性は。
我喜屋氏は軽く受け流したようだ。
が、琉球新報はあらぬ腹を探り、とんだ藪を突いてしまった。
琉球新報が批判したことにより、逆に我喜屋氏のバランスの取れた見識・指導力などが県民の注目を浴びる結果となった。
翁長知事の対抗馬として帯に短し襷に長しの保守系人材の中、政治経験こそ無いものの我喜屋氏の指導者としての豊富な経験と実績を見れば、我喜屋優氏こそ保守系知事候補者の最右翼ではないか、と考える今日この頃である。
念のため琉球新報のバッシング記事の基になった産経のインタビュー記事を再読したが、ますます我喜屋氏こそ県知事足るべき人財と確信した。
産経新聞
2017.5.22 10:09更新
【沖縄返還45周年】
「差別されているとは絶対に言いたくない」「独立は非現実的、常識ある沖縄になって」 我喜屋優・興南高野球部監督が語る
沖縄の本土復帰(昭和47年)から45年がたった。かつて米統治下に甲子園の土を踏み、7年前に監督として興南高校(那覇市)野球部を沖縄県勢初の甲子園春夏連覇に導いた我喜屋優氏(66)=興南学園理事長、興南中・高校長=が、祖国復帰への喜びや沖縄の課題などを語った
「沖縄がひとつになった」
私が初めて内地に渡ったのは昭和41年夏、興南高が甲子園に初出場したとき。1年生で選手ではなく手伝い要員でした。パスポートをつくりB円(軍票貨幣)を円に替え、海を越えて汽車に乗る。全て初めての経験でした。遠い遠い甲子園でした。試合は1回戦で負けましたが、みんなが「沖縄、沖縄」「チバレヨー」と応援してくれました。
43年夏。3年生のときに主将として4番として甲子園に立ちました。ベスト4に進出しました。沖縄では大騒ぎです。沖縄のチームは「判官びいき」で声援を受けてきましたが、本土の学校と実力で肩を並べたと実感しました。甲子園から本土と沖縄の交流が始まり、僕らの活躍で本土復帰がぐっと近づきました。
甲子園で新聞記者の質問は奇妙でした。「日の丸を見てどう思うか」「英語で勉強しているのか」…。日の丸は幼い頃から正月に家で掲げていました。沖縄は日本国の一部で、日本人という意識で生活をしていました。
「日の丸はいつも掲げています」「教科書は日本語です」と答えましたが「外国人扱いされている」「沖縄のことが理解されていない」と感じました。
高校卒業後、本土に渡り野球を続けました。本土復帰の47年5月15日、大昭和製紙北海道に在籍し、会社でお祝いをしてもらいました。気持ちは常に日本人でしたが、祖国復帰実現の喜びをかみしめました。
沖縄に戻り、母校の監督として甲子園での春夏連覇を達成できました。沖縄県勢の夏の優勝、春夏制覇は初めてで「沖縄がひとつになった」と実感しました。
「地元の新聞記事は目を背けたくなる」
本土復帰から45年。沖縄が本土の模範にならなければいけないと思い続け、今もそれが目標です。小さいことにこだわりません。「差別されている」とは絶対に言いたくありません。
生徒には内地でリーダーになれるよう指導しています。井の中の蛙にならず、人生のスコアボードの勝者になれ、日本そして世界で花を咲かせよう-と。
沖縄の現状に違和感を抱いています。沖縄には礼儀を重んじる空気が昔からあり、おじい、おばあが生き字引としてああだこうだと教えてくれました。その伝統が失われつつあります。何でも反対するのもいいが本土と切り離されていた元の沖縄に戻ってしまう。子供たちが本土に渡ったとき「沖縄って何やっているの」と言われます。
夏の高校野球沖縄県大会開会式の国旗掲揚は、ほとんどの人が起立しません。日の丸を「俺は反対だ、嫌だ」と言う。スタンドで起立するのは私と興南の生徒、関係者だけです。
地元の新聞(琉球新報、沖縄タイムス)の記事は目を背けたくなります。基地問題で反対運動をする人たちも相手をののしったり、警察官の人権を無視したり…。そこまでやってほしくない。地元紙は一方的なことしか書かない。それこそ沖縄の人間はそうなんだと見られてしまいます。
生徒には「平等性、公平性をもって判断しなさい」と指導しています。子供は多種多様な事象に触れて大人になっていきます。「新聞も全国紙がネットで一瞬のうちに読めるから、どうとらえているのか考えなさい」と言っています。創造性、独創性を身に付けさせることが大事です。
辺野古移設、決まったこと
米軍普天間飛行場(宜野湾市)辺野古移設問題は、気持ちはいろいろありましょうが、決まったことには従わなければいけません。「世界にはルールがいっぱいある。それに従うことが必要だ」とも指導しています。日本、世界で通用する人に育てるためです。最も嫌なのは「決まっても従わないのが沖縄の人」と言われることです。
県内から「独立」「自己決定権」なる言葉も聞こえてきますが、非現実的です。「常識ある沖縄」「さわやかな沖縄」になってほしい。子供たちが地元紙のプロパガンダ的主張に洗脳されることが怖い。多様な考え方を咀嚼して答えを導き出すことが、沖縄の人に求められていることです。
沖縄にはポテンシャルがあります。本土と沖縄のいいところを認め合い、「互助の精神」を持つことでスポーツはもとより観光や経済はさらに良くなります。
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■我喜屋優(がきや・まさる) 昭和25年、沖縄県玉城村生まれ。43年、夏の甲子園大会に興南高野球部主将、中堅手として出場しベスト4。卒業後、大昭和製紙富士から大昭和製紙北海道へ。平成元年、大昭和製紙北海道の野球部監督に就任。19年春から興南高監督となり、同年夏、24年ぶりに甲子園出場。22年、沖縄県勢として初の春夏連覇を果たした。同年7月から学校法人・興南学園理事長に就任。23年4月に興南中学・高校の校長も兼務。(高木桂一)
【おまけ】
奥茂治さんのFB
奥茂治
韓国の当局から私の器物損壊の証拠は、私が貼り付けた慰霊碑を専門業者に依頼して剥がしたけれど文字はもう読めないので元に戻せない、だから損壊罪だと言うのです。
私は施設管理者が所有者の許可をうけず手を架ける事は法治国家では許されない、と主張して逆に管理者を検察に告訴する予定です。そんな戦いの最中に駆け巡ったのが、日...本の週刊ポストに謝罪碑は韓国に寄贈したものと掲載されているそうです。私と吉田清治の長男は寄贈はしていないし所有権の放棄もなされていないので所有権は吉田家にあり法治国家において自力救済は許されない暴挙だ徹底的に戦うつもりです。
韓国側から同じ土俵に上がってくれたので逆に感謝です。しかも慰安婦騒動の基となった吉田清治の証言は虚偽として逮捕された奥茂治が慰霊碑に取り替えたと掲載されています。皆さんの励ましが何よりの力です。
『父の謝罪碑を撤去します 慰安婦問題の原点
「吉田清治」長男の独白』大高未貴著産経新聞出版