アデレード(ルピタ・ニョンゴ)は、夫(ウィンスト・デューク)と娘と息子と共に夏休みを過ごすため、幼い頃に住んでいたカリフォルニアの家を訪れる。だが、不気味な偶然の出来事に見舞われ、過去のトラウマがフラッシュバックするように。やがて、自分たちとそっくりな“私たち=アス”がやってくる。
監督・脚本のジョーダン・ピールが、前作『ゲット・アウト』(17)同様、今回も、ドッペルゲンガーか、はたまたもう一人の自分に体を乗っ取られるジャック・フィニイの『盗まれた街』(ボディスナッチャー)か、という突飛なアイデアのホラーの中に、皮肉とブラックユーモアを入れ込んでいる。昔のテレビドラマ、ロッド・サーリングの『ミステリーゾーン=トワイライトゾーン』のような、味わいがある。
互いがそっくりな黒人家族。貧しい者が豊かな者を襲いに来る。そして血で血を洗うような闘いが繰り広げられる、という悪夢には、昔とは違った形で広がりを見せる貧富の差や、移民の問題が内包されているのだろう。
ラストのどんでん返しは、なるほどそうくるか、という感じだが、勘のいい人は驚かないかもしれない。
【今の一言】そんなマイケルが、この後バーキンソン病に侵されるとは…。
「KyodoWeekly」7月22日号から「7月の映画」共同通信のニュースサイトに転載
https://www.kyodo.co.jp/national-culture/2019-08-21_2194396/
『キネマの天地』(86)(1986.8.6.銀座松竹)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/da7dffec4b054eee90dfc062c634aa9a
クリント・イーストウッドの『運び屋』、ロバート・レッドフォードの俳優引退作『さらば愛しきアウトロー』に続いて、今度はバート・レイノルズの遺作が公開される。彼らは1970年代に全盛を誇った映画スターという点で共通するだけに、彼らの映画を見ながら育った自分としては、やれ引退作だ、遺作だとなると、時の流れを感じて感慨深いものがある。
この映画でレイノルズが演じているのは、自身をモデルにした映画スター役。友人役で太って白髪になったチェビー・チェイスも出てくる。ストーリーは、かつての大スター、ヴィック・エドワーズに「国際ナッシュビル映画祭」から特別功労賞贈呈の知らせが届く。ところが、行ってみると、映画祭とは名ばかりの、映画マニアによる自主上映的なものだった。憤慨したヴィックは空港に向うが、途中で故郷のノックスビルに立ち寄ることにして…というもの。
大学時代はフットボールの選手として鳴らしたがけがで断念、スタントマン出身、『コスモポリタン』誌でのヌード披露、華麗なる女性遍歴、というレイノルズの経歴が、そのままエドワーズに移植されている。
そして、レイノルズの出演作『脱出』(72)『トランザム7000』(77)のワンシーンで、エドワーズとレイノルズが共演するなど、まさにセルフパロディの連続。浮き沈みが激しかった映画人生という点でも、どこまでがレイノルズでどこからがエドワーズなのか…という感じになる。
つまり、アダム・リフキンの演出は、自身の出演作を冒頭に挿入したジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』(76)同様、役と本人を一体化させることに腐心しているのである。
当然そこには、残酷さと優しさ、悲哀とユーモアが入り混じり、見ていて複雑な心境を抱かされるのだが、オープニングの悲しそうなエドワーズ=レイノルズのアップが、ラストは実にいい笑顔に変わるところがこの映画の真骨頂。
出演予定だったタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の撮影前に亡くなったことが惜しまれるが、欲を言えば切りがない。本人が納得して老いた自分をさらけ出し、最後は笑顔で終わることができたのだから、いい遺作になったというべきなのだろう。
バート・レイノルズが亡くなった
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/ae0626a3fd0a980e7387e6a9a88609d8