日が短くなりました
当地の今朝の日の出は、6時05分。
老師の撞かれる6時の梵鐘、この時間にようやく日の出、
自宅を出て禅堂までの道はまだ真っ暗、
寒くないのがありがたい。
全員、座についていましたが、老師が席に着かれ仕切りなおし
月光の曲が鳴る。
禅堂の設え。
すぐに身を調えるのではなく、「兀兀(ごつごつ)と坐定につく」と教えにある、
ゆっくりゆっくりと全身をもみほぐし体勢(姿勢)を作る。
そしてイメージしてみてください、
今までの人生で出会ったり聞いた事、
すばらしいこと、理想の人のすべてを想い浮かべて、
その姿を自分がなったように、イメージで姿を映してみる。
そのことを道元禅師様は「他をして自に同ぜしむ」
自分が消えて、しかる後「自をして他に同ぜしむ道理有るべし」
また「海の水、辞せざるは同事なり」
つまり海といわれる私は、水という他を拒まない、
すなわち、海には多くの川、清濁の水など拒まなくすべてを受け入れている、
そして大きな海になるのです、そして万物がこの中で生きとし生ける」
今、坐禅をしている私は小さけれど、色々なことに合い、
それらを吸い込んで生きていく、
大きな人間となり大きな命に替わっていく。
気が付いたら、今まで自分と思っていたものが、
そのまま色々な状態の中
で生きているのです。
その自分を知る、「坐禅とはそんな時間」です。
坐禅をしているときは何も考えない、ただ呼吸をしているだけである。
この事は「死んでいる姿と同じ」。
そのことは、私と言う人間の「生きている姿」
でも在ります。
禅語に「言語道断」というのがあります。
(「言語道断」とは、言葉に表せないほどあまりにひどいこと。とんでもないこと 。もってのほか。もと仏語で、奥深い仏教の真理や究極の境地は言葉では 言い表せない意。)
「言語道断」とさとされ、何かをやめた瞬間、
そこに真如すなわち仏が現れることが有る。
「月1回の坐禅を楽しむ意義は、
一人ひとりが此れを自分のものとして、モット発酵していくことです」
と、老師は結ばれた。
振舞われる「塩粥・一菜」の味は格別、
座り終わった達成感と共に、美味しくいたたけたものでした。