夜明けで、外が白めくのが座中、
すなわち、「一炷の途中」に有るのです、
その変化が
神秘的に感じられるのは坐禅の効用かも。
暗闇の静寂の中、老師の撞かれる6時の梵鐘、
同時に、般若心経の読経とあわせる手拍子。
参加者は既に坐蒲(ざぶ)の上。
老師も席に戻られ「小鐘3つ」、正式のスタートです。
座中のお話しは2つ、
一つはいつも申すことですが・・・の前置きから、
身を整え、息を整え、思いを整える3要素、
そのありようを「目覚める(きちんとすることの比喩)」という言葉で解説された、
今一つは、仏法では「人事を尽くして天命を待つ」ではなく
「天命にまかせ、人事を尽くす」のだとも。
話しは続く
今朝は、「目ざめる」目が覚める、この言葉の持つ働きを
坐禅と関連付けて話す。
「目がさめる」は「何にか」で有る、
まず「座る姿勢」に目覚める、
具体的には、足・膝は坐蒲の上にしっかりつけ、お尻との三脚で安定を図る。
腰を立て背骨をしっかり立てることに目覚める。
イメージとして頭の頂点で天をつく勢い、そうし姿勢に目覚めよ。
顎を引く「鼻と臍を対せしめんことを要す」
すなわち鼻筋とおへそを一直線になるよう背筋を伸ばす。
「舌上のあざとにかけて、唇歯相つけ、目は須らく常に開くべし」
すなわち、目はいつも開いている。
息は鼻からしか出入りしない。
そのために「呼吸」の力に目ざめよ。
鼻息かすかに通じ、かすかにとは漢字で「微」と書く、
隣の人に悟られないひそかに、されど己はしっかりと意識して行う。
正身端坐して己をしっかり目覚める。
この後、心の動きは 雑念に持っていかない、「心の持ち方」に目覚める。
これらすべてが整い、今やるべき事、
やらなければ成らない事を一生懸命やる、これを「人事を尽くす」といいます。
中国のことわざに「人事を尽くして天命を待つ」がありますが、
仏法(禅)ではそうではない、
己に降りかかるあんなこと、こんな事、それぞれは「天命である」、
避けようも無い天命。
そうしたことに愚痴は入らない、己の手の届くことをやる
これが禅の進め。
そのことを一口で、「南無阿弥陀仏、南無・・・とも言う。
この名前を冠した南無観世音菩薩などの仏様も有る。
色々な「仏の教えは天命の教え」
、天命の世の中を踏まえつつ、それに立ち向かう力、
これが「人事を尽くす」である、
生きるとは「天命に任せ、人事を尽くす」事。
そのことが足を組み正身端坐する「坐禅に集約」されている。
小鐘1つで合唱、坐禅の終了。
入り口の「高札」でも、今日は当山の「開山基」
真宗などの報恩講などと同じ開祖様への感謝の日。
禅堂の設えも何時とちがった様子。
坐後に頂く、お菓子とお茶、楽しい雑談のひと時。