
新聞を読んでも本を読んでも声を出して読むことはない、いつも声を出さずに読む黙読をしている。ここ数年、声を出して読む音読はエッセイサロン同好会で作品を読むときだけになっている。その作品は新聞掲載分の月間賞と自作の短い随筆、多くても合わせて3編まで、時間にすれば数分あまり、声を出して読むというほどでもないが。
自作の文を声を出して読むと見直す個所が分る、という。なんとなく照れくさいのが先にあり周囲に聞こえるような読み方はしていないが、ぶつぶつくらいは何度か読んでいる。そんな読みでは先入観もあり誤字や誤変換を見落とす。手抜きしてはいいことにならないと戒めることはしばしば。
ある方のブログに「私」の字をあなたはどう読むか、という問いがあった。私は「ワタシ」と読んでいるが、ある時期、文部省は「ワタクシ」と読ませたという。どちらも話し手その人で一人称として思っているが、意識して使い分けたといえば、「わたくしごとですが」と少し言いにくい場面で使っている。
同好会でも読み方で話しがでる。例えば義父や義母、黙読なら「ちち、はは」と読んでも理解できる。しかし、声を出して読み、それを聞いてもらうときは黙読の読みでは登場人物の関係が分らず、作品が理解できなくなる、場合もあろう。こうしてみると、書くも読むも心してかからねばと「私」一人で思い直す。